2010年06月10日

国見の森・比地

■宍粟市山崎町比地■
 
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兵庫県宍粟郡はもと5町で形成されていたが、安富町が姫路市と合併して郡西の山崎町、一宮町、波賀町、千種町4町が合併、宍粟市を名乗り宍粟郡の郡名は消えた。
 波賀町から一宮町を経て山崎町へと流下する揖保川の西岸沿いに位置する比地は、いま背後の国見山を核として兵庫県立「国見の森公園」が開設され、自然のままの里山の風景を活かした地域づくりを展開している。
 播磨国風土記に山部比治(やまべのひぢ)という里長(さとおさ)がこの地を治めていたことが記されていることから、山部比地にあやかった「比地」地名の由来が語られているのもそれはそれ、山部比地は山を司り、山を治める部民から山部を名乗ったのではないだろうか、よく知る人に出自は定かでないそうだが奈良時代の歌人山部 赤人(やまべ の あかひと)がいる。
 そこで比地だが、ひじという地名は全国に分布し、したがって当て字も多く揖保川上流菅野川沿いには土万(ひじま)があり、泥一字でひじと読む場所もあって肘の字もある。これは水混じりの柔かくなった土地を指す湿地地名を表している。では身体の一部である肘の当て字がなぜあるのだろうか。肘とは腕の曲がる関節を指すので川が湾曲する姿と似ている状態に気付いた人たちが、川沿いの外側に広がる向背湿地を特にそう呼び、ありきたりの湿地でないことを強調したのであろう。
 国見山に連なる山間の谷あいのいつもじめじめとした湿地が人びとの努力で水田に生まれ変わると、山を統括する長(おさ)は誇らしげにひじを名乗り風土記に登場する。地名があって人名が生れた風土記完成より古い地名であることの証しと考えられる。

2008年10月07日

勅旨 ちょうし2 

■姫路市花田町勅旨■

勅旨の大歳神社.JPG  勅旨の墓地.JPG

 では、勅旨という地名の真の解釈はどうなのであろうか。『地名用語語源辞典』を引くと、「(たふし・倒し)の転で崩壊地名・侵食地形を云うか」とあり、侵食された危険な地形を指しているようである。たふし(倒し)とは目の前のものが突然倒れるとか崩れるとかの意で、川岸の集落をたびたび襲う洪水の被害箇所に多い地名である。たふしと云う言葉が永い年月の間にちょうしへ転訛すると、以前からの言葉は意味を失いちょうしの音だけが伝わるが、それさえ忘れられて意味不明のために神功皇后や菅原道真が立ち寄ったとの貴人伝説がまことしやかに語られるのが常である。ここ勅旨にもこれに似通ったいくつかの伝承が残されている。その一つは「南に近接する播磨国分寺があることから勅旨田の遺称地名」だという説、また古代山陽道が勅旨を経て書写山へ通じていることから「書写山円教寺修造のとき下向した勅使が止宿した」との説など、この二つが根強く語り継がれている。しかし米作りに不適切かと思われる川淵の侵食されやすい土質が「勅旨田」としての機能を果たし得たであろうか。また「戸数わずか13戸ばかりなり」の戸数では勅使が止宿して十分な応対が行き届いたのであろうか。 
 この説に対し旧の『姫路市史』は永享4(1432)年8月洪水、9月地震、書写・増位・国分寺の堂塔多く倒壊す。勅使大納言基秀が状況を視察に訪れ数日増位山に逗留した、宿にされたのは増位山内と記述が見える。洪水で軟弱になった地盤に地震が襲いかかると堤は難なく倒壊したであろう。これを目の当りにした人々の率直な気持ちが「たふし」へつながり、ずっと後になって勅使下向の事実と重なり伝承が発生したと考えられる。
 最近『太子町史・第一巻』を読んでいて興味深い記事に出合った。田中真吾氏の「大地のシーソ」説である。播磨の自然界では気候の変化から「河川の流路を常に西方に押しやるという大地の特質があり、東方が相対的に隆起傾向にあったことを示すのではなかろうか。市川の左岸においても顕著である」と述べられ、東へ西へと揺れ動く大地の有様が説明されている。ならば勅旨集落の東を川が流れていて、の記載の川は大水の時季と相まって堤防は倒壊して徐々に西方に押しやられ、村が東へ移動したのではなかろうか。そのとき小川であった元の流れは井溝(ゆみぞ)として残ったのだろう。なおこの時期は11〜17世紀にかけての出来事らしい。こう考えると姫路城主池田輝政の治績の一つである市川本流の付け替えなども案外自然の現象を利用したものであれば、成功率は高く工事もいつもより容易であったかも知れない。
 さて日本の各地に散見できる(ちょうし)(ちょくし)地名だが、やはりすぐ思いつく地名は千葉県の銚子市ではないだろうか、利根川河口に発展した醸造の町としても有名な銚子市は、地名のいわれを「酒器の銚子の口の細く狭い様子から名が付けられた」との解釈がされている。兵庫県ではちょうし・ちょくし地名はやはり河口部に多く分布がみられ、なかでも氷上郡市島町の大字勅使は地名の起こりについて、「暦応元年この村よりご在位の天皇に多額の献金をしたので勅使と命名した」との貴人説話でまとめられている。また加古川の勅使塚古墳のように古代の墳墓名に多いと報告されているちょうし・ちょくし名は、周溝を自然の流水から取り込むための導水技術に長けた人たちによって名付けられたとも受け取ることが可能で、長岡京市の「調子」や宮崎県五ケ瀬の「丁子」それに奥入瀬渓流の十和田湖に近い「銚子大滝」などは、どのような地名の解釈が付されているか興味の尽きないところだが、いずれも河川沿いの地名であることに変わりはない。
 ちなみに市川に沿う南の北条に「定旨」と書いてちょうしという小字があったが今はどうなったのだろうか。市庁舎に隣接するという好立地で区画整理が進み、大きく発展した村にもう危険な地名は似つかわしくないだろうが、それでも水との過酷な村の闘いの歴史をつなぐ地名であることに間違いない。       
このように同じ意味の地名であると思われるのに、所によって字が変えられ地名の謂れや解釈が異なる地名について、柳田國男は『地名研究』の中で、「地名の意味が忘れられたから発生するというものではなく、単なる思いつきでもない、共同で生活する人の心の中にある思いが地名として表れた」と書いている。
 わずかな資料の中に記された勅使下向の事実のくだりが、郷土勅旨の由来説に願ってもない好材料であったに違いなく、誇りある伝承は最高の贈り物となって今も語り継がれている。

