2009年08月07日

金竹 かなたけ

■姫路市豊富町金竹■祭礼の日の ひょっとこ.jpg  金竹の土井八幡宮遠景.jpg


 朝な夕なに甲山八幡神宮を仰ぎ見る金竹は、段丘の南端にあって横軸に県道仁豊野・大柳線が通じ、縦軸を県道北条・姫路線、播但連絡有料道路が西をかすめるという近古代ともに要衝の地である。
 金竹地名の由来は『神崎郡誌』に「応神天皇は尻調(しづき)尼(ねの)命(みこと)の妹金(かね)田屋(たや)野(ねの)姫(ひめの)命(みこと)の三人の娘を妃として十三人の皇子が生れた尻調尼命は勅を奉じて皇子を養いその子雅彦(わかひこ)外妹毛(も)良(ら)姫(ひめ)を壬生部とした」。古代の部民の一つで乳部(みぶべ)とも書き、乳母(めのと)に推挙された毛良姫を「けら姫」と読めばケラは鋼滓のヒ(けら)とも考えられ、応神天皇の妃金田屋野姫命の金田の名とともに産鉄一族にまつわる地名にいかにも好都合な名である。
 池田末則氏は『奈良県史』の中で職能地名の変化に注目、「小字(こあざ)枝組は画工(えだくみ)・妻田組は爪工(つまだぐみ)・同じく土田組は土工(つちだくみ)の改字とみられる」と述べる。ならば金竹は金工(かなたくみ)の転訛との発想はさして無理とは思えない。横軸の県道東南には古刹岩屋寺が鎮まり、坑道を表すというムカデの御神燈がさがる。西端の市川渡河地点に金属精錬の存在を示すかのように「鍛冶内」集落がひかえ、横軸一線に産鉄から金工(かなたくみ)師それに高度な鍛工までこなした大集団の足跡が浮かび上がる。
 町内の総氏神である甲山八幡神宮の主神は、品太別命(応神天皇)十月秋の大祭礼に金竹村から獅子舞が奉納される。金竹の有方市雄氏の報告によると梯子獅子を含めた伝統の十一曲にはそれぞれに意味合いがあり、最後の梯子獅子に「チャリン」を手にする「猿」と「ひょっとこ」が登場する。「チャリン」は両手に持つ小型の真鍮製楽器から出る音が由来であろうという。猿と火男(ひよっとこ)の組み合わせならば説明の余地をまつまでもなく金属鍛工にまつわる祭りに相違ないだろう。
 明治五(一八七二)年金竹・砂川・曾坂の三ケ村を校区とする錬(れん)金(きん)小学校が善寿庵(現曹洞宗善寿寺)に開かれた。何ゆえ新設の小学校に一風変わった錬金の名を付けたのであろうか、それを確かめる手だてはもう失われている。
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2009年06月24日

北良  きとら

■姫路市飾東町塩崎■

天川橋.JPG   北良周辺.jpg


 暴れ川の異名をもつ天川の全長は18キロメートル、その中流域に位置する塩崎の北方に「北良」と書いて「きとら」と読む小字地名がある。文字のままの読みだと「きたら」ではないかとの問いかけに、地区の男性は頑(かたく)なに「きとら」ですとこだわりをみせる。
 「きとら」地名であれば、奈良県明日香村のキトラ古墳が平成10年3月に調査が行われ、石室内の壁画に彩色された四神と、精密な天空の星座が確認されて当時の新聞記事を賑わせた記憶がよみがえる。この古墳は昭和58年壁画があることが判り「亀(き)虎(とら)古墳」と命名されたいきさつがある。この亀虎の当て字について日本地名研究所所長池田正則氏は、「地域の小字名だった北浦が転訛してキトウラ、キトラになったもの。それなのに最近では江戸時代に古墳の中をのぞいた人が、亀と虎の壁画を見たからと」安易な当て字にたよる命名を否定され北浦説を説かれたが、皮肉なことに今回の調査で古墳内部には白虎だけでなく玄武までもが壁画中に存在して、安易な当て字ではなかったことが証明され「伝説にも一縷の真実有り」の言葉を今更のように噛みしめる。
 では同じ読みながら古墳の在りかも定かではない塩崎の北良(きとら)はどのような解釈がふさわしいのであろうか。北はそのまま方角を指す語に間違いはなさそうなので問題は「ラ」である。語尾にラのつく地名をみると良、等、羅などの当て字が多く、あちら、こちら、などと同じく方向を示す接尾語と考えられるので、集落の中心から見た北の方角が地名に定着したのではなかろうか。
 姫路市内の「ら」の付く地名は飾磨区構の「北ラ」上野田の「北ラ田」もあれば船津町の「東ラ」太市石倉には「西ラ」だってあり、そのほか数件にのぼる多さはすべて方角を示すラ地名であるから、「北良(きとら)」の読みはともかく方角地名と位置づけても無理はないだろう。
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2009年05月29日

