2007年06月21日

田家 たや

■姫路市亀山■

亀山御坊さん北通り.JPG  重厚な大門の金具.JPG


 山陽電鉄姫路駅から普通電車で二つ目の亀山駅に降り立つ。線路沿いに北へ向かうと、本徳寺の白い壁がやわらかい日射しに照り映えていた。
 白壁に並行する道は、そのむかし環濠の役目をになっていたのだろう。城郭の風格を備えた大門の飾り金具も重々しく、最近県指定重要有形文化財に指定された堅固な防御施設は、飾磨街道に面した亀山御坊の重要な立地を語りかけている。
 小字「田家」は250〜357番地にわたる広い区域を占め、野田川と船場川の中間にあって本徳寺を中心に、天正10年(1582)英賀から本徳寺に従って寺を移した浄福寺、元和5年(1619)浄源を開基とする勝久寺などの寺院が点在する。
田家の意味は二ツ。一ツはかつて地方村落の講の人たちが団体で参詣するときの詰所や宿舎などに当てられた寺内町特有の宿坊をさすという多屋説がある。いま一ツは、この地域一帯が国衙庄を賄う穀倉地帯の拠点だったと目されることから、すべての田地の管理を任された管理人をいう「田屋守り」説である。
 田屋守りは、この庄域に広大な土地を持つ大地主を指し、ここに住居を設けこれを田舎(たや)と言った。田舎の素直な解釈は田んぼの中に立つ家そのものを言う場合と、農政一般をつかさどる事務的な建物を指す場合の二通りがあるが、ここでは後者をとりあげてみよう。田屋守りは江戸時代の大庄屋にも勝る特権と地位が与えられていたといわれ、農民たちの暮らし全般の寄る辺となった田舎は「いなか」と誤読されないために田家、もしくは田屋などに書き換えられた例証は多い。
天正8年(1580)羽柴秀吉の英賀城攻めのあと、ここ亀山に英賀御堂を移設した意図は、もろもろの条件もさることながら、すでに農政全般を取り扱い農民の心を掌握していた「田屋守り」地名とも考えられるが、福井県吉崎御坊を取り巻く「多屋」の存在を軽視することは、亀山御坊を無視することにつながりかねない。
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2007年04月12日

梅ケ坪 うめがつぼ

■姫路市野里■

梅ケ枝町バス停  山王宮の鳥居扁額

 姫路駅発の神姫バスで梅ケ枝町の停留所で下車、一と筋東の山王宮に詣でる。鳥居前の道は野里商店街へ通じ、往時の賑わいの趣きを残している。
 梅ケ枝町は野里村にあった小字「梅が坪」から起こった町名で、広峰山の山ふところから流れ出た水が幾筋もの帯状に分かれる分岐点に位置する。この地は、全国に分布する梅の付く地名と同様に「埋め」が元の字であろうか。谷間あるいは川淵の淀んだ場所がやがて埋めてられ、田畑へと転換される過程を現す地名と考えられる。明治初期の字限図を見ると梅が坪の位置は野里村の北端にあって、東の字大日河原と横一列に並び、梅が坪の西は現在の砥堀・本町線をまたいで伊伝居に接し、むかしの二股川の支流に沿っていたことが分かる。湿地の中を網の目のように延びる川に自然堤防ができると、川底の窪みには常に水が澱み、舟が舫(もや)える江が成立していたのではないか、人や物資が流入する船着場は邪悪なものが入りこむとの観念をいだく人たちによって、庚申信仰に起源をもつ山王宮が勧請されたのだろう。河川の流路がやや安定したころ、江は埋め立てられ大正元年町名を変更する時に梅の字を残し、江には枝を用い梅ケ枝町としたのは「埋ケ江」を意識したものかも知れない。
全国に多く分布する梅地名は、梅の植生から名付けられた地名は少なく、そのほとんどが「埋め」に語源を求めることができる。一例をあげると繁華街大阪の梅田は「もと梅田宗庵という人の所有地で、田畑池沼を埋め立てたので、埋め田の名が起こり、さらに梅田となった」と『大阪の町名』は記し、その範囲はJR大阪駅構内で占められ、「この地古くは墓地で大阪七墓の一つであった」と付け加えている。
姫路市内では梅垣内 梅ケ谷 梅原 梅田それに夢前川の中州に埋田と、その状況を伝える字もあり、14カ所いずれも田畑や谷が埋め立てられた土地の歴史を語る地名で残っている。
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2007年04月01日