☆ 断り書き『神戸史学会・歴史と神戸』202に記載したものに加筆訂正したものです。


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2008年06月20日

日和山 ひよりやま 2

■たつの市御津町室津■

唐荷島と古代船入港.JPG   藻振りの鼻.jpg 


 おだやかな表情をみせる播磨灘も、じつは複雑な海流の動きでおこる潮の急変があり、天候の悪化による自然現象では天気の回復を待つしかない危険一杯の航路であった。快晴だからと出船しても行く先が大雨であったり、突風に出合えばたちまち破船して沈没、積み荷はおろか人命までも危険にさらされる。ましてや藩主が乗船する御座船の船頭たちは観天望気に命がけで取り組んだに違いない。しかし気象は土地の立地条件をもっとも反映するものであるから、優秀な経験をつんだ船頭であっても他国の気象は油断が出来なかったようだ。
 このため土地の気象に熟知した地元の日和見をする人たちの判断を優先して、航海の安全を見きわめたようである。
 室津でも本陣や廻船問屋、それに船宿なども加わって日和見に習熟した人を選び出し、その予報を出港する船に伝えるのも主要な仕事であった。室津本陣の一つで薩摩屋の屋号をもつ高畠家史料に遠見屋嘉十郎・遠見屋嘉七郎などの屋号が見えるので、このころ設けられた遠見番所で遠見や日和見に従事した人がいたと考えられる。
ここで薩摩屋の当主孫九郎が書き残した資料に、日和を検討した文書が見えるので読み下し文で紹介してみよう。

一 御献上物御用に付き上村久兵衛殿、
  児玉角兵衛殿・有馬傳右衛門殿並び
  に下宰領御両人御登り成され、今月廿
一 日当津御舟成され候処、大西風に
  て昨日迄御見合い成され候へ共、中々
  播州灘御渡海成り難くに付き、則ち当
  地日和見之者召し呼び、御来航の船頭
  立会い、日和の儀吟味仕り候処、今
  廿三日中当灘渡海の天気決して御座無
  く候、之に依り、今朝卯の刻、当地よ
  り摂州大坂迄陸路御揚がり成され候処
  紛れ御座無く候、仍って一札くだんの
  如し
 播州室津御問屋
         さつまや 孫九郎
宝暦八年寅 十一月廿三日
    大坂薩州御蔵屋敷 御手形所

 つぎに、姫路の中島貞信氏が所蔵する室津の本陣肥後屋の文書と伝えられるものの中に日和札が数枚見受けられる。襖の下張ということから文書は断簡が多く、年号の記載のないものもあるが一部を紹介してみよう。なお熊本藩では日和見を重視、日和山には日和見専門の役人を常置して、専門家養成のために天気を入札させて競ったとの記事が『船・
地図・日和山』南波松太郎に詳しく記されているので、室津でも出船に先立ち熊本藩独自の方法で日和札の入札が行われていたことが伺える史料である。

