2008年12月01日

白幣山  はくへいざん

■姫路市広峰■

参道十八丁の碑.JPG  本殿裏から望める白幣山.JPG


 バスの終点駅広峰で降りると、「従(これ)是(より)廣嶺山十八丁」と記された石碑が3本出迎える。石碑は嘉永7(1854)年のものが古くて大きく「嶺」の字が見え、大正14年、昭和25年と並ぶ。
 大正7年刊行の『牛頭天王』は「廣峯山の文字、往古は廣峯山とこの峯を書きしが、後土御門天皇の明應6(1497)年度に勅宣あり、廣嶺山と嶺の字に改められる」と記し、素盞鳴尊を主神に仰ぐ社(やしろ)の名は峯の字を使い廣峯神社(牛頭天王)で、山名には五百年余りの歴史をふまえ廣嶺山の表記である。
 本殿の裏手に望める白幣山の標高は約 260メートル、中腹にあったという吉備社、荒神社は現在山頂に遷され、この白幣山には別名も多く「幣(みてくら)岳(だけ)・白(しろ)幣(にぎて)峯(みね)・伊多て(いだて)神山(かみやま)・西ノ峯と呼び、白幣峯について素盞鳴(すさのおの)尊(みこと)の御威徳により霊気立ち昇り、あたかも白(しろ)幣(にぎて)の閃(ひらめ)くがごとくこれが山名の起こりになった。西ノ峯と呼ばれる訳は廣嶺山には三峯あり、神殿はその中央の嶺に建ち、その東の峯には当社の摂社天(あま)祖父(さい)神社あり」と『牛頭天王』。天祖父神社への道筋に繁栄時の社家屋敷の崩れかかった土塀がなぜか侘しい。
 話をもどそう、神社への山項までの距離を示し路傍に立つ丁石の一丁は約109メートル、すると18丁は1962メートル。色づいた雑木の合間に見える山陽自動車道が今の高さを示し、青い海の彼方の島がかすみ眼下は絶景だ。大鳥居脇の十六丁石を過ぎ本殿にさしかかると、石段脇に当国加東郡市場村近藤文蔵再建(慶応2年)の常夜燈が目につく。
 近藤文蔵は海運業を営み姫路近辺の南部海岸の干拓を自力で手がけた人で、たつの市御津町成山新田の前身は近藤新田であった。疫神や農耕神として播磨一円に名高い廣峯神社への常夜燈寄進は、開拓地が緑なす平野に生まれ変わることを祈願してのことであろうか、周旋方同村長兵衛の文字も見える。
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2008年11月23日

土土   どど

■姫路市東蒲田■


土土の旧地.JPG  墓地近くの山添神.JPG


  夢前川下流域左岸の蒲田地区はいぶし瓦の民家が寄り合い、山あり川あり田畑ありと恵
まれた農村集落の風情を残していたが、昭和五〇年ころ圃場整備事業が始まると村の様子は一変したように記憶する。
 村の伝えによると、夢前川の河川改修までは濁流が山際まで流れ込み、いつもじくじくした湿地でおおわれ、少しずつ高くなった土地に岸上、高畑、籾取、下蒲田、山所(やまじょ)とよばれる五垣内が起こり、なかでも東に屹立する蒲田山麓にある山所と呼ばれる集落の起原は古く、発(ほっ)田(た)大明神と称された蒲田神社の旧地といわれる。山道を抜けると荒川の西庄地区へとつながり、東西をむすぶ主要な山越え道に山麓の清流を暮らしに用い田の水を引き、恵みをもたらす山の神を祀った風習が人知れずひっそりと今も続いているのに出合える。
 「土土」の場所は夢前川左岸の地区南端にあって、山の突端が夢前川に大きく突き出たところで、むかしはさぞかし通行に不自由であったろうと思える。そんな場所に大雨が降ると崖をしたたる水は一挙に水嵩(かさ)を増し、渦を巻く濁流が夢前川へ白いしぶきをあげつつなだれ込み、その時ドドッと耳をつんざくような轟音がする。この激しい水音ドドッが地名の由来となったに違いない。
水が落ち込む場所は川底をえぐり深い淵となる。立ち止まるだけで身が吸い込まれるかのような危険きわまりない場所に、若い僧と白菊という美しい娘がこの渕に身を投げたという悲恋物語が生まれた「稚児ケ淵」伝説である。
 ちなみに、東京の蒲田といえばオールドファンに懐かしい松竹キネマの撮影所があったところ、『東京地名考』は「カマタ」は「泥の中の島」の意のアイヌ語、あるいは一般に「泥深い田」を意味すると記す。蒲田神社の旧名発(ほっ)田(た)大明神は泥土が流入する地を徐々に開発
した国土開発の神を暗示するものかも知れない。