丁田 ちょうだ

■姫路市町坪■

ほたるばし  川沿いの床浦明神

 東に水(み)尾(お)川をひかえ、西の苫編山の麓を流れる大井川と二つの河川に恵まれた「町の坪」周辺は、かつては市内屈指の穀倉地帯の一つであったが、開発のうねりは一つまた一つと良田を消していった。
町坪には水尾川流域沿いのほたる橋から北に北丁田、橋から南へ丁田、その南に中丁田と三つの丁田地名が南北に連なって残り、これらの丁田地名が「町坪」という町名へと発展したことを示唆しているのだろう。
町坪という地名について『姫路市町名字考』は「この地方に条里制を引いてからこれを珍しく思い一町の一坪を町の坪といったのが村名になった」と記載、加茂明神に一町の坪を寄進したとの説には信じられないと否定的である。だとすれば、上流から押し流された土砂がこの付近に堆積してやがて土地が高くなると、なにがしかの耕作が可能となり人は水を求めて川岸に住まいを移すようになる。やがて彼らは早い時期に河川の守り神床浦明神を祀り、条里制度にそって一町の区画の開拓を成し遂げたのであろう。まずは中央に位置する丁田が良田に生まれ変わると、同じ川北沿いに少しずつ開拓の手が加えられ、丁田の北にあるので北丁田とよばれた。ついで最も南の下流に位置する中丁田が完成したのではないだろうか。氾濫原野が徐々に湿田へと移行する過程が目の前に展開する興味あふれる地名である。なお町坪周辺では飾磨郡条里地割の残存が認められるという確かな報告も聞かれる。     
 ずっとのちの天正8(1580)年、英賀城が豊臣秀吉に攻め滅ぼされると、英賀城主三木氏の幕下であった町之坪構居の主(あるじ)、町之坪弾四郎主(もん)水(ど)佐(すけ)も討ち死に構は破却された。町之坪を名乗る弾四郎主水佐はおそらく町坪生え抜きの武将の可能性が高く、もしかすると主水佐の役職名を名乗る弾四郎は、英賀城の掘割につながる清冽な水尾川の取水権を一手に司り、英賀城の籠城を支えた重い任務をになう同志だったと考えられる。
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2007年01月25日

郷の木 ごうのき

■姫路市飾磨区英賀■

英賀保小学校  清水公園南から 


 JR山陽本線の英賀保駅から、すうーっと放射状に延びる直線道に新しい朝日が射し込み、時代を経て積み重ねられたこの土地の史跡のひだを浮かび上がらせる。
 夢前川の下流近く左岸にある英賀地区は『播磨国風土記』に伊和大神の子、阿賀比古神・阿賀比売神がおられたので、神の御名をそのまま英賀の里と名乗ったと記し、夫婦神を祀る英賀神社は地域を開拓した産土神として敬われる古い由緒をもつ。
 ふる里をこよなく愛した郷土史家西木馨さん(故人)は、ふる里の変貌ぶりに心を痛めながらも、著書『ふるさと英賀の地名について』の中で小字「郷ノ木」の該当地を春日町1丁目、清水町1丁目・2丁目・3丁目に分割されたと書き残しているので、在りし日の西木さんを偲びつつ清水町界隈を訪れてみた。
 郷ノ木の位置は英賀保小学校あたりをふくみ、北東へ向かう一帯が推測地になろうか。旧の地番147〜173番地を取り巻く区画に、いく筋もの水路が認められ、これが清水町の名の起こりとなり、英賀平野の農耕の開始を示唆する原地点と考えられなくもない。
 郷ノ木の語源は「牛王木」にもとめられ、牛王の木がつづまって郷ノ木となったようだ。牛王であれば一時期日本全国で信奉者の支持を得た牛頭天王信仰の糸筋へとつながり、姫路市の広峯神社もしくは書写山へと糸筋がたぐれる。『日本歴史地名総覧』によれば「牛王とは寺社が発行する厄除けと祈願の護符『牛王宝印』のこと。神社の五穀豊穣を願う祈念祭やオコナイで授けられた牛王木は、豊作と虫除けを祈って田の水口や苗代にさす」との説明である。広峯神社では現在も4月のお田植え神事の日に多くの参詣者が山上に集うのは、日本の心を再確認するためなのかも知れない。
 清冽な湧水が田を潤し満たす季節、水口や苗代に広峯神社や書写山祈祷の牛王宝印のお札を小枝にくくりつけ、ひたすら秋の豊な稔りを願った古くて素朴な信仰地名である。
     