日和札   豊田庄左衛門
 明廿三日之天気朝之内地嵐昼立候得ば北西風
 吹可申と奉存候已上 
  正月廿二日

日和札   大嶋彦左衛門
 明十七日天気やませ
 日和雨天付尤北東風吹可申様に奉存候已上 
  三月十六日

 さて日和山にはいくつかの条件が必要とされる。
・ 日和を見るために展望が利かなければならない。
・ 湾内を一望できなければならない。
・ 一日に何回も登るために村から遠くなく、高くなく駆け上がれれば  よい。
・ 出港する船の無事を願い見送るために湾に近接していた方が良い。
・ 入り船の帆印の確認などができる距離でなければならない。
・ 入り船にとって目印になるような山でなければならない。
  (例えば大きな木があったり、燈篭や番所などの建造物)
などなどである。室津の日和山はまさにこれらの条件を兼ね備えた山といえるだろう。
 この山では雲の動く早さや微妙な色や形、また風の動く方角や音、それに波のそよぎまで自然を注意深く見分けることが可能であり、港内が一望できる好立地である。目印となる山頂の燈篭堂近くには、長い航海を終えた船乗りたちが無事に帰ってくることを祈念した人びとがぬかずいた祠がきっとあったに違いない。
安全で先端技術を駆使した汽船の就行に加え、鉄道の開通という時代のうねりの波に、もはや日和見の必要が失せたとき登ることが少なくなった日和山の祠は、このころ賀茂神社の境内に移築されたのかも知れない。
 史料の無いままあえて推論を試みるならば、境内社の一つ橄取社がそれではないかと思える。由緒も知れず創立さえ不明とされる社の御祭神は、上筒之男、中筒之男、底筒之男の御三神である。面舵いっぱい、取り舵いっぱいの叫び声は海底の御祭神へ届いたのであろうか。 


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2008年06月12日

日和山 ひよりやま 1

■たつの市御津町室津■

日和山・船でにぎわう室湊.jpg   湾を見下ろす警鐘台.JPG


 『播磨国風土記』に風を防ぐこと室のごとし故に名となす、と地名の由来を記されている室津は、向背に迫りくる山影をすり鉢のような湾面に映し、狭小な集落は当時とそう変わってはいない。古い時代から貴人たちの往来で賑わったのも、物流にともなう商人の寄港地として機能し得たのも、自然がもたらした地形の恩恵というべきであろうか。
 海には二つの岬がせり出し、一つの岬は賀茂神社が祀られる明神山、もう一つは藻振りの鼻と呼ばれる岬、鼻は端の替え字であろう。この岬には藻振りにちなみ「玉藻かる からかの嶋にあさりする ふねしもあれや家おもはざらん」の万葉の歌碑が建っている。二つの岬をつなぐような位置にある「日和山」は、標高44メートルの山頂にあった燈篭堂跡とともに山の好立地を示し、原存する室津の小字(こあざ)地名である。
 室津には室津千軒と囃(はや)された繁栄の時代があった。この繁栄をもたらしたのは、近世に始まった参勤交代の制度であり、日本海の湊を経由しながら蝦夷まで運航した北前船(ただしくはベザイ船)の主要な寄港地であったからだといえるだろう。この湊を飛び地として管轄する姫路藩では御茶屋を設立、参府のため江戸へ向かう朝鮮通信使をはじめ、オランダ・琉球など各国の上級使者たちの宿舎、および饗応接待の場所に充てた。
 しかしこれらによる支出の増大は藩の財政をきびしく悪化させたようである。
 そこで考え出されたのが綿の栽培で、良質の姫路木綿はその後全国に販路を広げ、窮迫した藩の経済を立て直すまでに成長した。このころ蝦夷のニシンは干鰯という魚肥に仕立てられ北前船で全国に運ばれた。農産物の飛躍的な収穫量の増大が見込まれた干鰯は、近郊の農村で急激に需要が伸び、各地の湊は活況を呈し全盛の時代を迎えることになるのである。魚肥を扱う廻船問屋は本陣を凌ぐほどの蔵を持ち、滞留した荷物が捌けるときまで蔵敷とよばれる保管料を取る業務をおこない、自前の船には古着や特産の塩などを積んで北国へと商いを続けるのであった。
             