大ソリ  おおそり

■姫路市継■

継北1信号付近.JPG  山中に鎮まる住吉神社.JPG



 風土記にいう継(つぎ)の潮(みなと)の比定地とされる継は、姫路バイパスで北方の視界をさえぎられているものの、見野廃寺跡や長塚古墳、姫路の石舞台と噂に高い見野古墳群など古代遺跡の宝庫に隣接する。
 このような背景に支えられる継の地名由来は、風土記に一人の女が死んだ、女を復(つぎ)生(い)かしたので継の名が起こったとするも、実のところ韓泊(福泊)からの舟運中継地の継(つぎ)湊(みなと)が名の起こりとの説も捨てがたい。
 入り海湊の名残は村内北西山中に住吉神社があることだろうか。竹林のトンネルをくぐり抜け住吉さんへの参詣を終えてだらだら坂を下ると、幹線道路312号線へ出る。「大ソリ」の該当地はここから南の「継・北」信号を東西にまたぎ、条里制度の地割りにならったと思(おぼ)しき水路で区切られる小区域である。
 ソリという地名はアラシだとかコバ地名と同様に、焼畑地名だといわれ『日本歴史地名総覧』は、焼畑はもともと山の急斜面を利用するので後地が荒れて崩壊することとは、焼畑の両側面であって崩壊地名をも意味すると記述する。なおソリという語は地方によってソウリ、ゾウレン、ソウジと種々に変化を遂げ、漢字表記をみると反・曾利・蔵連、太市石倉山中の「掃除」や御津町碇岩の「剃山(そりやま)」などは焼畑が終ってさっぱりと小綺麗(こぎれい)になった当時の状況がよみがえるようだ。しかし焼畑地名といっても一様でないことを柳田國男は『地名研究』の中で告げる「ソリは休んでいる土地であり畑を焼くことではなくして…」との一説から、ソリは焼畑そのものではないこと、その跡地の地力が肥料切れのために休ませた土地の状態の名であること。つまりこれまで焼畑を一括りにしての解釈だったソリ地名の奥深さに地名の多角的解釈がどこまで迫れるのか心許ない。
 市内のソリ地名は当地のほかに明田・広畑にもあって、明田には新羅(しらぎ)神社、広畑には播磨国と同じ「播磨」という遺称地名が残る。古代播磨の野が空が焼畑の炎で赤く染め上がった拓(ひら)けゆく時代を語る地名である。

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2009年04月15日

渡来 わたらい

■姫路市北原■

旧名白髭明神社.JPG  松原井分水地点.JPG



 姫路駅前を出たバスが細い道を通り抜け阿保橋を過ぎたころ、眼前に市川左岸の平野部が広がりを見せてきた。この道筋は県道白浜・停車場線といい、間もなく田に水が引かれるという六月の午後、噂に聞くところの「糸引井」の分水地を訪ねる。
 分水地点は河川記号で住宅図に表され、奥山・継・東山分水は東へ、松原・中村・宇佐崎への流れは南方面へ伸びる農業灌漑用水で、この水路の開削を四世紀の中ごろと推測するむきもある。
 渡来という名の土地は分水基点の南西方向にあって、条里遺構とおぼしき水田が広がっていたのだが、開発がすすみ記憶に残る風景はもはや失われていた。近くで庭の手入れに余念のない男性は「ここは歴史なんか何もない田舎やでー」と気の毒そうに笑ったが、なんのなんの、農業用水を二方向へ分水という高い技術を持ち合わせた職業集団が、定住した形跡を秘めた歴史の宝庫、それが渡来(わたらい)という地名の起こりに違いないのにと一人呟(つぶや)く。
 県道を西へもどり、坂道をあがると広いグラウンドの脇に大歳神社がある。そこは通称藤の棚と呼ばれ、平坦地をあらわす「棚」と呼ばれる地名は、グラウンドの転換にもってこいの場所であったのだろう。大歳神社脇の小祠は元の名を白髭明神社と伝え、あまりの古社ゆえに祭神は判らないらしい。しかし白髭社であれば若光(じゃっこう)王(おう)を祀っていたに相違ないのだが、若光王は高句麗系の渡来人といわれ、王族の出身で高句麗滅亡の二年前(六六六)に日本に渡って来たと伝えられる。この王が祭神であれば、ここを開拓して定住の地と決めた人びとの出自は高句麗系と推測できる。
 それはとりもなおさず灌漑分水という高度な技術を引っさげて移住した集団であったはずである。そのころ南の白浜町はなお湿原状態の平野が広がり、分水堰築造を仕上げた渡来人集団は先駆的な鉄器を使用して石を削り、刻苦の末に切り拓いていったのだと確信がもてた。
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2009年02月14日

桃ケ坪  ももがつぼ

■姫路市白浜町中村■

中村白浜の町並みと麻生山.jpg  宇佐崎踏切の百合崎地蔵堂.jpg


 私蔵する昭和五五年の住宅図を見ると、むかしのままの畦道が図面上に幅を利かしていたのだが。いつしか整然と区切られた新しい洒落た町並みに灘の里は変貌していた。
白浜土地区画整理事業が始まったのは昭和四八(一七九三)年ころ、この年をキッカケにして奈良時代の条里制区画を踏襲する田の遺構跡は大きくくずれていった。
 条里制遺構を確かめる手だてとなるものは、意図的に区切られた田の並び具合と共に、小字地名に条里制度と思(おぼ)しき地名が残っているかどうかが鍵を握る。なかでも「五ノ坪」のように数字の付く坪名があればまず疑いなく、これが複数残されていると立派な古代の田制が図上に点描されていると考えてもよいだろう。
 では表題の数字ではない「桃ケ坪」はどうなのであろうか。果物の桃は普通「もも」と発音するが音読みすると「とう」、すなわち十(とう)に通ずることから十ノ坪に桃の文字を宛がう例は多く、これは昔話に登場する桃から生れた桃太郎のなつかしい記憶が脳にインプットされているからかも知れない。当町内には三の坪だとか、十の坪、十一の坪、柳ガ坪など条里地名が点在していて、なかには十カ坪の変え字と思われる遠ケ坪(とおがつぼ)も見うけられる。だが古い字限(じげん)図(ず)上にこれらが必ずしも条里制度の配置上にある訳ではないのが、思案にくれるところである。ともあれ他所には一ノ坪の変え字である市ノ坪や石ノ坪があり、松ノ坪は条里制度三十六ノ坪の末(まつ)ノ坪かも知れず、梅ケ坪の梅はおそらく埋めの変え字であろう。      
 海岸線の後退で広大な湿地が生まれると、条里制を取り入れて良田とした人びとは、石を切り出し組み立てて分水するという灌漑技術を駆使して「糸引(いとひき)井(ゆ)」を成し遂げた同一集団の可能性がもてる。彼らは後世渡来人と呼ばれ歴史上にその偉業を高く評価されている。
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2008年12月15日