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2006年10月28日

佃 つくだ

■姫路市南条■

佃町近くの運河の流れ  運河沿いのウオーキングコース


 姫路市庁舎の東方を南流する三左門堀は、枝垂れかかる柳が水面に陰を映す運河公園に生まれ変わり、朝夕のウオーキングを楽しむ人の姿がそこかしこを闊歩する。
 城下から南の飾万津まで、時の城主池田輝政三左衛門公が掘削したことにより、三左衛門堀とも、外堀であることから外堀川とも呼ばれるこの川西に位置する佃町は、もと南条村の上佃・中佃・下佃という田圃に付けられた小字地名であったが、いま佃町とよばれる。
掘割に近いこのあたり一帯の、豊沢・北条・庄田・それに南条が合併して国衙村を名乗ったのは、明治22年から45年の間のことでこれは四村ともに、もと国衙荘に属していたからだといわれている。
佃の語源を調べてみると「作り田」が変化して佃になったとの説が有望視され、佃の字も作田、突田、築田が当てられているのをみると、突き固めた田、または低地に土を盛り築きあげた田、それに先の作り田など、河川沿いの湿地を新開した田作りの労苦が偲ばれる当て字が多い。
地名の起こりはおよそ中世まで遡りうる古い歴史をもつ地名らしく、荘園や公営田そのほか国衙領などの領主の直営田で、耕作者に種籾・農具・食料などを支給して耕作をさせた土地が作り田で、作り田の(り)が脱けて佃となった。この作り田は収穫のすべてが田の所有者の物となり、耕作者にとって不利な仕組みであったらしい。このため室町時代以降この労働徴発制度はまもなくくずれていった。
市内のつくだ地名は、勝原区下太田廃寺跡付近の小字「ツクワ」が、佃の転訛したものではないかと考えている。
魚や貝を醤油で煮詰めた佃煮(つくだに)は、天正年間家康が現在の大阪市西淀川区佃の漁民33人を江戸の佃島に招き、漁業権を与えて以来の佃煮発案であり浪速の佃村が原点である。                                       
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2006年09月19日

間ノ原 まのはら

■姫路市白国■

白国神社  神姫ケアーセンターから東を望む


 白国口バス停留所で下車した足で、弁天池土手下のなだらかな坂を北へ向かう。この坂は白国神社への近道にあたり、南の眺望が開けると城が望める。
 白国神社の由緒は、白国氏三代目の妻高富姫がお産で苦しんだ時、神の加護により阿良都命を安産したので、安産と育児の宮として知られ、弁天池も姫神を祀る。
 以前『ふるさと白国』の編集者の一人、故西納貞雄さんに「間の原」の場所について尋ねたところ「ああそれは望城荘の辺りです。703番地の田んぼには二塚と呼ばれる址があります」と教えられた。2年程前ケアーセンターに転換された望城荘から東の蔵谷川まで、横に細長く横たわるそのころの間の原は、広野の面影を色濃く残していたと記憶する。
 「間(ま)」という地名について、柳田國男は「間(あい)の田という字(あざ)も単に里と里との境の意味でなく、饗庭(あえば)の田ではあるまいか」という。間は、あいとも読むことから相や会・合・愛の字に転換され地名が混乱するもとになるが、ここ白国の歴史的背景を考えると、もしかすると「間の原」の読みもアイの原の可能性が高まる。アイの原とはすなわち「饗の原」で、そこは神を招きもてなす清浄な空閑地が広がり、神に精一杯のご馳走をして願い事を聞いてもらう聖地であった。すると先に教えられた二塚址は、祭祀が行われた饗庭の中心的存在で、そこに招かれ願い事を託された神は白国神社の吾田津姫神がふさわしい。                
 姫路の由来は風土記に、難破した船の荷物が付近の山々に流れ着き、蚕子(ひめこ)が流れ着いた山を日女道丘と名付けた。それにもかかわらず市内に養蚕伝承はどこにも見出だせない。そんな中で「白国神社の雨乞い祭りに媛子(ひめこ)踊りが伝わっていた」との記事が『兵庫県神社史』に載る。間の原の南の字を桑の木、近接する伊伝居に桑原神社、西中島と保城に桑原、これら一連の桑地名は、蚕の餌となる桑を栽培していた地名に違いない。
ふりかえって見ると白国神社の姫神は安産祈祷の神との説明である。安産の産は養蚕の蚕(さん)とは見ようによっては無関係ではなかろう。蚕子をもたらした人々、それは白国地名の起こりとなった新羅(しらぎの)訓(くに)の人ではなかったのだろうか。
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2006年08月28日

