2009年09月09日

坪田醤油を支えた人びと 2

■姫路市網干区興浜こんぴらさん境内■

坪田家三人の碑.JPG  坪田前停留所.jpg


 本殿が鎮座する内境内にある坪田久太郎・浅五郎・薫の三本の碑には、彼らの特別な思いが込められているようだ。大正4 (1915)年これまで別会社でそれぞれが社長をつとめていたが、時代の趨勢を素早く見通した坪田一族は、製造および販路拡大のためこれを一つに合併して坪田醤油株式会社を新たに発足させ、兵庫県の醤油醸造家としての位置を伸展させる気概から、これら三本の碑は新しい門出に際し結束の固さを誇示するために敢えて新しい碑の建立となったのであろう。
 久太郎の祖は浅五郎家と同じく姫路市八代の出で、浅五郎とは従兄弟という間柄であった。昭和2(1927)年久太郎は坪田醤油株式会社の社長となり、浅五郎と薫が役員をつとめている。
 伊津村の幹線道路は路地としか言いようのない細くて狭い村道を縫うように走っていた路線バスが、南の浜国道(250号線)に移動した今も、坪田醤油会社の名残を伝える「坪田前」停留所にかつての栄光と繁栄のよすがを伝えている。坪田家はのちに水産業者への融資を念頭においた銀行経営に深く関わり、一個人の利益にこだわることなく常に海につながる同胞を気遣い、御津村の岩見港から兵庫の岩見港へと高い志しをもつ一族であった。
 
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2009年09月05日

坪田醤油を支えた人びと 1

■姫路市網干区興浜こんぴらさん境内■

坪田浅五郎.JPG  坪田藤之助.JPG

 姫路市の西南端にあたる網干でもさらに西よりの集落興浜に鎮まる金刀比羅神社は、西讃を治める京極家の領有であることから海上交通を守護する讃岐の金刀比羅宮を勧請したものであろう。
 外垣正面右手の玉垣に二代目「坪田浅五郎」を真中に据えて三本の坪田銘の碑がならび、すこし離れた東に坪田藤之助の文字も確認できる。さらに北に折れるとやや高く盛土された敷地の内境内には、従兄弟の坪田久太郎や浅五郎それに薫とこれも三本が並び、合わせると同族七本の碑が奉納されこの時代坪田本家を中心とした経済的余裕と、海上安全をつかさどる金毘羅信仰への依存度がうかがわれる。
 坪田家の祖は姫路市八代の土豪であったが、ある時期揖西郡伊津村に帰農した。初代坪田浅五郎はたつの市御津町伊津村で弘化元年(1844)出生、明治34(1901)年58歳で没した。坪田家は代々農業と海上運送を生業(なりわい)とし、それに肥料の売買を行っていたが、慶応元(1865)年従兄弟の久太郎と醤油醸造を開始、明治17年から貿易に力を注ぎ明治30年ころより醸造を専門としてヤマホの商標や(まるほ)の商号で坪田一族は醸造家として近隣一円に躍進を遂げていく



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2009年08月07日

金竹 かなたけ

■姫路市豊富町金竹■祭礼の日の ひょっとこ.jpg  金竹の土井八幡宮遠景.jpg


 朝な夕なに甲山八幡神宮を仰ぎ見る金竹は、段丘の南端にあって横軸に県道仁豊野・大柳線が通じ、縦軸を県道北条・姫路線、播但連絡有料道路が西をかすめるという近古代ともに要衝の地である。
 金竹地名の由来は『神崎郡誌』に「応神天皇は尻調(しづき)尼(ねの)命(みこと)の妹金(かね)田屋(たや)野(ねの)姫(ひめの)命(みこと)の三人の娘を妃として十三人の皇子が生れた尻調尼命は勅を奉じて皇子を養いその子雅彦(わかひこ)外妹毛(も)良(ら)姫(ひめ)を壬生部とした」。古代の部民の一つで乳部(みぶべ)とも書き、乳母(めのと)に推挙された毛良姫を「けら姫」と読めばケラは鋼滓のヒ(けら)とも考えられ、応神天皇の妃金田屋野姫命の金田の名とともに産鉄一族にまつわる地名にいかにも好都合な名である。
 池田末則氏は『奈良県史』の中で職能地名の変化に注目、「小字(こあざ)枝組は画工(えだくみ)・妻田組は爪工(つまだぐみ)・同じく土田組は土工(つちだくみ)の改字とみられる」と述べる。ならば金竹は金工(かなたくみ)の転訛との発想はさして無理とは思えない。横軸の県道東南には古刹岩屋寺が鎮まり、坑道を表すというムカデの御神燈がさがる。西端の市川渡河地点に金属精錬の存在を示すかのように「鍛冶内」集落がひかえ、横軸一線に産鉄から金工(かなたくみ)師それに高度な鍛工までこなした大集団の足跡が浮かび上がる。
 町内の総氏神である甲山八幡神宮の主神は、品太別命(応神天皇)十月秋の大祭礼に金竹村から獅子舞が奉納される。金竹の有方市雄氏の報告によると梯子獅子を含めた伝統の十一曲にはそれぞれに意味合いがあり、最後の梯子獅子に「チャリン」を手にする「猿」と「ひょっとこ」が登場する。「チャリン」は両手に持つ小型の真鍮製楽器から出る音が由来であろうという。猿と火男(ひよっとこ)の組み合わせならば説明の余地をまつまでもなく金属鍛工にまつわる祭りに相違ないだろう。
 明治五(一八七二)年金竹・砂川・曾坂の三ケ村を校区とする錬(れん)金(きん)小学校が善寿庵(現曹洞宗善寿寺)に開かれた。何ゆえ新設の小学校に一風変わった錬金の名を付けたのであろうか、それを確かめる手だてはもう失われている。
posted by 早春 at 21:20| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月19日