西ノ神  さいのかみ

■姫路市豊富町細野■

公民館前の記念の石碑.JPG  バス停脇の道標.JPG


 東の古法華まで東西につづく県道大柳・仁豊野線は、静かな集落を避けて昭和二三(一九四八)年に完成、バス停前の道が旧道かと思いきやこれは新道らしい。
 一筋北の旧道は細くカーブしながらゆるやかな坂道がつづき、なるほど村の中心地であろうか、公民館前に出るとユニークな表示の石碑に「二十世紀の細野」の様子を「細野公会堂新築は昭和五七(一九八二)年」「細野に電灯がついたのは大正九(一九二〇)年」こんな風に箇条書きで村の文明変遷の歩みを簡潔に記す記念の碑が建つ。 
 「西ノ神」の場所は北嶺の中腹辺りにあって村境には程遠く、さりとて道が出合う辻でもないのに「さいのかみ」とは合点がいかないが該当地を訪ねると、折りよく居合わせた当主から「昭和のはじめころ亡くなった父親が「拝み屋」を家で行っていました。子どもの疳の虫に良く効き、遠方からでも子どもをつれて訪れる人が多く、よく繁盛してました。疳の虫に効く特別な薬を与えていたのかどうかは、自分が子どもでしたので記憶があやふやで、家も建て直したので何も残っていません」との話を聞かせていただく。
 「拝み屋」といえば庶民の苦悩を和らげるために加持祈祷を行い、星の動きで吉方を占う霊能者で、土御門家が発行する司天家(してんか)の免許状を持つ家もある。陰陽道の流れをくむ祈祷師たちは、疾患の病苦を取り去るがサルに通ずることから「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を信仰の対象に据えた歴史は古く、元は道祖神だとか庚申信仰に起原をもつ。
 近隣に拝み屋として名を広めた浅田博文家は、改築以前は背後の高台「西(にし)の岡」に屋敷があっといい、これは西(さい)ノ岡の可能性が高い。明治の修験道廃止令で庚申信仰も廃れたが、霊能者として信頼を得ていた拝み屋はそのまま昭和の御代を迎えたのだろう。
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2008年09月27日

勅旨 ちょうし1

■姫路市花田町勅旨■


市川右岸から見た勅旨.JPG  電柱表示まで変わった.JPG


 ある大手出版会社が発刊した地名辞典に、姫路市花田町勅旨(ちょうし)を(ちょくし)と載せ、通称はちょうしと紹介している。ちょうしは初めからこの名であって通称ではなく、これまでに「ちょくし」の呼び名はなかった。それが資料的価値の高いとされる地名辞典に載ることで一般化され、地元をはじめとして全国に流布していく恐ろしさを身をもって体験している。
市川下流域左岸の河川沿いにある勅旨の村東には、町内外9カ村の用水をまかない町名の由来ともなった花田井(鼻田井とも書いた)の流れが通じ、正徳3年(1713)以前に造成されたと伝わるこの井溝筋が、市川の旧河道ではなかろうかと注目している。
 『花田史誌』によると「むかしはこの集落の東を川が流れていて、戸数わずか13戸ばかりなり」と記され、小さな村の様子がおぼろげながらも浮かび上がる。川が東であればそれは小川と呼ばれた時期で、深田だとか高河原・小島などの小字(こあざ)地名が示すように新田の可能性が濃厚で、ある時期「勅旨垣内」と呼ばれた小集落誕生の変遷は遡るほどに奥深いと感じた。
では、勅旨という地名の真の解釈はどうなのであろうか。『地名用語語源辞典』を引くと、「(たふし・倒し)の転で崩壊地名・侵食地形を云うか」とあり、侵食された危険な地形を指しているようである。たふし(倒し)とは目の前のものが突然倒れるとか崩れるとかの意で、川岸の集落をたびたび襲う洪水の被害箇所に多い地名である。たふしと云う言葉が永い年月の間にちょうしへ転訛すると、以前からの言葉は意味を失いちょうしの音だけが伝わるが、それさえ忘れられて意味不明のために、神功皇后や菅原道真が立ち寄ったとかの貴人伝説がまことしやかに語られるのが常である。ここ勅旨にもこれに似通ったいくつかの伝承が残される。その一つは「南に近接する播磨国分寺があることから勅旨田の遺称地名」だという説、また古代山陽道が勅旨を経て広峰山や書写山へ通じていることから「書写山円教寺修造のとき下向した勅使が止宿した」との説など、この二つが根強く語り継がれている。しかし米作りに不適切かと思われる川淵の侵食されやすい土質が「勅旨田」としての機能を果たし得たであろうか。また「戸数わずか13戸ばかりなり」の戸数では勅使が止宿して十分な応対が行き届いたのであろうか。
 この説に対し旧の『姫路市史』は「永享4(1432)年8月洪水、9月地震、書写・増位・国分寺の堂塔多く倒壊す」勅使大納言基秀が状況を視察に訪れ数日増位山に逗留、宿にされたのは増位山内と記述が見える。洪水で軟弱になった地盤に地震が襲いかかると堤は難なく倒壊したであろう。これを目の当りにした人々の率直な気持ちが「たふし」へつながり、ずっと後になって勅使下向の事実と重なり伝承が発生したと考えられる。


