2006年11月26日

西皆地 にしかいち

■姫路市花田町小川■

新小川橋西詰め  公園奥の殉国碑

 市川に並んで架かる小川橋とその南の新小川橋、二本の橋は川の西詰めで一本に交わり城下へと西に延びる。
 小川の名は、風土記に小川の里であらわれる古い地名で、集落の中を往古の山陽道が通じ『花田史誌』は、小川の部落は八皆地より構成され川端集落の宿命とでもいうべき埋没した歴史も詳細に載せる。          
 八皆地は門前・千保・庵ノ前・新在家・中大道・山中・垣内・下皆地からなり970〜1026番地へまたがる西皆地は、最南端の下皆地に対しての呼び名であったようで、明治初年までこの地に数戸の民家があって981番地の稲荷を祀る祠は、椋の大木が枝葉を茂らせ里人はここを才の木と呼んでいた。九つ目の川西皆地は、大正4年小川橋架橋で成立したごく新しい皆地であったと伝え、皆地は「他でいう垣内(カイチ)のことである」とも記している。
 荘園制末頃の土地区画から起こったとされる垣内地名の解釈は、字のごとく垣に囲まれた一区画、または一と構えの内をカキノウチといい小集団ゆえに地縁的なまとまりが強いのが特徴であった。門前や千保、庵ノ前などの名が記すように仏道への帰依者が近くに住居を設け、同行仲間の長(おさ)と呼ばれるリーダーが集落のまとめ役となる。しかし川端に近い集落は時として自然の猛威に屈服せざるを得なかったのだろう。新在家皆地は明治22年の大洪水で流失するまでは小川橋付近にあって大皆地だったと伝える。
 ちなみに姫路城西北の八代地区の御茶屋垣内、東光寺垣内、地蔵垣内、善養院垣内などはさしずめ小川地区と似通った信奉者が集う垣内環境であったのだろうが、人口の拡大と街区表示制によって地名も地縁も一変して機能も失いつつある。
 県内では西播磨地方に垣内と書いて「カイチ」「カキウチ」と読ませる地名が多く、その数80箇所を数え当て字もケ市、飼市、家市、柿内など地域の暮らしを暗に伝えるカイチ地名も多い。
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2006年11月13日

先祖橋 せんぞばし

■姫路市御国野町御着■

えのきの下の庚申堂  火山北麓の御着墓地


 JR在来線の小さな踏切「五反ガ坪」を南へ抜けると工業団地ばかりが目立つ。目の前にどっしりとはだかる火山の裾の墓地が、山の稜線に沈みかけた夕日にほんのりと染まっていた。
 先祖橋は天川に架かる橋の名で、橋の袂の大エノキの枝葉はそれとなく近在に杜(もり)の在りかを伝え、樹下の庚申堂内に、まだ柔らかい赤い飯(まま)が供えられていた。
ちょっと珍しい橋の名の由来には、ある想い出話が詰まっているので聞いていただこう。
御着きっての郷土史家であった故井上重数さんを訪ねた時のことである。柔和そのままの語り口で「村の者は皆センド橋と言って橋を渡り墓地へ墓参りに行っていました。新橋が架かり橋の名を決めるとき、センドの意味が誰にも分からなかったのです。丁度橋の向こうは墓地だからだと言うことで、先祖橋に決まりました。現在の橋に使用されている擬宝珠は、国道2号線天川橋のものを、昭和56年に再利用したものです。」と、今になってはもう誰にも聞けない取って置きの貴重な話を受け継ぐことができた。
 さて誰にも分からなかったセンドの意味を探ってみると、センドとは船戸や船渡の字が宛てられるフナトの神のことである。またフナト神に岐(ふなど)神(かみ)の漢字が当てられるのは、岐は分岐点の言葉もあるように道の分かれ目を言い、道の辻を通り抜けた悪疫や悪霊が村境を越えて入って来ないように境を守る神は防塞の神に位置づけされ、塞(さえ)の神の役割が強調されるようになった。それでこういう場所には庚申堂が設けられ、神の宿る大きな樹木は「才の木」とよばれ、才の木地名が生まれる。なお市内でも墓地のことをセンドと言う地区も多く残り、音読みで地名が定着しているのは、地名の発生年代がかなり古い地名であるといわれる。
川や海の側の渡し場近くに多く見られる船渡や船戸地名は、むかしの人は大きな河川の向こうは他国であって、それは国(くに)境でもあるとの認識からそこへ墓地を設け、彼岸への渡海を果たす最短コースを死者にはなむけたと考えれば功徳が増しはしないだろうか。 
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2006年10月18日