 
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2008年11月08日

大道ノ下  だいどうのした

■姫路市市ノ郷■

稲荷社と銀杏の木.JPG    昔ながらの店構え.JPG

  
 川のそばに市が立ち『枕の草紙』に「しかまの市」と詠まれたのは平安時代中期のこと、その縁(えにし)によって市川の名が起こり、架かる橋を市の橋といい、上流の神崎郡には市川町が生れた。
 しかまの市の遺称地はもう少し北のほうにあって、市内城東町字市場がその遺称地だといい、その北方には市内の最古道が広峯山下を書写山麓へかけて伸び、書写東坂本には「東横大道」の古い地名が残っている。
 市之郷の大道とは近世に起こった山陽道を指し西国街道とも呼ばれ、明治八(一八七五)年に木橋が架けられるまで対岸の一本松との間に渡し舟が通じ、この道を藩主が江戸へ上られるとき大庄屋・庄屋格ほか苗字帯刀のものが御着宿まで御見送り、または御出迎えに出るのが決まりであった。また明治二年三月五日の洪水で市川附定渡船壱艘が流失、舟中にあった櫓壱挺、宿駕籠壱挺も流れたと沿岸の村々へ御船役所からの通達が「姫路藩室津会所文書」にみられる。
 姫路城下への着岸地は市川橋西詰交差点の北あたりで、旧道の一画に昔ながらの木目(もくめ)にガラス戸で客を迎える「かね久(ひさ)」の屋号をもつ藤本建具店がある。敷地内には南向きの白崎稲荷社、脇の大銀杏(いちょう)が街道の安全を見守り、うだつのある民家も残るそんな歴史を踏襲する道も、昭和一一年土地区画整理により大変革、その様子を一三の古い字名(あざめい)からしばし懐古してみよう。
 まず中河原、昭和四年に丸尾町に改称された丸尾、宮上は(みやげ)と読み、旧山陽道に面する丁田、大善畑は現在楠町となり隣接して大善田もあった。宮西、西野々(にしのの)、JR西踏み切り辺りは辻ケ内、高田は現在の若菜町にあたる。なが―い土手は長堤(ながどえ)とよばれ今は日出町、大道ノ下は山陽道の南下にあって丁田と隣接まっすぐ西へ向かう、大縄場は現在東郷町大縄場として復活。丹念に描かれた大縄場を囲む石垣は字限図に波(は)戸(と)と記され、河原だとか久太夫河原の名は今水底(みなそこ)に埋もれている。


 