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2008年09月10日

板  いたば

■姫路市大塩■


的形との境の西浜川.jpg  養魚場内の横澪.jpg


 山陽電鉄大塩駅に降り立つと広大な塩田跡地に舞う風は、浜子たちのショツパイ汗の匂いを、すべて過去に運び去ってしまっていた。
 地元の守谷利永さんは、「塩作りが盛んだったころ、東澪・中澪・西澪・尻無し澪そのほかに横澪と呼ばれる澪(みお)がたくさんあって、塩田の中に製塩場が四~五カ所あったが、25キロ入りの小俵に詰められた塩は、船に乗せ澪を通って運んだ」と往時を振り返る。 
 西澪の名残はいま西浜川とよばれ、隣接する的形との境となる堤防沿いに「板」と一字で「いたば」と読むめずらしい小字がある。付近は廃業した養魚場跡や排水のためのポンプを兼ねた大樋門一帯もふくまれる。
 板という地名は全国に字を変え読みを替えて広範囲に分布が見られ、海に流れ込む川のそばに多く付けられる崩壊地名であることに間違いはないのだが、現在二つの解釈に分かれている。その一つは水害などで決壊を防ぐ場に打ち込まれた板がそのまま地名に定着したもの、なかでも矢板を打つなどの言葉は現在にも通じる語で、矢は水や流水の意味を持ち、水際の土砂崩れが起こる場に板が打ち込まれる状態を「矢板を打つ」などと表現される。もう一つは、毎年のように繰り返される自然災害の猛威にさらされて、暴風雨で痛んで土砂崩れを起こした場が痛み場、すなわち「いたば」になったとの説である。
 うがった言い方をすれば横澪が通じていれば、そこは非常時に決壊が起こりやすい場所ではなかったのだろうか、大雨が続くと横澪へどっとなだれこむ海水を食い止めるために防護の堰板を打ち込む。そして危険極まりない場所に「板」という地名を付けて何よりも大切な仕事場を守った。先人達の知恵と技がキラッと光る地名である。
 水郷で名高い茨城県行方郡(なめがたぐん)潮来町(いたこまち)の地名の由来は、潮を「いた」と読み、潮が寄せ返し痛んだ場所が想像できる町名であるが、むかしは板来や板久などの当て字であったという。
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2008年06月30日

桜ノ木 さくらのき

■姫路市豊富町江鮒■

裾池と甲八幡神社の赤い鳥居.JPG  段丘の坂道.JPG


 仁豊野橋を東へ渡ると間もなく甲八幡神社の赤い大きな鳥居が視界に飛び込んできた。鬱蒼と繁茂する木々の奥の古社に祀られる神は「風土記」に記され、神の名にちなんだ町名が生まれ、山の姿から甲山と呼ばれる。
 バスに揺られ江鮒停留所で降車。北へ向かうバスの後尾を見送ると、あれっバスが目の前から消えていった。甲山の標高は107.8m、の独立丘で、裾野は河岸段丘とよばれる豊富平野が広がりをみせる。なるほど先ほどのバスは段丘の最高段を下っていったのだとやっと理解できた。
 「桜の木」を尋ねるため地図を片手に広げると裾池の奥に鳥居の表示、字限図にも残る裾池は段丘の最高段に位置し、その名の通り山裾の平坦地の窪みにできた池であろう。目的地は池の下手(しもて)に当たり1758〜1766番地とさほど広い範囲ではなく、この壮大な平野に似つかわしくなくむしろ狭いともいうべきであろうか、該当域の建屋の裏側は低めの崖が石で築かれ通り抜けは不可能らしい。裏手に回ると誰が見てもはっきりとわかる坂道が北へ延び、両側に階段状に仕切られた家屋が建つ敷地から、ここは自然の地形に付けられたサクラ地名との考えに至った。
 日本人が愛してやまない桜の花は、地名に用いられることが多くその解釈は一様(いちよう)ではないが、漢字にこだわらずサ.ク.ラという語を分解してみるのもいいかも知れない。サ、クラのサは狭い所を表す接頭語、クラは谷を意味する古語であり崩れやすい谷をいう言葉なのだから、これほどの条件に適う場所に異論はないだろう。
 悠久の時に刻まれた大地は人間に与えられた最大の恵みである。産土神に額(ぬか)ずき日々感謝を捧げよう。 
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2008年05月30日

風浦 かぜうら

■姫路市豊富町鍛冶内■

疎水脇の鍛冶内地蔵堂.JPG   仁豊野橋より北を望む山なみ.JPG



 仁豊野橋東詰めの信号辺りが小字でいう「風浦」の該当地で、村の中心はもうすこし北の地蔵堂辺りにあって、そこは鍛冶内村の「鍛冶内」という小字名(こあざめい)である。
 もと豊富の公民館長を勤めた故大西忠雄氏は、このあたりに「おこんじ」「折戸」「三昧」とよぶ旧の小字が存在したと語る。察するにおこんじは分岐点に祀られる「お庚申」がつづまったもの、折戸は「降り戸」の替え字で、主要道へつなぐ渡河地点を表している。
 市川の流れに左右されつつ発達した村は、たえず自然を意識しつつ暮らしを重ね、とりわけ川向うの西北に屹立する広峰山系から吹き降ろす風の影響は計り知れないものがあったに違いない。風をいまに伝える小字地名「風浦」の浦は、船の停泊を示す湊の意味もあろうが、堆積する土砂その他が風の作用で漂着する汀(みぎわ)を「風浦」と人は呼び、強風を必要とした古代の鍛冶部(かちぬべ)、鍛冶職の集団の居住地にちなむ鍛冶内村の起こりになったと考えている。折りしも(古墳時代中期)から、四世紀後半ごろの「たつの市竹万遺跡」で「朝鮮半島で造られた農耕具鋳造鉄斧(てっぷ)一点が見つかった」との新聞報道は心強い。
 風を表す言葉にこんなものがある。西北から吹く風を「アナジ」「アナゼ」と云い、それは北西からの季節風を指すらしく、風が吹く方角だとか風音を五感でとらえる細やかな感性を持ち合わせた先人は、東風を「こち」などという風言葉を生み出した。風の研究家高橋順子氏は「瀬戸内中西部 四国を中心とし西日本一帯で使われ、冷たく乾ききった北西からの季節風をいい「あなじ」と「あなぜ」を較べると「あなぜ」のほうが古い言葉だったようだ」との説に、古代製鉄に関連するという市川下流域の飾磨区阿(あ)成(なせ)という地名が思い浮かび、市川を縦軸とした渡来人の移動が地名に刻印されていると見た。
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2008年05月06日