仕出掛 しでかけ

■姫路市砥堀■

巨岩の境内小玉神社 名勝そうめん瀧

 ゆるやかに東にせりだした霊峰広峯山の麓の村砥堀は、かつて播磨の国一円から修行を目指す信心深い集団で大いに賑わった。
 足元を固め装束に身を包んだ彼らは、この谷筋に挑むたびごとにその壮大な山懐の深さを体感しつつ霊場を目指し、ほどよい場所にシデの祠を設け、やがてそこを仕出掛と呼ぶようになった。
 難読地名の一つである仕出掛の意味は、神事のお祓いに使用される幣帛(へいはく)・紙(し)垂(で)のことで、この紙垂を掛け置いた社祠がすなわちシデカケ神社と呼ばれたようだ。榊の枝、注連縄などに垂れ下げる紙垂は、字のごとく紙が垂れた状態を示しているが、古代には木綿(ゆふ)と読む木綿や麻であったらしい。『播磨鑑』に「水上にたれか御祓(みそぎ)をしかま川、海に出たる麻の木綿(ゆう)垂(し)で」がある。この木綿(ゆふ)は楮の皮を細かく裂いて糸状になったものが垂れさがったもので、奈良県吉野では四手掛や幣掛などの当て字で神社名となっている。ちなみに麻で作られたものは白和(にぎ)幣(て)と言い、楮(こうぞ)で作ったものは青和幣と区別されたようだ。のちに白くて柔らかい木から繊維を取って作られたこともあって奈良県には椣(しで)原(はら)地名がみえる。
 大正七年発行『牛頭天王』広峯忠胤著に、広峯神社の末社の一つ熊野神社は菊理姫命・速玉男命・事解男命・瀬織津姫命の四神を祀り、四手掛神社合祀と載る。明治時代の神社合祀令は広峯信仰を支えた山岳宗教者たちに深い影響を与えたことは察するに余りある。四手掛の社が山上に統合されてもその過去の繁栄をひそかに伝えるために、仕出掛と字を変え存続を図ったのではないだろうか。「四手掛 瀬織津姫 二本松にあり、北国参詣の人四手に掛け奉る」が『播磨鑑』に再び載るが、二本松はもと山中にあって遠目にもそれと分かる目印ともなった旧称地名である。
 人の利用はおろかけもの道さえ途絶え、ただ潅木だけが枝をからませ登山を拒絶するように、森はシンと静まり返り人の気配はまったく無い。

 
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2006年08月18日

飾万 しかまん

■姫路市北平野■

中学校と自衛隊のハザマの飾万旧地 弁天池


 広峯山西麓のゆるやかな裾野に広がる北平野は、山の落ち水が町域を縦横に潤おし、整備された水路に、風土記の「枚野里」の潤沢な土地柄が今も活き継がれているようだ。
 和銅6年(713)記述の『播磨国風土記』は、飾磨郡の起こりについて大三間津日子命(孝昭天皇475年)が屋形を造っておられたとき、大きな鹿が鳴いたので「牡鹿鳴くかも」といわれたので、と動物の鹿に語源を寄せる。古い時代の鹿はたびたびいのししと混用され、鹿と猪との分別は決めがたく、日本中に生息が認められる「鹿が鳴く」に解釈の糸口があるのだろうか。飾万について『姫路市町名字考』の著者、橋本政次さんは、「その広さは南北の長さ218メートル、東西の幅は南で73メートル、北で110メートルの区域であった」と貴重な記録を残し、つづいて「これこそ上古の飾磨の遺称であろうと」述べている。
 静かな田園地帯に異変が起こったのは明治29年5月のこと、まだ飾磨郡平野村と呼ばれていた村の中の耕地が、騎兵連隊、輜重兵連隊、野砲兵連隊の敷地に予定された。このとき「お国の為」にといち早く村民から土地献納の出願が陸軍省へ差し出され、まもなく「願意奇特の義につき許可する」との回答が出て、水上村および城北村所在の該当地所は陸軍用地へと転換された。ちなみに飾万旧地は自衛隊敷地と広嶺中学校にまたがる区域にあった。
 複数の地名研究者の説によると「鹿」の由来は州処の転訛であるという。州処といえば海辺を想定しがちだが、山を下る谷間の走り水は末端で洲を生み出し、やがて州処となる。そこは山野に生息する生き物たちの格好の水のみ場となることは言うまでもない。
水辺にすっくと立ち高らかに鳴く牡鹿に託された姿は、まさしく大三間津日子命の姿ではなかったのだろうか。
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2006年08月08日

