2009年12月12日

出版情報

■『姫路の地名由来・百一話』■

 300部限定のささやかな自費出版本が本日完売となりました。
余りにも早い出足にいささか戸惑っています。
購入してくださった方々へお礼の言葉もありません。
本当に有難うございました。
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2009年11月29日

出版情報

■姫路市■
表・裏見開き.JPG  Img_表紙.jpg

「地名色模様」の題名で掲載しておりましたものを『姫路の地名由来・百一話』に変更して一冊の本にまとめました
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2009年10月23日

興浜本町橋物語 4

■姫路市網干区興浜■

東正面から.JPG  対岸から見た庚申の森.JPG


 明治十三年 架橋手伝人足辰一月七日より(水田家文書・原文一段)
藤田真海    四海宇兵衛   津田伊助     白谷小兵衛 
山本宗兵衛   塩野一平    津田宗右衛門   松島弥三五郎
津田宗次郎   今栄徳三郎   森崎弥助    安部新兵衛 
水田傳蔵    三木房吉    塩津仁兵衛    和田弥七郎
塩野清次郎   中山宗八    田村種八     三木孫四郎
中野秀次郎   中尾孟虎    高嶋伊右衛門   斉藤硯元
原村正重    大西庄三郎   紀野元吉     田村松四郎
酒井嘉十郎   清水四郎兵衛  木村義兵衛    加納庄五郎
竹田勇助    山崎甚兵衛   伊勢茂助     鹿児島徳松
田村吉兵衛   長沢利左衛門  平田千代蔵    肝田伊作
濱野傳兵衛   吉田百太郎   安井重右衛門   松島伊助
和田多三郎   稲田弥助    同 菊松     長沢熊吉
三木太右衛門  大江喜兵衛   苦瓜仁右衛門   今栄重次郎
香川源七    石井庄次郎   長沢六次郎    不二宗七
上村嘉右衛門  同 和兵衛   伊瀬栄五郎    和田善四郎
石井作兵衛   松本亀吉    山本太兵衛    上村伊助
三木清五郎
うミ町 三木清右衛門 
 
中野町   水田傳蔵  
周旋方   安部新兵衛
           原村正重
           田村吉兵衛

 万治元年(1658)以来丸亀藩の一万石飛び地支配を受けた村々は、揖保川を立て軸として川東組と川西組に分れこれを統治する興浜陣屋との情報伝達に欠かせないにもかかわらず重要な場所に橋が無かったのは、架橋の技術はともあれ幕藩時代隣村との境となる川にむやみに橋を架けるのは軍事上ご法度であったことが最大の理由であった。明治という新しい時代をむかえ、他行を許された庶民の願いは自由気侭に対岸に渡りたいという地域の期待度は高かったに違いなく、陣屋をふくむ一帯が「字(あざ)本町」の名称であったため橋の名前はすんなりと「本町橋」に決定したと思える。
 北の浜国道(250号線)に昭和35(1960)年3月網干大橋ができるまでの本町橋は、御津町に通じる唯一の橋で、室津行きのバスも車体を揺らしながらこの橋を渡っていた。
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2009年10月14日

興浜本町橋物語 3

■姫路市網干区興浜■

大覚寺境内の山本宗右衛門墓.JPG  南についた歩道橋.JPG 
 
 架橋設立ニ付入費見積書
    一金五百円也
    内訳
    金二十円    土方人足百人賃
    金三十円    割石代
    金二十円    石工五十人賃
    金六十三円   橋杭廿一本代
    金八十二円   橋桁二十四本代
    金六十八円   橋板三十六間半
           厚三寸巾七寸以上
    金五円五十銭  木七本代
    金四円     ヌキ木十四本代
    金二十円    テスリ六十五間木代
    金三十円    釘代
    金九十七円五十銭大工三百廿五人賃
    金六十円    手伝人足三百人賃
  〆如高
  右之通御座候以上
        播磨国揖東郡興浜村
          福井治助  印
  寺田直次郎 印
  明治十二年     山本宗右衛門印
      十二月廿四日

 当時の金額で五百円という金額を「もし不足金が出来るような事があ れば、私共三名が間違いなく償うので是非御許可下さい」との住民懇 願が届いたのであろうか、これに対する許可証はいまのところ見当た らないが、翌13年1月7日「架橋手伝人足控」が残り、冬季の水嵩 の少ない時期を逃さず取り掛かったことが知れる。
 なお3人のうち寺田直次郎は大小区制時代興浜の戸長を務め、山本宗 右衛門(明治27年歿行年52歳、墓は大覚寺にある)は子息の真蔵 氏が網干燐寸合資会社および莫大小(メリヤス)製造工場に関り網干村 に新風を吹き込んだ。福井治助もおそらく名望家に違いないだろう。 またこの本町橋は網干地内では二番目の架橋で、一番早く架けられ  たのは余子浜村と新在家村をつなぐ町の大動脈「網干橋」で、弘化3(1846)年普請の土橋であった。
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2009年10月04日