無所ノ下 むしょのした

■姫路市飾東町八重畑■

二組の六地蔵  金池


 372号線の八重畑バス停留所を下車、すこし戻ると八重畑川沿いの墓地に出る。
川を向いて並ぶ六地蔵、もう一列の六地蔵は道側を向き、合わせて12体が据えられた墓地を訝(いぶか)しげに眺めつつ山頂近くの無所ノ下を目指す。
長谷山を縦断するこの道は豊富・御国野を結ぶ396号線で、峠越しの道は岩屋寺へつながり、かつての行者たちが往来する信仰の道であるとともに、字限図に銀山と記載される鉱脈のつながる道でもあったろう。
通常は川底をせせらぎ流れる八重畑川は、慶長の播磨国絵図に「かな山八重畑村」と記された鉱山の繁栄を支えた川に違いなく『姫路市史・10巻』に「飾東郡八重畑村銀山長谷山、但し此の山の内古来銀堀りマフ穴有、始年暦不知 終ハ本多美濃守御代、同長谷寺ト申寺地跡銀山有、繁昌ノ時分出来ノ様申し伝候」とある。しかし鉱山から排出される汚濁水は下流の田畑を荒らし、飲み水を汚染して村人を鉱毒で苦しめた。
 「無所ノ下」はこの川沿いの右岸にあって、金池をはさんだすぐ上の霊園は新設されるまで「無所」と呼ばれる畑で、その下流にあるから無所ノ下となる。
無所というのは墓所のことで、墓所は呉音ではムショとなる。ちかごろの市町村には公営の火葬場が用意されているが、以前は三昧で野辺送りがすむと、村人や近親者の手で土中に穴を掘り丁寧に埋葬したので埋葬地を穴ムショと呼ぶ所もあった。穴ムショは穴無所と書き、ムショは虫生(むしお)の字をあてがわれ穴虫に変化したが、穴はあくまで埋め墓を表している。江戸時代鉱山(やま)の過酷な労働に耐えながら、非業な一生を終えた労働者たちが最後に眠る無所が年を経て畑に転換されたのち、役目を終えた六地蔵は山を下りて村の墓地に移設されたのではあるまいか。そう考えると二(ふた)組の六地蔵の謎が解けた。
 市内では砥堀に無所ケ谷、大塩の馬坂峠の入り口の墓地の小字を穴虫といい、傍らの池の名を穴虫池と呼ぶ。
   
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2006年09月28日

早稲田 わさだ

■姫路市飾東町豊国■

早稲田池  池の横の中学校 

 庄山の古城跡を抱く樹林は、春夏秋冬それぞれのかすかな兆しをいち早く里村に告げ、平野を蛇行する天川の流れは、どれほどの長い年月を生物の命とともに、村の歴史を紡いできたことだろう。
 東山麓の城山中学校すぐ側にある「下早稲田池」その北の「上早稲田池」と呼ばれる二つの池は、近辺の村を旱魃から守る灌漑池として今も機能している。この池の築堤の時期は定かではないが、小字「早稲田」と南に隣接する「居(い)垣内(がいち)」などで弥生時代とも古墳時代後期とも推定される土器の出土報告は、村の起こりを考える有効な手掛かりになりうるだろ。池の歴史と村の歴史の切り離せない相互関係を私たちに課題として投げかけてくる。たゆまぬ手厚い保護が繰り返されてきた池に非情な災害が襲うのは昭和51年(1976)のこと、台風降雨による決壊という事態が発生したと『わが郷土谷外』に記される。
 日本各地に分布がみられる早稲田地名の意味は、凶作に備えて一般の田植えより早く植える田を早稲田といい、中稲・晩稲と播種時期をずらして植えるのも、南北に細長く連なる列島の複雑な自然条件から生まれた先人の知恵に違いない。全国7カ所の奈良・平安時代の遺跡から出土した木簡に記された和佐(わさ)・女和(めわ)早(さ)などの文字は、考古学研究者によって早稲の品種名であることが確認されている。早稲田を「わさだ」と発音する当地方のルーツが、木簡に記された古代米の品種和佐と同じ読みであることは、いっそう村の成立を際立たせる。
 江戸時代の農書『地方凡例録』に「東高く西低き土地は下田なれども早稲によろし」さて合致する地形であれば申し分のないところだが。
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2006年09月07日