蛤山 はまぐりやま

■姫路市西今宿■

高岳神社銘板 蛤山ご神体の岩石

 今宿の南を東西に通じる国道2号線の北に、つかず離れずの距離を保つ旧山陽道は、江戸時代参勤交代の大名たちが往来した道で西国街道とも呼ばれた。
 道の傍らの電柱脇の石碑に「式内高岳神社」とあるのは、この細い道をたどると高岳神社の参道前へ到達する道標となっているのだろう。ちなみに神社にかぎり岳の文字を使用する慣わしである。
標高125,5メートルの蛤山に鎮座する高岳神社は、高さ10メートルにもおよぶ山頂の大岩がご神体で、蛤の化石が随所に見られるとの噂が蛤山の名の起こりであるらしい。『播磨鑑』の蛤山の項に「安室郷、今岩井手舟山ト云う」つづいて「高岳山ト云う」と記し、三種の山名を載せ、また「白黒の蛤石岩の中に水たまり有、是を取りし者は富貴になる由、井ノ上村の貧女ひろいし事有」と、ウツツ物語・アダ物語の説を紹介している。
 地名に付きものの伝説には、必ず隠れた事実があるという教えに従い、地学研究者、西影裕一さんの『姫路市の自然 地学案内及び自然災害』を紐解いてみた。関係する全文を紹介すると、「神社裏にのっぺりとした岩石が出ていますが、これは球顆流紋岩です。水色の蛋白石(オパール)が薄く付いています。球顆とは球状の岩石で、ちょうど白い卵のように見えます。さらに北に行くと、住宅からの道と合流しますが、ここには流紋岩が出ています。場所によっては球顆がはいっており、球顆を割ると中に蛋白石またはメノウが入っています。」だとすれば蛤の化石に見えたのは実のところ、なんとあの高貴な宝石オパールやメノウで、それを拾った井ノ上村の貧しい女が豊な暮らしをすることが出来たという訳である。
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2006年06月13日

はねぎ

■姫路市豊沢町■

改築前のはねぎ橋   新装なったはねぎ橋 

 外堀川に架かる「はねぎ橋」周辺は、南駅前町と町名が変更したがもとは豊沢町の一部であった。
 JR本線に並行する山陽新幹線の高架に阻まれ、南北の交通が遮断されるためか、人通りも車の往来も意外と少ない。でも本線の高架化が進めばやがてこの辺りも一変するのだろうか。はねぎ橋は昭和三十七年三月竣工のお世辞にも立派とは言えない橋だが風情のあるひと昔前を思い起こさせる橋である。
 平仮名や変体仮名で書かれている「はねぎ」の元の字は、跳木・刎木・羽根木などと書かれ「はねつるべ」を支える柱をはねぎと言った。柱の上に横木を渡してその一端に石の重りを吊るし、片方につるべをつけて田圃へ水を流し入れる素朴な農業取水の方法は、土地の高低差が大きく関わっていたようで、柱が立てられる大切な場所ははねぎと呼ばれ、これが定着して地名となったのだろう。むかし芝原村の一部だった村に飾磨川の水を引き、三左衛門堀と称した。それでこの辺りの田は自然と高くなり、米作りに欠かせない灌漑用水に「はねつるべ」を用い、その効用は大きかったのだろう。この原始的な取水用法は中国から伝わったとされ、北九州では十三世紀にこれを利用している記録があるといい、広島県沼隈町では四、五年前まで使用が確認されていたが、今はどうなっているのだろうか。
昭和の中ごろまでほとんどの家庭の台所近くに設けられた井戸には、水を汲み上げるためのつるべがあって、そこは神聖な場所で四隅に清めの塩をつんで井戸涸れや穢れのないように井戸の神さんを祀ったものだ。これが簡便な水道の蛇口やポンプなどの技術の進歩によって、つるべを遠い過去のものにしてしまった。
 姫路市内の「はねぎ」地名はもう一か所、飾磨区今在家に残っている。