興浜本町橋物語 2

ある晴れた日の本町橋.JPG 架橋添付図.jpg

 揖保川を越えるにはかつて渡し船を利用するか、水の少ない時期を見計らっての徒歩(かち)渡りという方法しかなく、上(かみ)手の下余部辺りにあった近世室津道の延長となる「八十渡し」は「定渡し」で渡し賃が必要であった。なお興浜に丸亀藩の陣屋が置かれていたため、参勤交代で江戸へ向かう藩主は自領であった御津町の岩見から上陸すると、揖保川を御座船で東へ渡り八十堤を通り興浜陣屋まで22丁39間を南下した記述が『西讃府志』に残されている。そのとき供のものは袴の裾をからげて徒歩で渡ったことだろう。その北方の揖保川町には参勤交代時の西国街道を東西につなぐ「正条の渡し」場に椋の大木が今も名残をとどめている。渡し船に賃銭は付きものであるにもかかわらず資料は少なく、つぎの資料に明治8年「沖手新開築垣一件」に市場(加古川)の近藤文蔵の代理人が興浜を訪れたときの渡船賃は拾八文であったと記す。
 明治12年暮れも押し詰まった12月24日地元民による無賃架橋設立願が出願され、これに見積り書ならびに別紙絵図面を添えて兵庫県令森岡昌純へ提出されている。

 無賃架橋設立之義願 (山本家文書)
 当村二等揖保川筋従来渡之船ニテ
 往来之諸人相当賃銭ヲ出し通行
 渡来候処、今般私共三名発起ニテ
 無賃架橋設立致度奉存尤も          
 談費ノ義は有志ノ寄附ヲ募り
 若不足金出来候ハゞ私共三名より
 相償可申候間御許可被成下度、依之別紙
 絵図面并ニ入費積り書相添此段
 奉願上候以上
       播磨国揖東郡興浜村
          寺田直次郎 印
          山本宗右衛門印
 明治十二年    福井治助  印
 十二月廿四日
 兵庫県令 森岡昌純殿
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2009年10月01日

興浜本町橋物語 1

■姫路市網干区興浜■
現在の本町橋.JPG  庚申堂の三猿.JPG 

 桜花に酔いしれた四月が終ろうとしていた日曜日、「網干区浜田を訪ねて」と銘打った公民館主催ウオークの集いが本町橋を基点に催された。浜田といえば古刹龍門寺や不徹寺が名所であるが、地元案内人ならではの視点からレトロな記憶につながる大企業躍進時の遺物である廃線跡、それに旧三昧跡などにくわえて古刹もさりげなく取り入れつつ巡り、これが今回の「本町橋の語り」へとつながった
 いにしえより悠久の流れを保つ一級河川揖保川は、『播磨国風土記』に「宇頭川(うずがわ)」と記された川で、自然の采配によって時には流れを大きく変えつつ多くの支流を生みだし、末流のデルタ上に興浜村が起こった。過酷な洪水の災禍は毎年のように沿岸の村々を襲い、そのたびに流れは移動して対岸に観音嶋なる小字地名を伝えつつ、ここに架かる橋の名を「本町橋」という。
 本町橋が架橋されたのは明治13(1880)年3月のこと、現在の橋は銘板に「昭和32(1957)年3月架橋」との文字が刻まれているので、かれこれ50年余りを経過していることになり、これまで幾度かの架け替えの歴史を秘めている。以前の橋は少し南にあって東詰めからの道筋は南に庚申堂(澤山家)があり、信浄庵(地蔵堂)を経て網干の名刹大覚寺の北門へ至る道につながっていた。すなわち現在の本町通りの南一筋目がいにしえの主街道であったことの証しであろう。
 
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2009年09月23日

坪田醤油を支えた人びと 4

■揖保郡太子町糸井■

糸井の武大神社.JPG  金拾圓岩見銀行支店の碑.JPG


 明治30(1897)年に創設された岩見銀行は、地域の銀行として着実に成果をあげ支店網を広げて行く。旧国鉄の輸送網を視野に取り込み山陽線龍野駅前に龍野支店を置き、同じ山陽線網干駅前に網干駅支店を設置した。なお町の繁栄を持続し続けていた網干区内に網干支店を設け、揖西支店は揖保郡揖西村に、飾磨支店を姫路市飾磨区に設置したほか、室津出張所 東部出張所を御津村釜屋に開き漁業者の多い妻鹿に出張所を建て、それぞれの漁業従事者への便宜をはかっている。
 網干駅支店が置かれた山陽線網干駅前の北部の日吉山(通称荒神山)は、糸井村と網干区和久村の境界をなす山で、現在太子町糸井を名乗る糸井地区は網干魚吹神社の氏子である。ここに鎮まる武大神社の玉垣に大正15年岩見銀行隆盛の証しとして奉納された碑が残っている。
 昭和2(1927)年金融恐慌におそわれ地方銀行の経営が行き詰まるのだが、久太郎が社長をつとめる岩見銀行は堅実な経営で無事乗り切り、大正2(1913)年浅五郎が取締りに就任、久太郎が監査役におさまり、大正15年の玉垣奉納にいたったのだろう。
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2009年09月14日