 
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2008年10月31日

柚木河原  ゆぎがわら

■姫路市西延末■


手柄山遊園地を望む.JPG  ニ川合流点.JPG


 姫路駅構内から西へ向かう列車は二本、一本の山陽本線は手柄山遊園地の脇を直進して西へ向かい、姫新線は当地区北端の冑山神社下をかすめ通過して岡山の新見を目指す。ちなみに、姫路の姫と新見の新の頭文字の組み合わせが姫新線の呼び名の始まりである。
「風土記」に「冑の落ちた処は冑丘」と語りかける十四の丘の一つ、冑山神社の山頂から至近距離に望める手柄山は、これまた十四の丘に登場する山で、古代の二つの丘に抱(いだ)かれた当地区の歴史的風土は奥深いものがありそうだ。それを確かめるべくしばし時を巻き戻してみよう。
たとえば、遊園地内の赤や緑に塗られた観覧車と付近のビルを排除する。完成したJRの高架とこれに沿った県道も地下へ潜らそう。時折通る姫新線だって線路を撤去すれば列車はもう来ない。すると条里制に倣(なら)い開発がすすめられた一町の田は、いまも「町田」の小字で引き継がれ、北には「加賀(かが)杭(くい)」の小字で平安時代に設立された勧学院の食(じき)田(でん)が広がりをみせる。東からの船場川の流れ込みに加え、水尾川の派流が二筋三筋と交錯(こうさく)しつつ村の中を南下する流れは絶えることはなく、清らかな水と太陽の光に育(はぐく)まれた稲穂の垂れる風景が浮かび上がってきた。
そんな集落の最南端の川淵に河原が生まれると人はそこを柚木(ゆぎ)河原と呼んだ。柚木とは「結い」の転訛ではないだろうか。結いとよばれるこの制度は字のごとく手を結び支え合うことを言い、お互いが助け合う相互扶助の仕組みは、農耕を成業(なりわい)とする日本が他国へ誇れる風習であった。田植えの時期になると一軒の田植えを数軒または十数軒で助け合う労働時の貸し借りの習慣を手結いということから「田結い」と書かれることもあり、田井や田居、鯛垣内などの当て字で市内に残る。
田の手入れや水路の整備に力を結集した古き良き時代を反映する結いの心は、香(かぐわ)しい植物の柚の木に引き継がれ、集落に潜在する知的な文化の息吹きを発散している。


 
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2008年10月24日

あへ  あえ

■姫路市網干区宮内■

先導する猿田彦神.JPG    沼高田遺跡の碑.jpg


 福井の庄28カ村の系譜を引き継ぐ氏子の祭礼網干津の宮秋祭りの日、赤い顔に大きな目、前に突き出た高い鼻、猿田彦神の先導で神輿渡御の主役を受け持つのはむかしも今も敷村宮内である。 
網干は古い歴史を持つ海辺の町で、地名のいわれを津の宮の神事の一つ放生会に漁師が網を干して参詣したからと、はからずも神仏混淆の名残を地名の起りとする。
 放生会よりもさらに古い起原をもつ神事に「饗(あえ)のこと」という祭祀がある。「饗」とは神に食事を捧げおもてなしをする事で「こと」は神事を意味し、慶長9年(1604)の宮内村検地帳の中に消滅したが注目度の高い「あへ」がみえる。あえの位置は地元を熟知する住民サイドから古い検地帳を基におよその位置が確定できて、この周辺の字名から「沼・高田」遺跡の碑が建つ。付近の朝日中学校建設工事期に石器や縄文土器や弥生遺跡が出土しており、最近の報告例から和久の旨戸遺跡(弥生時代)も至近距離だ。なお『播磨国風土記』の訳者は朝日山の南方から西方にわたる宮内を南限とする一帯を大家里と比定、元は大宮里と名乗っていたと記し、この大宮の位置こそが「あへ」場であって、現在の津の宮の原初の姿ではないかと考えられる。     
 幾星霜を経て海が南へ後退して陸地化が進むと広大な平野が誕生、大宮は品(ほん)太(だ)天皇の意思を受けて、海に、より近い場へと移転した。これが現在の魚吹八幡宮であろう。跡地は大和王権の進出により大家里(おおやけのさと)と改名したと考えられる。大家(おおやけ)とは屯倉を指すもので、饗庭(あえば)に近い勝原区丁の家(や)久田(くだ)は三宅(みやけ)田(だ)の可能性を秘め小字地名として健在で、付近にこれまた国指定史跡瓢塚古墳があるのも見逃せない。
 湿地を意味するヌマの語が示すように大津茂川のほとりで稲を栽培して、田の神を客(まろ)神(うど)と呼び最高の饗応をする「あえ」の神事は、米作りに命と慈しみの思いをかけてやまない日本人の豊穣の神々へのもてなしの行いが祖先のまつりであった。
posted by 早春 at 13:21| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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