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2006年05月20日

因田 いんでん

■姫路市飾磨区阿成■

阿成グラウンド北東をのぞむ  早川神社

明治中期に作成された陸軍測量部の地図を眺めると、古い時代の市川下流域では流れも定まらなかったのだろう、上野田あたりで枝分かれした先に古阿成の表記がみえる。
その南部を東西に帯状に横たわる砂堆上に描かれた鳥居の印は早川神社であろうし、『飾磨郡誌』は、古阿成のほかに小字「鹿谷田」があったと記している。
鹿谷田であれば韓国南部の釜山を中心とする慶尚道一帯にあった古代加耶国とのつながりが想定できる。ましてや、ある研究者の「阿成」地名と金属精錬にまつわる解釈は、市川を足がかりにして揚陸した異国人たちがもたらした高い技術は、うねりのように内陸部へと浸透した背景を、早川神社の祭神である兵主神が語りかける。          
小字「因田」の場所は、早川神社の南西方向に新設された阿成グラウンドの東角をふくむ一体となろうか、現在の町名は渡場といい木造の錨鎖工場がノスタルジックをそそる町である。
因田の意味は隠田の変え字と考えても差し支えはなく、むかし隠し田ともよび「いんでん」はその音読みで「おんでん」とも読む場合がある。その解釈は字のごとく耕作した田畑を人知れず隠すもので、隠し畑もあったが、取立ての厳しかった年貢逃れの手段であったことは間違いない。江戸時代の農政書『地方凡例録』にも「隠田之事」の項目を設け「隠田と云うは検地の時に案内をなさず残し置き・・・地主より申し出のない田を隠し田と云い、重重(じゅうじゅう)不届きにて厳しく処罰する」と記される。如何せん国や領主に納めなければならない年貢の対象となる土地を隠すのであるから、いきおい人目につかない奥深い山の中の開拓地だとか、役人の踏み込みにくい谷あいなどの耕作地を切り拓き密かに隠すのである。このような庶民の知恵は奈良時代にすでに存在したようで、隠田を取り締まる法令があったと伝えられている。江戸時代になると検地のたびごとに取締りを強化するのだが、摘発は困難だったようである。
江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎の富嶽三十六景に描かれた「隠田の水車」は、むかし隠田村を名乗り鎮守は今も隠田神社といっている。隠し田がおおやけに日の目を見たとき、村名に採りあげて神格化する、農民の智恵とパワーにあくなき底力が見えてくる。
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2006年04月16日

三和 みわ

■姫路市手柄■

行矢橋の先が三和社 船場川鯉の釜あたり 

 風土記に記された「手苅丘」地名の起こりとなった三和山の東麓を、弧を描きつつ川が流れる。雨で増えた水嵩は勢いを増し枯れ枝を集め落ち葉をからませながら川幅を広げる。
 古くは三和川と呼ばれた流れは今船場川を名乗り、中流の清冽な湧き水は「こいの釜」の名で親しまれ、水辺にことよせて同音の「鯉の釜」の当て字が使われているが、鯉の元の字は神霊の依りくる「御井(ごい)」が正しいのではなかろうか。
 古代地名であると言う「ミワ」地名の由来を探るとき、奈良県桜井市の三輪社の存在を無視することはできないだろう。大和の一宮であって『日本書記』に大神(おおみわ)神社と見え、その御神体は三諸山そのもので三諸は御森(みもり)、すなわち神の籠もる山との解釈が定説となっている。
 ミワについて『神道大辞典』は「いにしえ酒を呼ぶ名であった、この社に掌酒(さかびと)を置かれてその美酒を管理させた、大物主神のつくり給う御酒であるから神名とし、のちに地名となった」と記し、『伝承文化論攷・池田源太著』は「自然に醸される酒に霊力を感じる古い信仰を表す地名」であると説いている。また奈良県に本拠を構える日本地名学研究所の池田末則さんは「ミワは水曲から起こったもので、ミワのミは水、ワは輪・垣・籬(ひもろぎ)という意味であり大神神社あたりに水垣(瑞籬・みずがき)の呼称がある」との考察は、いずれも清澄な川の流れが起こりであるとの考えに基づいているようだ。瑞籬であれば時代不明としながらも播磨歌垣に「三和やまの、しるしは杉にあらねども、行くやふりぬる神のみづがき」五代重頼の歌がある。
 多くの縄文・弥生遺跡が埋没する手柄山一帯は、三和山を中枢とした古代集落の神祭りや邪気払いに美酒が醸され、その御神水の汲み場が「御井の釜」だったのだろう。
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2006年04月05日

