2005年12月12日

拮秀碑 きっしゅうひ

碑文 擷秀碑

明治21年12月に邦太郎氏が水車営業組合頭取に選任され、37年まで17年間在任した徳を讃えて、水車業者が明治32年5月に建立した碑で、台座に有志者の文字がみえます。その題額は、伯爵勝海舟の手になるもので、時の揖保郡長 内海忠誨の撰です。
 なお碑は加藤邸東の貴人門の前に据えられていますが、磨耗がはげしく読み取り不能になっていますので、加藤家に伝わる印拓を当主三郎氏と田中早春が解読したものです。

※ タイトルの「拮秀碑」の『拮』は、右側に『頁』が付いた字が本来の文字です。上の左側の画像の字が正しい文字です。

2005年11月21日

年表で見る加藤高文・邦太郎氏事跡 概略

年号 西暦 あらまし
文化10年 1813 7月 揖保川の河口に近い網干区余子濱に生まれる。名は高文、通称次郎兵衛、父は務、通称宗十郎、母は八重子、
天保9年 1838   加藤次郎兵衛の苗字初出(史料No14)
天保12年 1841 5月 屋敷普請 
弘化3年 1846 9月 長男邦太郎生まれる、名は壽文
嘉永4年 1851   三階建ての浜座敷普請
嘉永6年 1853   内蔵と離れ座敷普請
安政4年 1857 6月 北浜蔵普請
安政5年 1858 9月 北内蔵普請
万延元年 1860 5月 本宅普請
元治元年 1864 8月 長屋門普請
明治6年 1873 3月 高文60歳で飾磨県県庁に出仕、飾磨県少属に任官
明治8年 1875 10月 飾磨県中属に任官 『欧米名数略抄』3冊
明治9年 1876 3月 飾磨県庁退職 著述に専念する。飾磨県奉職日誌、上梓
明治10年 1877 8月 高文『政体論』一冊 ★『泰西名数学童必携』一冊刊行
明治12年 1879   高文揖保川東岸の新道開鑿に着手、松原口の修道記念碑は龍野藩主脇坂安斐の撰、並に書、題字は三條實美公
明治21年 1888 12月 邦太郎水車営業組合頭取
明治22年 1889 4月 邦太郎網干初代町長
明治24年 1891 10月 高文★『評註古事記読本』東京青山堂発行
明治25年 1892 2月 邦太郎県会議員に選任さる
明治29年 1896 6月 邦太郎郡会議員に当選
高文★『古事記神名略解』刊行
明治32年 1899 5月 勝海舟題額「擷秀碑」建立さる
明治38年 1905 8月 高文92歳の高齢で歿、余子浜法専寺に眠る 法名釈宣正
明治38年 1905 11月 邦太郎歿、60才法専寺に眠る法名釈成正

★印 国会図書館蔵
その他には、『地方啓蒙の序文』『地方大概集』があります。

2005年10月21日

加藤家概略

長屋門.JPG
長屋門

江戸後期から明治期における加藤家の概略

 揖保川が下流で大きく分岐する左岸に位置する加藤家は、江戸時代一橋家その他天領から運び込まれる年貢米の収受や保管、さらに売却を一手に行う蔵元で、揖保川の水運を利用して廻船業を営み、屋号を成田屋と称した。
なお幕末期より地元産の塩を使用して醤油や素麺業を営み、『網干町史』によると「すこぶる富む」と富裕な豪商の姿を伝えている。
なお加藤家には文化10年生まれ、明治38年92歳の高齢で亡くなった高文氏と長男邦太郎氏の手記が古文書資料として現在姫路市に委託されている。これらの資料によると、代々次郎兵衛を名乗ったようで、次郎兵衛の名が年代を越えて散見できる。また成田屋の屋号は享保17年(1732)勘十郎の名で現れ、加藤の苗字が使われ始めるのは寛政2年(1790)を初出とし、苗字のみの拝領だったのか帯刀御免だったのかは今のところ資料を欠く。
弘化3年長男が誕生する。名は壽文、邦太郎といい、明治維新当初飾磨県会議員を務め、のちに初代網干町長となった。
 高文氏は明治6年飾磨県に勤務、権少属を任命されたがすぐに中属を拝命し、地租改正の職務にたずさわり県下をくまなく調査、明治9年3月退官して著述業に専念、
著述の一部は国会図書館の所蔵書として保存されている。
高文・邦太郎ともに余子浜法専寺に墓がある。
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