下道居 しもどい

■姫路市四郷町明田■

新羅神社の扁額  明田の東に連なる山々


  天日山・岩神・小坂山・古三昧・大日山と、低い山並みが東に連なる明田集落は、八家川中流域左岸にあって、昔ながらのしっとりとした田園風景が広がっていた。川の西向こうの家並みは『播磨国風土記』美濃里の条の継潮(つぎのみなと)の比定地とされる継の集落であろう。
  風土記が編纂された奈良時代、継と明田を隔てたのは八家川ではなく、潮がひたひたと入り江を満たす播磨の海だったのかもしれない。湊は豊な「美濃里」の穀倉地帯をひかえて早くから人が定住した様子は、この近辺に分布する古墳群や「見野廃寺」跡の状況などからもうかがうことが可能だ。これらの物資の集散地でもあった湊は、利便性の高い重要な上陸の足がかりになる地点として、異国人たちに知れわたっていたに違いない。
 ある日この湊に新羅国の王子が質人としてやってきた。「新羅大明神在明田村、明田神社これなり皇后御帰陣のとき、異国の王子をここに預け置き給い、のちその王子を祭るという」と『播磨鑑』に記された明田神社は、八家川に近い字「下道居」に鎮座、社を安穏に守り固めるように、北接して西道居それに東道居の小字地名も見られる。
 道居地名は土井か土居などと書くのが正しく、道居の文字はおそらく当て字であろう。柳田國男は『地名の研究』の中で「播磨の方言に堤防のことをドエという。これは土居の転訛に相違ない。堤などの置き土をドイということは西部諸国一般の風である」と述べている。東へ張り出した八家川に堆積した土砂を積み上げ堤防として築き、内陸部の水田地帯を塩害から守るための防御施設「土井」を設けたのは、すぐれた土木技術をたずさえてやってきた新羅の国の人だったのだろう。
 定住の第一歩を記した記念すべきこの土地に、誇りある一族の祖先神を祀り、故郷にちなんだ新羅国の社名を付けたのではないだろうか。
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2006年07月06日

飛ノ森 とびのもり

■姫路市豊富町御蔭藪田■

薮田付近の市川の流れ 薮田の大森神社

 生野橋を渡りきったバスが大きく弧を描いて左に折れると、風土記にいう蔭山の里の南端となり、西の端は清流市川左岸の土堤となる。
鳥の囀りが初夏の薫風にのって運ばれる閑静な薮田集落の、南のすぼまった所にある飛ノ森という小字の場所に、かつて少彦命を祀った小祠があり、そこは飛ノ森明神とよばれていたが、明治41年3月北方川端の産土の大森神社に合祀されたと「豊富町神社誌」に記される。
明神社のいわれははっきりしないらしいが、少彦命といえば日本神話によれば、大国主命と協力して荒地を開いて農業の発展につくされた神で、薬の神としても名高く、薬種問屋がひしめく大阪道修町の少彦名神社は医薬神として信仰を集めている。
いにしえは大川の呼称をもつ市川端に藪が生い茂り、茂った藪は庇護藪の名のとおり河岸を護り、洪水から村を護った。これがおそらく藪田村の起こりになったに違いない。
しかし市川に加えて村の東を南流する神谷川と藪田川、この三川のせめぎ合う南端では悪水抜きが完全ではなかったのだろう、「井郷6カ村の用水井(ゆ)溝(みぞ)は洪水のたびごとに溢れ出し、土砂が田畑に流れ込んで収穫不能となる大被害に幾度もおそわれた」との記録が、薮田の庄屋高馬家の古文書に書き留められている。
人々の努力で樋が設けられ河原の荒地が豊かな農地に生まれ替わったとしても、いつの日か樋の決壊という最悪の事故は起こりうる。そこで村人たちの願望から勧請されたのが開拓神である少彦名命なのであろう。
少彦名命が鎮まる杜は神の棲む森で、樋(ひ)は音の似通った飛の字に置き換えられ、「飛ノ森」が誕生したと考えている。
 