風敬 ふけ

■姫路市保城■

心なごむ空閑地 早乙女の花笠

城見台橋から北方の市川右岸堰堤に立つ石碑は、大樋とよばれる飾磨井堰の樋門の改修の碑で、樋門の補修が幾度となく行われてきたことを伝えている。
元和3年(1617)本多美濃守が普請したと伝えられる井堰は、保城、西中島、野里その他の右岸地区への灌漑用水の取水堰で、西への流れはいま船場川を名乗る。
「風敬」とよばれる場所は、取水堰が設けられている東垣内にほど近く、堰をくぐり抜けた流れが枝分かれしてさらに分流を繰り返し、扇のようにすそを広げた村の中心にあって、むかしから低い土地柄であったらしい。
ここで生まれ育ったという男性は、現在のように人家で埋め尽くされる以前の様子を「底土に機械をいれると河原の砂利のような小石が多くまじる土地であった」と、また「水気の多いジクジクの土地で、宅地造成に多くの盛土が必要であった」と語った。
「ふけ」という地名は、全国どこの村にもみられるごく普通の地名で、日本を代表する湿地地名の一つである。柳田國男はフケについて「水づいた低地をフケといい、深泥(みどろ)の田をフケ田というのもウキ田の転であろう」と述べている。わが国の稲作農業をささえてきた湿地地名は、先人たちの細やかな観察眼から地区それぞれの土壌や伏流水などに左右された多種多様な湿地地名が生まれた。それにつれて当て字も多く、たとえばフケであれば不毛 富家 福家 更ケ 深、それに滋賀県浮気町などの危なっかしい当て字もあるが、いずれも農耕に関わりのある湿田であることは間違いない。
風を敬うと書いてフケと読ます。そのいわれは、4月3日近くの広峯神社で行われる「御田植祭」神事に用いられるカサバコの飾り花と、早乙女がかぶる桃の花笠にヒントがあると推察できる。末社の風宮は風を司る級長津彦神と級長津媛神を祀り、稲穂の花が出揃う季節「風よ吹くな」の思いを託した人々が、ひたすら神に祈った風敬地名なのだろう。
            「早乙女の撮影は三木敏明様」
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2005年12月22日

車崎 くるまざき

■姫路市今宿■

車崎橋.JPG 車崎橋より西国街道

  車崎を南北に蛇行する水(み)尾川(おがわ)は、これまでに数え切れぬほどの溢れ水による災害の歴史を繰り返してきた。近年になって河川大改修が行われ新しい車崎橋が架けられ、この西へ延々とつづく一筋の広幅の道は、むかしの西国街道である。
車崎の由来を『姫路市町名字考』に求めると、「寛和2年(986)花山法皇が書写山へ向かわれた時、車を進められたので「車先」といったが、のちに「車崎」と書くようになった」との伝説を採りあげている。これは二度にわたる花山法皇の書写山行幸の史実が地名に結びついたもので、世間によくある「貴人伝説」の類いにほかならない。
  車のつく地名は全国に多数の分布がみられ、その解釈は土地柄を反映して多岐にわたる。たとえば、河川に近い平野部であれば水車の稼動をあらわす地名となり、都周辺であれば古代の職業部の一つとされる車持部から、御所車の生産にちなむ地名説もある。また淡路の津名郡東浦町のクルマの語源は、平安初期の久留(くる)麻(ま)郷から呉羽(くれは)(織工)の変化説を採りあげるという、ふうである。
土地柄を優先して熟慮するならば、地域にもっとも則したものは水尾川の岸にしつらえられた水車説をとりあげたい。水車といっても大きさ・形・それに自然の流れの利用から人力での踏み車と種類は多様で、そのうえ用途も取水、排水それぞれの目的にあったものが使用されたに違いない。往来の絶え間ない街道で旅人の目印ともなって、一息つける水車場は、人びとの暮らしに密着したもので、それが地名として定着したと考えるのに無理はないだろう。
 水尾川はおろか市内の河川に、もうそれらの風景は一つとして残っていないが、「八代の宅田井は車溝のこと、字岸ノ上に御用水車があった}など、郷土史をひもとけば地域の景観が綴られていることが多く、市内にかなりの数の水車があったことに気づかされる車崎地名である。
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2005年10月30日