高野田 こうやだ

■姫路市御国野町御着■

御着駅前広場.JPG   一里塚.jpg


 JR山陽線御着駅で降りたのは2人だけという駅舎に立つと、なにやら心もとなかったが、青葉の蔭から急き立てるような鳥のさえずりに目的地へ向かう。
 北の四辻を東西によぎる旧山陽道を文化元年(1804)、公用で通りかかった幕府の役人で狂歌師でもあった太田南畝(蜀山人)は「御着といえる宿に着く、宿の中なる土橋を渡りて、天守いよいよ見ゆ、左右に一里塚の松あり、これより縄手道を行くに…」と御着あたりの景観を『革令紀行』に記している。なお紀行文中の土橋は、24年後の文政11年(1828)竜山石製の太鼓橋に架け替えられた。
 高野田の位置はこの山陽道筋(縄手道)を北限に、駅構内を南へまたぎ細長く延びた範囲の内だが、いまどき小字で土地の名を呼ぶ人は数少なく、御着きっての郷土史家、故井上重数さんに高野田のいわれを尋ねたが「高野山関係の田ではないかと言う人もいますがどうでしょうか。近くに花揃という小字もありますが」と、申し訳なさそうに高野山との関わりに否定的な口ぶりが印象的だったのを思い出す。
 町内国分寺の存在から高野山とのつながりを想起させるのは当然のこと、しかし高野田の元の字(じ)は興野田もしくは荒野田が正しく、開拓地名の一つではないかと考えている。
 「興野・荒野」という地名は中世末期から近世末期にかけて開墾された土地を言い、関東圏に多く見られその歴史は古く、計画なしに徐々に切り開かれた「切り添え」と呼ばれる「切添新田」地名と同種の土地に違いないだろう。
 大雨の季節ともなると溢れ出す天川の流れは、東へ西へと絶えず流動して氾濫原野を生み、両岸の肥沃な湿地帯にやがて開発の手が加えられそこを人は高野田と名付けた。古代山陽大道に沿う南の湿地帯が良田に生まれ変わると、間もなく整備されて直線計画道路「縄手道」が出来上がり、旅の目安ともなる一里塚が設けられた。これが近世の主要な山陽街道であろう。
 越し方を振り返れば、都と大宰府を結ぶ大道を駅馬が疾駆した。国分寺の僧侶がおもむろに歩をすすめ、縄手道を参勤交代の行列が「下にー下にー」と御着の本陣を目指す。飛脚が韋駄天走り、一里塚の大樹の木陰で旅人が煙管片手に憩う、地域の歴史を浮かび上がらせる高野田地名である。
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2008年03月26日

射目崎 いめさき

■姫路市飾東町塩崎■

塩崎 明神の森.JPG  屈曲する天川.JPG

 飾東町を南北に縦貫する天川の源流は、古法華ダムを起点にして猫の谷をくぐり抜けると姫路市の東部御着へ至り、およそ全長18キロメートルを南下して播磨灘に注ぐ。
 天川中流域の両岸にまたがる塩崎の北方に「射目崎」とよばれる地名がある。ここは急な角度で大きく方向を変える堤防沿いにあって、村の人たちが「才の神さん」と呼ぶ明神社が南向きに立つ。
 射目崎という地名について、日本地名研究所の谷川健一所長は、むかし鉄砲伝来以前の話として「狩人が獲物を狙うために射目を立てた所を射目崎といい、この地名は古代の狩猟に関わる地名」であると述べる。また射目は翼目とも書き、崎は先の当て字であろうと結論づけている。 狩人といえば山中の獲物を仕留めることを生業とするはずなのに、このような川の淵に射目を立て獲物を狙うのだろうか。この疑問は『風土記の考古学2櫃本誠一編』の中で、田中真吾氏の「塩類泉による塩水を動物群が求めて集まっていると考えられる。塩類泉がたとえば山崎断層線沿いなど、古い構造線沿いで噴出していたであろうことは容易に考えられる」との明解な論ですべてが解けた。そうであれば湾曲部の水がよどむ場所は、塩類泉が滞留する動物たちの格好の水飲み場だったに違いなく、人だけでなく生き物に不可欠な塩分の補給を目当てに、動物たちが集まってくる場所は最高の狩場だったことから射目崎と名付けられたのだろう。だとすれば同じ町内北部に立地する八重畑鉱山との脈絡もおおいに参考になりはしないだろうか。
 計り知れない地底のつながりはこれだけではない、塩崎近辺の豊国・春日野・上原田地区の氏宮である春日八幡神社のご祭神の一人たたら守護の神、天児屋根命の名は歴史の深層部にぼんやりと薄明かりを届け、もしかするとここが「風土記」記載の古社「射目崎明神」との説も成り立ってくる。
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2007年11月13日

