2009年02月14日

桃ケ坪  ももがつぼ

■姫路市白浜町中村■

中村白浜の町並みと麻生山.jpg  宇佐崎踏切の百合崎地蔵堂.jpg


 私蔵する昭和五五年の住宅図を見ると、むかしのままの畦道が図面上に幅を利かしていたのだが。いつしか整然と区切られた新しい洒落た町並みに灘の里は変貌していた。
白浜土地区画整理事業が始まったのは昭和四八(一七九三)年ころ、この年をキッカケにして奈良時代の条里制区画を踏襲する田の遺構跡は大きくくずれていった。
 条里制遺構を確かめる手だてとなるものは、意図的に区切られた田の並び具合と共に、小字地名に条里制度と思(おぼ)しき地名が残っているかどうかが鍵を握る。なかでも「五ノ坪」のように数字の付く坪名があればまず疑いなく、これが複数残されていると立派な古代の田制が図上に点描されていると考えてもよいだろう。
 では表題の数字ではない「桃ケ坪」はどうなのであろうか。果物の桃は普通「もも」と発音するが音読みすると「とう」、すなわち十(とう)に通ずることから十ノ坪に桃の文字を宛がう例は多く、これは昔話に登場する桃から生れた桃太郎のなつかしい記憶が脳にインプットされているからかも知れない。当町内には三の坪だとか、十の坪、十一の坪、柳ガ坪など条里地名が点在していて、なかには十カ坪の変え字と思われる遠ケ坪(とおがつぼ)も見うけられる。だが古い字限(じげん)図(ず)上にこれらが必ずしも条里制度の配置上にある訳ではないのが、思案にくれるところである。ともあれ他所には一ノ坪の変え字である市ノ坪や石ノ坪があり、松ノ坪は条里制度三十六ノ坪の末(まつ)ノ坪かも知れず、梅ケ坪の梅はおそらく埋めの変え字であろう。      
 海岸線の後退で広大な湿地が生まれると、条里制を取り入れて良田とした人びとは、石を切り出し組み立てて分水するという灌漑技術を駆使して「糸引(いとひき)井(ゆ)」を成し遂げた同一集団の可能性がもてる。彼らは後世渡来人と呼ばれ歴史上にその偉業を高く評価されている。
posted by 早春 at 10:52| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月03日

御薬園  ごやくえん

■姫路市仁豊野■

病院裏の市川河畔.JPG   病院横の難民キャンプ場跡で遊ぶ子ら.JPG


 奔放に流れる市川の中流域の両岸に、たっぷりと養分を含んだ付け州が生まれると鳥がさえずり、やがて実り豊な畑地へと変身を遂げる。 
 元禄時代、右岸に堤防が築かれて洪水の被害がやや減少の気配を見せはじめたころ起立したという河原近くに、通称「茶畑」と呼ばれる土地があり、この南には「桑畑」という土地もあったが、じつはこの桑畑と隣接する小字(こあざ)「肥後藪」跡にまたがり現在聖マリア病院が建っている。ちなみに肥後藪とは庇護藪の当て字で、洪水災害を未然に防ぐために藩主の庇護のもとに、竹など根のはびこりが早い植物が植えられた竹藪である。
 明治初期に茶畑の地を含む一帯が御薬園に組み入れられ、茶畑の名は消滅したが、もともと鎌倉時代に臨済宗の祖である栄西禅師が中国から持ち帰ったのが始まりとされる茶は、貴重品で薬として扱われ、御薬園で栽培される薬草の一つであった。広峯山の東麓にあたる仁豊野の西山裾にも古い茶畑があったとの伝承から、仁豊野の茶作りは意外と古い歴史を秘めているようだ。山上の広峯神社それに随願寺の日々の務めのなかで、お茶の需要は高く貴重であったはずである。発想を飛躍させれば寺社秘伝の薬草茶の栽培が行われていた茶畑だったかもしれない。
 御薬園の研究史によれば、江戸時代になって薬草に対する認識が深まり、幕府が設けた薬用植物園は「薬園」「御薬園」と呼ばれ、これらの御薬園でとりわけ力を入れて栽培されたものが朝鮮人参だったようである。八代将軍吉宗の政策による諸国産物の調査は各藩に薬園の設置をうながし、商人・本草学者などによる薬園の開設が進み、江戸後期にはほぼ日本全土に広がったとのことである。
 姫路藩でも江戸末期の万延元(一八六〇)年姫路藩士岡庭小兵衛が、船津町の西光寺野で朝鮮人参を栽培した実績もあるが、御薬園での朝鮮人参の試作情報がないのは、やはり土質が合わなかったからだとしか思えない。
posted by 早春 at 14:41| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