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2006年03月02日

西五明 にしごみょう

◆姫路市豊富町神谷岩屋◆

五明池 巨岩の下の役行者像
 
 集落の中を流れる神谷川沿いの道は、むかし法華山信仰が盛んな時代に、詣でる人が絶え間なく往来した法華山一乗寺への参詣道であった。
一年を通じて流量の少ない神谷川は、北部山麓の黒田・岩屋・細野三地区の水利を賄いきれず、用水のほとんどをため池に頼るしかなく、後背の山の斜面に大きさ形の異なる幾つかのため池は、五明池や同じ音だが字の違う後明池などがある。
 「西五明」という小字は、中央の岩屋地区にあって「東五明」やや遅れて開発されたのだろうか、西隣の黒田地区に「後明開」もある。岩屋といえば集落と向き合う南山に大化元年(645)に創建されたという岩屋寺がある。寺の開基は法道仙人といい、本尊の毘沙門天は大正12年(1923)国宝に指定され、左脇には不動明王とともに役行者像も祀られている。
五明の意味について『日本の苗字読み解き事典』丹波基二氏は、中世の名田「御名」に由来し、五明のいわれを「一つは村の地形説、二つはインドの神、不動明王をはじめとする五大明王説。三つは、ゴミが訛ったもので泥水地のこと、四つは五名の開拓者による五名説」などの説を披露しているが、膝元の岩屋寺の存在を考えれば仏教用語との関連も無視できない。仏教用語五明とは、学問分類法による五つの科目を指すようで、五つの科目とは声明・工巧(くぎょう)明(みょう)・医法明・因明・内明というもので、これを五明と称するらしい。
岩屋寺から想像の容易な巨岩を対象にした古くて素朴な信仰が、のちに寺院隆盛の時代を迎えると門前に人家が増え、五明を修法する僧の集団によって新田が開発され、ため池が築造されるにいたったのだろうか。これを世間では寺請新田と云い慣わしたようだ。
県内宍粟郡山崎町の御名(ごみょう)は、揖保川と支流菅野川の合流地点にあって、ふるくは五明とも書き、1407年円空が開基した浄土真宗本願寺派攝州山西光寺がある。

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2006年01月11日

麻生 あさお

■姫路市奥山■

0601111麻生八幡宮.JPG  060111播磨の小富士山.JPG

 太古の森は濃緑の陰影につつまれシンとして静まり微動だにしない。標高173メートルの森の名は麻生山。古くから信仰の山として知れわたり、整った山容から播磨の小富士山とも呼ばれる。
 麻生という小字の場所は山と南麓の麻生八幡神社周辺をふくむ一帯を指し、八幡神社の御祭神が誉田別命、仲哀天皇、神功皇后の三神を祀ることから、神功皇后にまつわる伝説が伝えられているのもうなずける。
 その一つは植物の麻がモチーフであり、皇后が遠征の途中この山に立ち寄られたとき、一夜の間に麻が多く生い茂ったので弩(おおゆみ)の弦をお作りになった、という麻生の地名由来が語られている。あと一つはこの山から皇后の射た矢が安室の新在家に落ちて、二本目は青山に落ちた、三本目は太市の西脇の大岩に当たって三つに割れたという破磐の伝説が『播磨鑑』に記されている。麻で作られた弦の記述であれば『播磨国風土記』揖保郡麻打山の条に「二人の女が夜に麻を打っていたが、やがて麻を自分の胸に置いて死んでしまった」という麻の伝承が脳裏をかすめる。ちなみに井上通泰はこの麻打山を揖保郡太子町阿曽の山であろうと述べ、風土記研究者の間ではアサ、アソ、サは通音で、もともと朝鮮語で鉄を意味する語であると見なしているようだ。だとすれば麻生山の南にほど近い南奥山の大塚古墳をはじめ、近辺に散在する墳墓地の存在は、産鉄に関わった人達の深い歴史が埋め込まれているのだろか。
 すぐれた鉄の技術をたずさえて「継の潮」を足がかりに日本に渡来した人びとは、神が棲むと信じた森の近くに住まいを設け、日々聖なる山を拠りどころとして、見知らぬ土地に徐々に根を下ろしていったのだろう、隣接する北原地区の「渡会」という小字地名から、その残影を読み取ることが可能となる。
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2005年12月02日