馬坂  うまさか

■姫路市大塩■

のじぎくの道.JPG  馬坂峠入り口.JPG


 東の一角を占める標高93メートルの大北山と、中筋山の谷あいの峠の名を土地の人は馬坂林と呼び、晩秋のころに可憐な白い花が咲き乱れることから、花にちなんでのじぎくの里と名が付けられている。
 平安時代の荘園資料にすでに大塩庄と名がみえる大塩は、播磨の名うての塩どころとして名を馳せ、その歴史は古く、山の中腹から山麓一帯にかけて分布する多くの遺跡は、古い時代の海塩と人との関わりの深さを語りかけてくる。       
 峠を北へ越すと高砂市の牛谷へと至り、ここからは北方を横切る高速道路に遮られているものの、いにしえの山陽大道が北方まぢかに視野に飛び込み、奈良時代(8世紀)延喜式に記された「佐突駅家」伝承地にも近い。
 民俗学者宮本常一氏は『塩の道』の中で、「すべての道が海につながり、塩の通る道は先に通ずる重要な道である」と述べている。古代から塩の大生産地であった大塩は山陽大道へ近距離という立地条件で、東へ西へ奥地へと塩の一大供給地であったことは疑いなく、馬や牛の背に海塩を載せて運んだことから馬坂の名が起こったのだろう。
 ではこの峠に伝わる「馬の首」の伝説をご存知だろうか、あらましを紹介すると「峠は古くから大塩の庄の牛谷、小林、北宿、別所に通ずる幹線道路で、天正年中御着城攻略を計った秀吉軍は大塩城を攻めた。このとき戦場に倒れた馬をこの辺りに埋めたのだが、その後夜になると死者の霊の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。ある晩この坂道に嫁入りの行列が差しかかると、星明りの中に馬のいななきとともに白い馬の首が歯を剥き出し花嫁に襲い掛かり、奪い去ってしまった」
 この話について略奪婚の遺風などとの風説もあるようだが、白い馬の背に揺られて夜の峠越えをする白無垢の花嫁姿は、ひょっとすると白い塩が奪われたのではなかろうか、貴重な塩が暴漢に横取りされたとの語り草が、いつしか悲劇の花嫁に置き換えられながらも、塩どころ大塩の歴史をそれとなく伝えている地名と考えられる。
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2007年09月30日

大正根 たいしょうこん

■姫路市豊富町曾坂■

神谷川岸の新次社案内碑.JPG  行者堂脇の藤掛・大畑稲荷社.JPG


 曾坂口バス停を下車すると、神谷川堤防沿いの「式内新次(にいすき)神社是より六丁」と刻まれた石碑が出迎え、小ぶりな橋を渡ると新次社が間近いことを知らせる。
 社を拝し東への細い小道を辿ると、土地の先達をつとめた故尾島亮太朗さんが熱い心を傾けた行者堂が変わらぬ姿をみせ、藤掛・大畑大明神の赤い鳥居が脇に二つ並んで建つ。
 大正根という文字を書いて「たいしょうこん」とよぶ場所は、曾坂から山越えで飾東町へと抜けるだらだら峠近くにあって、日本のどこにでもあるごく普通の田畑でしかないが、古い時代に日本中に流行した大将軍信仰地名であろう。市内のあちこちに読みを変えつつも地名に痕跡を残す大将軍信仰とは大陸伝来の陰陽道の星の神を祀る信仰を指し、運勢暦を見れば3年ごとに一巡する方位を司る凶神として恐れられると書いている。
 大将軍のふるさと、本場の韓国では大将軍のことを長柱(ちゃんすん)と言い、その形は長い木柱に魔除けの恐ろしい顔が描かれた男女二対の柱が、他村との境界となる村の入り口や川の側などに多く残っていたらしいが、開発は長柱の数を激減させ、最近やっと保存運動が高まり、長柱を一箇所に集めた長柱公園が作られている。
 この信仰はあまりにも古い信仰であるがために、村落では祀る意味がさまざまに変化しているのが特徴で『地名伝承論・池田末則著』は「霜月神事、ことにニジュソ(二十三夜祭り)の神事に結びつく、しかし日本の各地に多く地名で残るこの信仰も、若狭地方を除いてはすでに過去の信仰となっているようだ」と述べる。
 市内では大将軍という呼び名は奥山のほかに数例を数えるのみとなり、それも当地の大正根、玉手の大浄宮(だいじょご)などの当て字となると、もう意味不明となり、一世を風靡した庶民の信仰も追跡は不可能となった。しかし当地の大正根地名が、もと大将軍信仰である可能性は高く、行者堂脇の二つの明神社がその系譜を受け継いでいるとの確信に至った。

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2007年05月29日

京田 きょうでん

■姫路市四郷町上鈴■

元取山前の霊園.JPG  行者堂前の由緒ありげな石塔.JPG


 元取山中腹から東へ目を向けるとひょろ長い煙突が一本、ノスタルジックな煉瓦作りの煙突が一本、大小取り混ぜた形の煙突が集落の外郭を廻らすように立っている。
元禄郷帳に「古は御着村」とある村の中の目抜き通りが南北に延び、さして道幅は広くない四辻の小路奥の行者堂前には、由緒ありげな古い石塔が一列にならび、真新しい涎掛けから地域の人たちの手厚い信仰がジンと胸に伝わってくる。
京田という地名の場所は行者堂に近く、元取山霊園南麓の大歳神社を境にして東方へ延びる一帯となるのだろうか。京田という地名の解釈について柳田國男は「京都の資本が入って開墾した地名ではないか」と京の字にこだわった説を述べているが、日本地名研究所の谷川健一さんは「修験で知られる羽黒山の(経田)であった可能性が強く、羽黒はむかしは経田といわれる田をたくさん持っていたようだ」と自論を披露する。京都の資本による京田なのか、羽黒修験の経田なのか、手がかりとなる歴史情報は地区の小字地名しかないだろう。すると意外にも、ゆりょう(井領)ツクダ(佃)など中世に起源を持つ地名に加え、京田の東はすかいに「才藤坊」という宿坊らしき名の小字があるのに気が付いた。
宿坊での朝夕、読経に必要な経費を捻出するための田を経田と呼び、ときには本山の名僧を招き祈祷行事の出費の賄いにも充てられることもあり、あるときは宿坊の先達が率先して本山へ修行に出かける費用も捻出されたかも知れない。これらの元締めが才藤坊を名乗る宿坊であった可能性は大きいと考えるのだが、どうであろうか。ただし経田地名が即(そく)羽黒修験と結びつくか否かの断定はむつかしく詳細は不明である。
現在集落内では才藤坊の由来はおろか、その存在さえ知らない世代が増え、語り継ぎもないままに、歴史は深い襞の奥にたたみ込まれつつある。