才  さい

■姫路市広畑区 才■

犬塚.JPG   修正会の供え餅.JPG

 夢前川の下流域右岸に位置する「才」という名のいわれは定かではなく『才村の歴史』によると元徳元(一三二九)年の資料を初見とするものの「この地の道端に往古道祖神が祭られていたので才の名が出来た」との『姫路市町名字考』を頼る。
 しかし播磨国細見図寛延二(一七四九)年に対岸の山崎から川を越えて才を通る室津道が記され、天保二(一八三一)年渡し場近くに地蔵尊が祀られたが、この地蔵尊じつは仏道に因む賽の河原の地蔵であって道祖神ではなかった。そこでひょっとすると才のはじまりは古代の韓国語で硬い金属を表す語、サヒではなかろうかと疑問がもたげた。技術や文化の促進力となったサヒ(鉄)はサビ・サム・ソホ・ソブと変化して地名に多々定着する。
 南山麓を西へ向かうと間もなく沿道の則(のり)直(なお)に差し掛かる『飾磨郡誌』に才の枝村と記された則直は大山咋命を祀り、両村ともに書写山との深い縁故関係が往来際の「犬塚」の説明板に記される。「書写山円教寺の別院として慶雲山満乗寺(まんじょうじ)に飼われていた賢い犬は、人の言葉をよく聞き分け手紙を首に掛け書写山との間を往復していたが、この犬が病死したので村人たちが丁重に葬り塚を作り弔(とむら)った」と。
 嗅覚がすぐれた犬は産鉄一族が頼りにする山師を指し、鉱脈を求めて書写山中を則直山中を回遊して朗報を伝達した犬と呼ばれた山師の存在は貴重だった。書写山との深い縁(えにし)はこれだけではない、才村明細帳に「書写山鬼会に鏡餅供え申し候、毎年大般若経転読致され候に付き布施米も指上げ。」毎年一月十八日の書写山修正会の鏡餅は才村が奉納するしきたりで、三個の供え餅は「直径一メートル厚さ十センチ、書写講十三人の者が昔は車力で運び当日は昼飯をいただく、布施米の田は天満宮の下の公民館が跡地で犬の名はクロといいます」先の自治会長黒岩勤氏の談話である。        
 白くて大きい鏡餅は白鳥飛来を豊穣と結びつけた「餅的(もちまと)伝説」に起因するものだろう。時は流れ移ろうとも連綿と続く修正会の日、才村からの鏡餅供進は続けられるに違いない。
posted by 早春 at 22:04| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月05日

町裏 まちうら

■姫路市八代■

噴水のある庭園.JPG  西の建屋南から.JPG


 国宝姫路城の中堀を越え、坊主町に接した北の路地奥の浄水場はまるっきり別空間の佇まいで、木々の葉擦れの合間に届くかそけき水音はどうやら小さな噴水らしい。
 この町裏のほとんどを占める浄水場の正式名称は「姫路市水道局町裏浄水場」、レトロな建屋に人工池、それに桜の木まであり敷地は二万平方メートルもあるので、小鳥ならずとも訪れたくなる。しかし緑陰広がる庭園の中に緊張感がただようのは,市民の水がめの重責を担うからなのだろう。
 船場川の東にあって東南隅の「町裏」という小字地名は、坊主町だとか河間町それに元禄時代の町名を受け継ぐ鍛冶町など、これら城下町の裏手にあたることから町裏と呼ばれた。町裏をふくむ八代の地下の様子を『ふるさと八代・上巻』は、「大昔は市川が八代を流れていたと想像でき、地下は砂礫層でもと河原であったことを示している。上水道の町裏水源地は地下水を汲みあげているが、水が豊富なのはこのことを裏付けている」と、また「湧水量の多さが確認されて大正一五(一九二六)年地下水の揚水試験が行われると、昭和二年三月町裏水源地の着工が始まり、七月には起工式が行われて翌三年一二月には早くも通水を開始、同四(一九三五)年四月完成した。当時の市域のほぼ中央にある町裏水源地は、汲みあげてきれいになった水を高さ五二メートルの男山に押し上げ、市内に配水するため送水管を昭和三年に敷設」したと記録「町裏ゆは、姫路工業高校の東の伊伝居字(あざ)馬場崎に町裏井堰があり、水は町裏水源地の付近へと流れていたが、船場川の改修工事で失われた。ゆとは水田に入れて稲を育てる用水のことを指し、野里、町裏、宅田、早森と呼ばれる四箇所の「ゆ」があったとも記す。
 あまり気に留めるほどのないありふれた地名「町裏」なのに、市民の命の水を託す上水道の歴史が秘められていた「町裏」。地名って本当に大事なことに気付いた。
posted by 早春 at 11:40| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月15日

西ノ神  さいのかみ

■姫路市豊富町細野■

公民館前の記念の石碑.JPG  バス停脇の道標.JPG


 東の古法華まで東西につづく県道大柳・仁豊野線は、静かな集落を避けて昭和二三(一九四八)年に完成、バス停前の道が旧道かと思いきやこれは新道らしい。
 一筋北の旧道は細くカーブしながらゆるやかな坂道がつづき、なるほど村の中心地であろうか、公民館前に出るとユニークな表示の石碑に「二十世紀の細野」の様子を「細野公会堂新築は昭和五七(一九八二)年」「細野に電灯がついたのは大正九(一九二〇)年」こんな風に箇条書きで村の文明変遷の歩みを簡潔に記す記念の碑が建つ。 
 「西ノ神」の場所は北嶺の中腹辺りにあって村境には程遠く、さりとて道が出合う辻でもないのに「さいのかみ」とは合点がいかないが該当地を訪ねると、折りよく居合わせた当主から「昭和のはじめころ亡くなった父親が「拝み屋」を家で行っていました。子どもの疳の虫に良く効き、遠方からでも子どもをつれて訪れる人が多く、よく繁盛してました。疳の虫に効く特別な薬を与えていたのかどうかは、自分が子どもでしたので記憶があやふやで、家も建て直したので何も残っていません」との話を聞かせていただく。
 「拝み屋」といえば庶民の苦悩を和らげるために加持祈祷を行い、星の動きで吉方を占う霊能者で、土御門家が発行する司天家(してんか)の免許状を持つ家もある。陰陽道の流れをくむ祈祷師たちは、疾患の病苦を取り去るがサルに通ずることから「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を信仰の対象に据えた歴史は古く、元は道祖神だとか庚申信仰に起原をもつ。
 近隣に拝み屋として名を広めた浅田博文家は、改築以前は背後の高台「西(にし)の岡」に屋敷があっといい、これは西(さい)ノ岡の可能性が高い。明治の修験道廃止令で庚申信仰も廃れたが、霊能者として信頼を得ていた拝み屋はそのまま昭和の御代を迎えたのだろう。
posted by 早春 at 17:18| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。