火山 ひやま

■姫路市御国野町御着■


火山 天川の子鷺

 御着駅を発した上り列車の車窓右手にあらわれた火山は、むかしのままの山容で泰然としてそびえ、周辺の村落の栄枯盛衰を山ひだに包みこみ見守り続けている。
 市内の東部を南流する天川中流域右岸に立つ火山の標高は166,8、メートル、その名のごとく山頂で火を燃やし煙を立ち昇らせて、国の一大事急変を麓の村に知らせたであろうノロシ山との噂が高い。
 ノロシはもともと狼の糞を燃やしたことから狼煙とも書かれ、この制度は中国の律令や式などに定められた烽制(のろしせい)を引き継いだものだと言われる。のちに日本の風土に合った仕組みが取り入れられ、日本律令の「軍防令」は烽制について「昼ならば烟火、夜ならば火を揚げること」また「烽を置くときは互いに四十里離れた位置に置くこと」天候などの悪条件によりうまく伝達しなかった時は、国司の常駐する役所まで連絡人が徒歩で知らせるなどの指示が細かく示され、主要交通路に沿っていることが条件であったらしい。この通信手段は一字で烽(とぶひ・すすみ)と読み、飛ぶ火や煤(すす)みの語はまさにノロシが揚がる状態を示すもので、焚く火に狼の糞をまぜると拡散することなくまっすぐに煙が立ち昇ることから狼煙の字が当てられたといわれる。
 北麓近辺の別所町をよぎる国道二号線は、古代の山陽大道と重複しながら東西に延び、大道にはそのむかし都と筑紫を結ぶ「駅家(うまや)」が設置され、駅家では馬を飼い官職をおびた旅人の宿泊と馬の供給などが行われた。延喜式兵部省によれば播磨の大国姫路近辺では「佐突駅家」に三十匹「草上駅家」に三十匹が置かれたと記され、別所町北宿遺跡と西の今宿遺跡がそれぞれ比定地であるという。
山の華やかだった時代が去って幾星霜、いま山名を南山と変更された山に歴史への手掛かりは失われ、顧みる人はなくなるだろう。

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2005年11月14日

西針抜  にしはりぬき

■姫路市別所町佐土■

郡界の小さな溝 大村池

 大谷山の麓から東の佐土新にかけて、大村池・中池・宇淵池と点在する溜池の歴史は古く、なかでも大村池は天文の頃栄えた印南の鋳物師のリーダー大村家との関わりが重視される。
この池の西を南下する一本のか細い流れは、もと飾東郡御着村いまの御国野町御着と、かつて印南郡に属した佐土村とを別ける郡境の役目を担っていたようだ。
難解な「針抜」という地名は、小川の東に方角を表す西・東の両針抜が並ぶ。針抜という地名について「針抜きのハリは開墾地、ヌキは地滑りなどで崖状になった所で抜け山、抜け谷の類いではないか」との或る研究者の説もあるが、これは実地をよく熟知したうえでの地名解釈とはとうてい考えられない。
 そこで私は地元研究者の立場から視点を変えて針と、抜きとを一緒に引っ付けてみた。するとはりぬき―はんぬき−はんのき、となることに気が付いた。カバノキ科の榛(はり)の木はハンノキの古名で、ハリノキは枝葉を開く意味の「張りの木」が語源である。身近な植物の榛の木であれば地名に定着する可能性は大きい。田山花袋は『田舎教師』の中で「ひょろ長い榛の片側並木が田圃の間にひとしきり長く続く、それに沿って細い川が流れて・・・」と記し。『万葉集・草木と鳥と生活の歌』には関東や北陸では畦道に植えられ、北国ではいまでも高さ二十メートルにもなる榛の木のことを畦(けい)畔(はん)木(ぼく)といい、境畔木の字も用いられている。
遠いむかし、せせらぎの畦道沿いにハリノ木が空に向かって枝を広げる様は、古道を往還する旅人の目安となったに違いない。
姫路市内で榛の木に出会える場所は、飾東町の山崎大池の水際と、青山の自然観察の森がある。榛の木は林野の湿地に好んで生える落葉高木で、秋には球のような実が熟し翌年二月に褐色になり垂れ下がる状態から、地元では「かんざしの木」とも言うそうだ。
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2005年09月21日