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2007年03月21日

歩行田 あるきだ

■姫路市山田町多田■

さらさら流れる平田川  諏訪明神の杜遠景

 平田川に近い諏訪神社の森に立つと、田を吹き抜ける爽やかな風が舞い立つ。全身で受けとめた風のそよぎは青い匂いを放ち、『播磨国風土記』神崎郡の条「多駝里」の歴史を語りかけてくるようだ。
 兵庫県内でも珍しい「歩行田」という小字地名は、多田地区の南西の隅にあって、西山田地区の通称歩行田と同一の境域にあったようで、もと寺新田と呼ばれていたらしい。
むかし村の寺院は村役場のような存在であったから、山の手入れや溝さらえなどの共同で行われる作業の日時、または寄り合いの時間場所などを、近隣の各戸に知らせるために「触れ歩く」人がいたが、のちに「触れ」を省略してアルキ役またはアルキさんと呼ばれていた。とりわけ近世初期には庄屋の補佐役を勤めたというアルキさんの手当てを、寺が独自で開墾した開発田から捻出したので、この田に歩行田の名を付け他と区別したのだろう。多田地区では以前分村・合併が繰りかえされたというから、近隣複数の村の持ち合いでアルキ役がいたのかも知れない。
アルキさんのことは、浄瑠璃『平仮名盛衰記』に「村中をかけ廻るアルキがにょっと門口から」また『地方判例録』享保5(1720)年の書き付に「本陣・問屋・旅籠屋・茶屋または外商人・百姓・馬役・歩行アルキ役」とあり、すくなくとも八代将軍吉宗のころすでに職業として周知のことがらであった。だが、時代は移り変わり昭和30年代、地域の集会所に放送設備が設けられると品格を備えた村の情報伝達役として活躍したアルキ役はやがて廃止になった。             
市内網干区大江島地区の近世古文書類の中に、出家、僧、医師と並び歩行役
茂右衛門の名が記され、曾孫、茂氏のルーツとの証言を得ることができ、地域を際立たせる歴史地名が一つ裏付けされて浮かび挙がってきた。
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2007年03月01日

別面 べつめん

■姫路市四郷町東阿保■

結ばれた縄は絆の証し  別面公園

 市川の阿保橋東詰めを南へ折れたバスは、まもなく光大寺という停留所にさしかかり下車する。だが辺りに光大寺らしき寺の姿はどこにも見当たらない。
 仁寿山の北麓にあって阿保古墳群(百穴)をかかえる東阿保は、元禄時代以前は野阿保村といっていたようで、現在は光大寺・新田・三軒家・本村と四つの集落からなり、おとずれた日はトンド焼に間近い日とあって、畑の中に飾り付けを終えたトンドに出合えた。
大雨のたびごとに市川の濁流が山裾まで流れ込む土地柄であったのだろう。停留所あたりの字(あざ)を下久保田といい、上流に上久保田の字もあるので、流入する水に川床をえぐられ窪んだ土地に久保田の字があてがわれ、上流から下流に開拓が進められた様子が、現在の新田だとか三軒家などの集落名に残っている。
村へ通じる道の北脇の小さな公園に、子供向けの遊具が並び別面公園の文字が見える。ここがいわゆる別面の南限となり、県道白浜―姫路停車場線をまたいで北へやや扇形に広がる1116〜1167番地が小字でいう別面である。
別面の由来は、地名が残っているにもかかわらず、存在の不確かな光大寺に求められるのではないだろうか。いつとも確定しがたい古い時代に建立され、特別の免除が許可された寺庵は幻のようにひっそりと廃寺となったが、別免の地名だけが残り、やがて免の字は同じ読みの面の字に入れ替わったと考えられる。くわしい理由は分かりかねるが、「建長元年(1249)正明寺文書に「英保郷包末別」称名寺の念佛田4段10があった」と『歴史大系地名辞典』に記載があり、免除地の対象となったのは寺社や常夜灯に許される灯明田や供物を捻出する仏供田などの類ではなく、声明念仏にかかる費用一切を賄う念佛田だった可能性が高いのではないか。
「地名は埋もれた文化財」の言葉どおりに、別面という小さな地名が河川に翻弄されつつも現在に生きつづけ、夕日に映える集落の歴史に彩りを添えたと感じている。