保喜ガ鼻  ほきがはな

■姫路市下手野■
対岸よりの保喜山遠景.左手前に青山八景の碑JPG  予防治山工事の立て札が見える保喜山斜面.JPG

 夢前橋の欄干を眩(まばゆ)く照らし国道二号線を西へ向かう車の列が夕陽を受けて茜色に染まる。この辺りから西の青山の峠付近へ沈む落陽の神々しさは例え用もなく明日も晴れ。
 『播磨国風土記』に品太天皇が、川で手を洗われたので手沼川と名付けられたという夢前川は『姫路市町名字考』に手野という村名はこの手沼川から起こったと記している。
 下手野の南端にある保喜ケ鼻という地名は、もともと夢前川下流域左岸に沿う山崖に付けられた地名であったが、山裾の湿地が徐々に田畑へと転換されると、明治以降この一帯を指す小字(こあざ)地名に採り上げられた。現在整備されて病院や工場用地となり、両岸の河川敷は東・西夢前台住宅地に変貌した。
 保喜ケ鼻地名の由来を探るにまず「ホキ」だが、全国に分布がみられる古い地名のようで、関東以北ではハケやハキの地名で現れ、そのほとんどが峡谷や川のそばの険しい山の急斜面の崩れやすい山腹に付けられているので、崩壊地名と見なされている。なおハケやホキは一連の同系統の語源を同じくするもので『地名用語語源辞典』は、もともと崖地の古称と記している。
 ホキに当てられる字は当地の保喜のほかに保木・法木・箒など、変わり種では赤穂市有年楢原に放亀の当て字もあって浦島伝説の世界へいざなって楽しませてくれる。またハケは波気・八景が当てられ、景色の秀麗さから○○八景もこの類にふくまれるものがある。
 つぎに鼻の解釈だが鼻は先端を表す端(はな)の当て字で、人の顔でも突き出た所を鼻というから言いえて妙と言うべきだろう。だが端も時には美しい花の字に置き換えられるのは奇岩秀峰の絶景が人の心をとらえ、それは美しい花の文字への発想転換へとつながったのかも知れない。
 山紫水明の渓谷の造形美を誇る観光のスポット四国の大歩危・小歩危峡は「歩くのも危ない」よ、との危険サインが込められたホキの当て字で痛快極まりない。


posted by 早春 at 06:59| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

北良  きとら

■姫路市飾東町塩崎■

天川橋.JPG   北良周辺.jpg


 暴れ川の異名をもつ天川の全長は18キロメートル、その中流域に位置する塩崎の北方に「北良」と書いて「きとら」と読む小字地名がある。文字のままの読みだと「きたら」ではないかとの問いかけに、地区の男性は頑(かたく)なに「きとら」ですとこだわりをみせる。
 「きとら」地名であれば、奈良県明日香村のキトラ古墳が平成10年3月に調査が行われ、石室内の壁画に彩色された四神と、精密な天空の星座が確認されて当時の新聞記事を賑わせた記憶がよみがえる。この古墳は昭和58年壁画があることが判り「亀(き)虎(とら)古墳」と命名されたいきさつがある。この亀虎の当て字について日本地名研究所所長池田正則氏は、「地域の小字名だった北浦が転訛してキトウラ、キトラになったもの。それなのに最近では江戸時代に古墳の中をのぞいた人が、亀と虎の壁画を見たからと」安易な当て字にたよる命名を否定され北浦説を説かれたが、皮肉なことに今回の調査で古墳内部には白虎だけでなく玄武までもが壁画中に存在して、安易な当て字ではなかったことが証明され「伝説にも一縷の真実有り」の言葉を今更のように噛みしめる。
 では同じ読みながら古墳の在りかも定かではない塩崎の北良(きとら)はどのような解釈がふさわしいのであろうか。北はそのまま方角を指す語に間違いはなさそうなので問題は「ラ」である。語尾にラのつく地名をみると良、等、羅などの当て字が多く、あちら、こちら、などと同じく方向を示す接尾語と考えられるので、集落の中心から見た北の方角が地名に定着したのではなかろうか。
 姫路市内の「ら」の付く地名は飾磨区構の「北ラ」上野田の「北ラ田」もあれば船津町の「東ラ」太市石倉には「西ラ」だってあり、そのほか数件にのぼる多さはすべて方角を示すラ地名であるから、「北良(きとら)」の読みはともかく方角地名と位置づけても無理はないだろう。
posted by 早春 at 22:29| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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