坪田醤油を支えた人びと 3 

■たつの市御津町岩見 恵比寿神社の碑■

岩見港.jpg  岩見港醤油蔵跡.jpg  岩見銀行の文字.jpg

 岩見銀行は明治30(1897)年開業と伝えられ、本拠地を御津村岩見に置き、頭取に同じ村の海運業者仲間で醤油醸造家としても成功を収めていた上西宗兵衛がおさまり、本店を御津村岩見に据え支店を5箇所に設け出張所を3か所設置している。海岸通に面した本店の建物は洋館風の洒落た建物だったが惜しくも撤去されなにも残っていない。出船入り船で賑わったであろう岩見港の、岸壁の路地に沿う民家の重厚な厚みの軒庇と太い梁に、醤油蔵の記憶を留めながら薄暗い部屋のどこにも諸味(もろみ)粕や麹の移り香はとっくの昔に潮風に追いやられ、嗅ぐことはとうてい無理だった。
 港をくまなく見渡せる背後の荒神山に鎮まる恵美須神社への石段脇の玉垣に、「株式会社岩見銀行」明治44年11月の文字が確認できる。本拠地岩見の産土の森への奉納は、岩見銀行創設後の順調な伸展もさることながら、上方へ朝鮮半島へと醸造物や海産物の販路を拡大していく就航船の安全を祈願してのことなのだろう。
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2009年09月09日

坪田醤油を支えた人びと 2

■姫路市網干区興浜こんぴらさん境内■

坪田家三人の碑.JPG  坪田前停留所.jpg


 本殿が鎮座する内境内にある坪田久太郎・浅五郎・薫の三本の碑には、彼らの特別な思いが込められているようだ。大正4 (1915)年これまで別会社でそれぞれが社長をつとめていたが、時代の趨勢を素早く見通した坪田一族は、製造および販路拡大のためこれを一つに合併して坪田醤油株式会社を新たに発足させ、兵庫県の醤油醸造家としての位置を伸展させる気概から、これら三本の碑は新しい門出に際し結束の固さを誇示するために敢えて新しい碑の建立となったのであろう。
 久太郎の祖は浅五郎家と同じく姫路市八代の出で、浅五郎とは従兄弟という間柄であった。昭和2(1927)年久太郎は坪田醤油株式会社の社長となり、浅五郎と薫が役員をつとめている。
 伊津村の幹線道路は路地としか言いようのない細くて狭い村道を縫うように走っていた路線バスが、南の浜国道(250号線)に移動した今も、坪田醤油会社の名残を伝える「坪田前」停留所にかつての栄光と繁栄のよすがを伝えている。坪田家はのちに水産業者への融資を念頭においた銀行経営に深く関わり、一個人の利益にこだわることなく常に海につながる同胞を気遣い、御津村の岩見港から兵庫の岩見港へと高い志しをもつ一族であった。
 
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2009年09月05日

坪田醤油を支えた人びと 1

■姫路市網干区興浜こんぴらさん境内■

坪田浅五郎.JPG  坪田藤之助.JPG

 姫路市の西南端にあたる網干でもさらに西よりの集落興浜に鎮まる金刀比羅神社は、西讃を治める京極家の領有であることから海上交通を守護する讃岐の金刀比羅宮を勧請したものであろう。
 外垣正面右手の玉垣に二代目「坪田浅五郎」を真中に据えて三本の坪田銘の碑がならび、すこし離れた東に坪田藤之助の文字も確認できる。さらに北に折れるとやや高く盛土された敷地の内境内には、従兄弟の坪田久太郎や浅五郎それに薫とこれも三本が並び、合わせると同族七本の碑が奉納されこの時代坪田本家を中心とした経済的余裕と、海上安全をつかさどる金毘羅信仰への依存度がうかがわれる。
 坪田家の祖は姫路市八代の土豪であったが、ある時期揖西郡伊津村に帰農した。初代坪田浅五郎はたつの市御津町伊津村で弘化元年(1844)出生、明治34(1901)年58歳で没した。坪田家は代々農業と海上運送を生業(なりわい)とし、それに肥料の売買を行っていたが、慶応元(1865)年従兄弟の久太郎と醤油醸造を開始、明治17年から貿易に力を注ぎ明治30年ころより醸造を専門としてヤマホの商標や(まるほ)の商号で坪田一族は醸造家として近隣一円に躍進を遂げていく



posted by 早春 at 14:44| Comment(0) | 地域史話最前線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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