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2006年10月07日

万燈山 まんどうやま

■たつの市新宮町奥小屋■

大乗さんの宮 万燈ヶ端の竹薮

 県道179号線と別れ、栗栖川に沿って北東に進むとさらに中途から道が二つに分かれる。右手の谷間に沿った道は車一台がやっと通れるほど狭く、河川砂防指定地の清流をゆうゆうと泳ぐ魚の群れを一瞥する余裕もないが、これでもれっきとした県道である。
奥小屋の集落は谷あいの一番奥まった位置にあって、もとは22軒あったがいまは14軒に減り、この村にも過疎という波が影を落としつつある。そんな村の北西の石垣に薄日がこぼれ落ちる「大乗さん」とよばれる小さなお宮があるのに気がついた。
 大乗さんとは、大城宮や大浄宮、また大上言などの字が与えられ、「ダイジョウゴ」「ダイジョゴ」さんの呼び名で各地に残る星の信仰を伝える大将軍神社に違いない。しかしあまりにも古い信仰であるために地名は残ったが、大将軍信仰がそのまま行われている所は少なく、星の信仰がすたれたころ言葉の似通った仏教語の大乗に結びついた例も多々ある。大乗さんの後方にそびえる万燈山はこの辺りで一番高く、南へゆるやかに伸びる山の端は万燈ヶ鼻といい、万燈の行事が途絶えた山は竹薮となっている。
 各地に残る万燈山の言い伝えはさまざまで、精霊送りや虫送り、それに雨乞いなどその土地によって祭りの形は異なるようで、奥小屋では昭和のはじめごろまで毎年のように雨乞いが行われた山らしい。奥小屋から下流の地域に広がる田畑の面積は、南へ下がるにつれ広がりを見せ、山の落ち水は谷間を駆け抜けるように一挙に下ってしまうため用水を溜めることが出来ず、いつも水不足に悩まされていた。そんな時村人は松明に火を灯し、山へ登って天を仰ぎ「あんもれ、たもーれ・あんもれ、たもーれ」―これは雨賜われの意だろう―を大きな声で天の神へ届けとばかり繰り返し叫んだと伝えている。
 ちかごろでは米の収穫量が増えたこと、米中心だった暮らしが変化したことなどの理由から、水が不足して困るということがなくなり、いつのころから雨乞いの行事が途絶えてしまった。それでも雨乞いの名残をかすかに伝える行事は今も受け継がれ、毎年8月24日夕暮れになると、前日に各戸に配られた松の束を手にした人たちが、八幡宮の下の広場に集まってくる。宮総代と会長二人が社前の松明の火を採り、それぞれの束に火を移し替えて神前で拝礼、これがすむとお神酒のお下がりを飲んだり、お菓子を食べたりしながら談笑してくつろぐ、こんな村中の集いは自然いっぱいの恵みの中で、神を敬う心と隣人への思いやりの心を一つにした行事として今なお存続している。
posted by 早春 at 15:38| Comment(0) | 地名アラカルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月07日

長老が谷 ちょろがたに

■たつの市御津町室津■

長老が谷
整備された御茶屋跡

「山三方を構え江の内静か・・・西国第一の湊にて類いなき景勝也」と『播磨鑑』に記された播磨室津の居ずまいは、さほど昔と変わらぬように見受けられる。
 しかし路地を歩くと大きな変化に気がついた。それは町中に何箇所かあった共同の井戸がどれも分厚い頑丈な蓋で覆われ、井戸端に人の気配はまったくなく、日々の暮らしの水を賄い世間話に花を咲かせた気の良いおかみさん連中の姿は井戸端にもう見えない。
 川に恵まれない室津の生業(なりわい)を支えてきた井戸水の源は、後背の山々がふところ深く育んできた恵みの水に違いなく、江戸時代に室津を訪れた異国人たちは、山の頂まで耕された畑を印象深げに書き残している。
「長老(ちょろ)が谷」は、こんな山の谷筋に付けられた名前で、チョロチョロと心地よい流れの水音から付けられた擬音地名の類であろうか、寺院の多さと多種多様な人物の交流が、長老の当て字につながったのだろう。歴史のひだを地名に織り込んだ妙味のある地名である。  細々と流れ下るこのあたりに、流れを取り入れた旅人の休息する茶屋があったと地元では伝えられ、前述の『播磨鑑』は桂本寺の寺跡であると載せている。異人たちの目を見開かせた段々畑の養い水は、山ひだを伝う幾筋かの水の道があったらばこそ、四季折々の実りを里人にもたらしてきたのだろう。
なおこれを裏づける資料が、室津本陣をつとめた薩摩屋こと高畠家が文化3年7月(1806)旱魃のため自分所有の長老が谷の井戸の下道の脇に、新しく井戸を掘りたいとの嘆願書を差し出している。
時が移り時代は明治と名を変えたころ、谷水の集まる山裾の一画に隔離病舎が建てられた。山の滋養をたっぷり含んだ清冽な水は、病に臥せる人への癒しの水となったに相違ない。
現在病舎跡は地区の墓地となり、墓の清掃や佛花の変え水として山の恩恵は果てしなく続いている。
(写真はとんび岩通信さんよりお借りしました)
posted by 早春 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 地名アラカルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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