百合ノ崎 ゆりのさき

■姫路市白浜町宇佐崎■

百合の崎
百合ノ川が流れ込む八家川

八家川右岸の「西濱畑公園」は東山地区、南の側溝が宇佐崎地区との境域を分け、雨天時に増水で危険がせまると大樋門から八家川に放出される。
「百合ノ崎」は、八家川が曲流するこの辺りの屈曲部の西奥にあったが、昭和五七年(一九八二)に始まった白浜町内の土地区画整理によって消滅して無くなった。整理前まではじゅるい湿田が広がる平野がつづき、以前の地図を見ると村の中を突っ切る排水溝が唯一の水流であったらしく、排水路工事にあたりこれまでの溝は大きく位置を変え、百合ノ崎付近に設けられた溝に「百合ノ川」と名が付けられたが、よどんだ水を湛えた川は面映げに見える。
 だが、やさしい響きの百合ノ崎はその名に似合わず恐ろしい災害の起こりやすい地形地名で、その語源は柳田國男の『地名の研究』によると、水の動揺によって平らげた岸の平坦地を由良・由利とかいい、ユラグ・ユルなどという言葉が転じたものである。また我が国の海岸線に多い地名の一つであると記している。海岸線がずっと南へ移動した現在の景観からは想像すら困難であるが、百合ノ崎の東に残された北浜の地名から、この辺りが海岸線の北端となる古い時代があったに違いない。淡路島の南東部海辺に位置する洲本市由良の地名の解釈もこれに同じく、奈良期に遡れる古代地名だといわれる。
 恋の浜城の跡と伝わる「城の元」の東を南下して蛇行する一筋の水路は、百合ノ川と同流である。城を防備した堀の役目を担ったかもしれない重要な排水路はいまも活用されている。


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2005年08月16日

青 あお

■姫路市的形町的形■


青の元三昧
昔、センドと呼ばれた墓地跡

海岸線に近い的形隧道をくぐり抜けた電車は辺りの木々をゆすり、茶褐色に色あせた葉が空に煽られて一瞬ざわつく、風の静まる間もなく下り電車がトンネルに吸い込まれていった。
的形と八家地区の境域となる下坂山の東に、小字で言うなれば「青」の西南隅を占めていた下坂池の大半が埋めたてられ、公園になったのは昭和四十年代後半のこと、山の南斜面に緩やかに広がる畑地が、その好立地条件ゆえに住宅地へと変貌した。
日本地名研究所の谷川健一所長は、青という地名について、青年だとか青春に代表される未熟さの代名詞ばかりでなく、青ざめた死の色でもあると述べている。沖縄の地理学者、仲松弥秀氏は、沖縄では奥武(おー)と呼ばれる地先の七つの島が、いずれももと古い葬所となっていたと推定する。この「おー」は青から由来するものであるとの論に「青の会」を主宰する谷川氏も賛同、「もし本土の海岸や河川の流域に青を冠した地名があって、一つには埋葬地と関係があり、二つには海人族とつながりがあるならば、それはなにがしか民族移動の痕跡をたしかめる手がかりともなろう」と記している。
的形の小嶋地区にある「青」について、自治会長、前畑孝雄氏は、昭和三三年姫路市に合併するまで「青」は地区の焼き場だった、火葬以前はセンドという三昧場で、土葬の古くなった墓穴にズッポリと長靴の足をとられた、と往時の記憶をたぐりよせる。
町内の福泊は行基が定めたという摂播五泊の一つで、もとの名を韓泊といったが、韓の訓みが空に通ずるのを嫌い福泊になったとのいきさつがある。的形は瀬戸内海でも有数の古代製塩の伝承地で、海の突端の岬に「行基ガ鼻」という地名が残っている。行基は、百済からの渡来一族で、すぐれた築堤の技術をもって塩田を切り開き、塩作りを広め、人びとのために尽くしたことから行基菩薩と呼ばれた。
たった一文字だけの「青」地名に、こんなに深い歴史の蔭が投影されていようとは、だから地名は面白い。
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