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2007年02月12日

糠岡 ぬかおか 2

■姫路市船津町八幡■

糠岡二つ  八幡遺跡の碑


 城牟礼山から東へわずか三キロメートルたらず、風土記にいう八千種の野に赤松氏の家臣が築いたと伝わる飯盛山の城跡が望める、ここも古代には多駝里の一角であった。
城牟礼の(キ)といえば品太天皇の御代に百済の人がここに城を造ったことにより、城の字が当てられているが城(キ)はもしかすると「基」ではなかろうか、苗字研究の大家丹羽基二さんの推理によると基は墓につながる字源をもつ漢字であると興味深い説を披露、だとすれば城牟礼は霊魂の静まる山なのか、八幡遺跡からは弥生時代中・後期の竪穴式住居跡や周溝墓が出土、首長墓のそば近くで、永久の眠りについた人びとの離れがたき心が伝わってくる。茶褐色の赤みを帯びた独特な土質を糠に見立てた「風土記」の語りかけを、金属精錬の伝承用語である「ヌカ」と認識すれば、日本地名研究所所長谷川健一さんの「糠という地名のつく場所はおうおうにして砂鉄と関係の深い土地である」との説に共感を覚えずにいられない。糠の伝承は『播磨国風土記』にもう一カ所、この「糠岡」は賀毛郡楢原里いまは加西市網引町と小野市西脇町の境にある標高150メートルの糠塚山が比定地だといわれている。むかし大汝命が稲を下鴨村に舂(つ)かせになったとき糠が散ってこの岡に飛び散った。それで糠岡と名付けた、とある。加古川史学会の岡田功さんは、独立した美しい形をした山はかって「神まつり」が行われていたという伝説があり、古くは聖なる山ではなかったか、なかでも群集墳の一つ「糠塚古墳」14基が確認されている。天日鉾命の軍兵八千人が闘ったから八千種と名が付いたというその戦いは、石の剣にとって代わって鉄製の戦闘器使用が勝敗を分けたのではなかろうか、飯盛山の西麓にある鍛冶屋という集落の存在は、あまりにもドラマチックで多駝里へ熱い視線をそそがずにはおられない。   
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2007年02月02日

糠塚 ぬかつか 1

■姫路市船津町八幡■

溝口駅前太子畑踏み切り  中津橋右手に正八幡神社の森

 姫路発の播但線溝口駅を降りると北に「太子畑」踏切を東西にまたいで駅前通りが一本通じ、これがいわゆる目抜き通りなのだろうか。そこで下り列車を見送り東へ向かう。
 昨夜来の雨で増水した市川の瀬音は高いが、澄んだ流れの「中津橋」東詰めがかつての姫路市との境界だったが、現在は姫路市北端の町として同じ行政区内である。
『播磨国風土記』神崎郡の条の語りは、市川両岸一帯に色濃く拡散して古代につながる生命が育まれ輝いているようだ。条の一つの伝承地「粳岡」は明治初期の字限図に「上糠塚」「下糠塚」と記され、姫路市の最北端沖積平野の広がる船津町八幡地区にあって、1988年に縄文土器出土の報告があった福崎町南田原長目遺跡は北西に400メートルという至近距離にある。長目遺跡から望む糠岡の景観は鬱蒼とした竹林に沿った環濠の名残をとどめ、騒々しい世間にじっと耐えつついまだいにしえの姿を失っていない。
 またの名を城牟礼山ともいう糠塚の比高は約3、5メートル、山というよりは丘むしろ塚というべき姿が似つかわしいようだ、この小丘が伊和大神と天日鉾が戦ったとき、伊和大神の軍が稲を舂いて出た糠が丘のように積もり、それを墓と言い別名を城牟礼山ともいったというのである。
 牟礼の意味について『地名の語源』の中で鏡味氏は「朝鮮語MURO MORIの山などから九州に多い山名で集落名ともなる、牟礼の字のほかに群、六連、無礼などの表記が見られ『日本書紀』で朝鮮の山をムレと呼ぶ」と、述べているのでやはり牟礼は山と認識するのが良いらしい。それとも新羅国の王子と伝えられる天日鉾命ひきいる集団の地だったのか、はたまた神の籠もる「杜」を指すのだろうか。
 それにしても朝鮮の山名をムレと呼ぶならば、牟礼山は「山々」と重なる語となり、これは山への強い思い入れとこだわりがあったからに違いないだろう。

 
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2006年12月14日

甲山 こうやま

■姫路市飾磨区妻鹿■

市川に山影を写す甲山  城跡の碑

 山陽電鉄妻鹿駅を降りて市川の土手を北へ向かうと、川面に点々と真綿が浮いているように見えたのは白い鳥の群れで、渡り鳥がやって来るこの季節ここはバードウオッチングの名所となって大いに賑わう。
 右手に標高九十八メートルの甲山が県道妻鹿・花田線に西麓を削られながらも凛とした姿で眼前に迫ってきた。それもそのはず『太平記』に名前を記された妻鹿孫三郎長宗が鎌倉時代に山城を築いていたといい、のちに天正のころ黒田如水こと孝高が父職隆と居城したと伝えられる。勇猛果敢に戦った武士達にちなんだ功山(こうやま)との記述もあり、功の字を(いさおし)と読んで「いさおし山」と記載する書物もあるようだ。また播磨国国分寺へ近距離のためか国府山(こうやま)などの読みも加わり、かつてのつわものどもの夢の栄華を偲ばせる多様な山名の読み替えが多いのがこの山の特徴でもあろうか。しかし武功の話題に事欠かない山にもかかわらず、甲山を「かぶと山」と呼ばない訳はあくまでも「こう」にこだわる理由があるに違いない。日本地名研究所所長の谷川健一さんは「こう」という地名の意味について「コフは鳥の鳴き声を表しているもので、コフと鳴く白い鳥は時期が来ると岸辺にやって来て、近くの森で雛を育て、やがて春が来ると北へと飛び帰って行く」と述べ、白い鳥の鳴き声が地名の起こりとの考えを披露する。
 渡り鳥は飛び立つまでの日々おびただしい糞を、森はおろか近辺の田畑や水辺に落とし、田畑は養分を貯め込み春先に豊な収穫をもたらす、そんな自然の恵みのサイクルに早くから気がついた人たちは、愛らしい鳴き声の白い鳥を意識して待ち侘び、巣を架ける山をコフと鳴く鳥にちなんで甲山と名付けたのではなかろうか。
 山腹に古代の遺跡が確認されたという山際の清流がこれからも保たれるかぎり、白い鳥たちの飛来もつづくに違いない。
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