歌野 うたの

■姫路市飾磨区英賀■

歌野
歌野橋下流

 夢前川の河口近くから上流に向かって歩いてみた。まず南から250号線に架かる汐見橋、つぎが人と自転車しか通れないふれあい橋、つづいて山陽電鉄専用の軌道橋、そして歌野橋から広栄橋、京見橋とまだまだつづく。
むかしの川はたとえ小川といえど村と村との境界を示すものであり、ましてや播磨灘を目の前に控えたかつての英賀御堂に近い川岸では、砂浜と海とが一体となって溶け込む以外に何もない、という原始的な風景が眼前にひらけ、広漠な無常感のつのる場であったのだろう。「歌野」はまさにそういう場所に似つかわしい所であったと考えられる。
歌野という地名の起こりについて、日本地名研究所所長谷川健一さんは『日本の地名』の中で他所の例を引き、「この何も無い海辺の土地をわざと引き立てるように歌という華やかな地名を付けている。歌はもともとアイヌ語のオタ(砂浜)に由来する語であろう」と記している。オタがウタへと変化する、これがアイヌ語の砂浜を指す語であるとの説をそのまま当地へ当てはめれば、海浜が徐々に後退するとともに川の付け州が発達して広い砂浜のつづく海辺となり、人びとはここをオタと言いやがてウタ野と呼ぶようになったのだろう。
昭和13年(1938)日本製鉄が広畑地区に製鉄所を建設したとき、広栄橋から下流1650メートルを河口で東に500メートル移動させる夢前川の付け替え工事が始まり、歌野は都市計画道路に組み込まれ跡形も無く消え失せた。豊な伏流水に恵まれた播磨十水の一つ「歌野の清水」も埋没を余儀なくされたいま、湧水史跡の碑が英賀公民館の広場に移設されている。
昭和32年この辺りに橋が架けられることになり、もとの地名にちなみ「歌野橋」と命名され歌野は甦ったが、そのとき歌野の意味を知る人はすでにいなかった。
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2005年10月17日

縄手ノ下2 なわてのした

■姫路市西今宿■

西国街道の碑
西国街道の碑

 つい最近まで清冽な水が湧き出ていた大井川の源流も、付近にせまってきた住宅建築ラッシュに抗ずる手立てもなくどうやら流れを変えたのか、それとももっと深く潜ったのだろうか、溜まり水が淀んでいるようだ。
 この北を東西に延びるやや広めの道路がむかしの縄手道そのもので、そのよすがは道路わきの西国街道の石碑に偲ぶことができる。西へ足を向けると、昔のようにくっきりとした村境となる空閑地もなく、いつのまにやら下手野へさしかかる。
 夢前川の河川敷に「備前道河原」や「因幡道河原」それに「龍野道河原」などで残る小字地名は西国街道の渡河地点でおそらく縄手道の西の終点だったのだろう。
 江戸時代日本全国の地図を作成した伊能忠敬も文化六年(一八〇九)十一月十六日朝、姫路竪町を出発して福中町から内新町を経て米田町を西へ竜野町を過ぎて今宿へとさしかかり、西今宿から手野川(夢前川)に到着した様子が『測量日記・十四』に記されている。
 持ち運びが簡単でそのうえ日本全土で手に入れやすかった縄は、計測にうってつけの材料として古代から使用されていたらしく、太閤検地以降の田圃や畑の広さを測るための計量道具は、水縄という麻縄に漆を塗って水濡れに耐えるものに一間ごとに間札がつけられ使用されていたといわれる。
 忠敬は蝦夷地を測量したとき他の測量道具とともに長さ六十間の間縄を愛用したと伝えられているから、姫路近辺の測量にもきっとこれが用いられたに違いない。
 姫路市内で縄の付く地名は四郷町見野地区の「縄本」東山地区近辺から北へ向かって一直線に続く道は、御着を経て二号線を横切ると壇上山古墳の東手に到着する。二つ目は太市石倉の「縄添」で二十九号線(因幡道)に沿い「追分」でこのまま因幡に入るも良し、林田を通過して安志、山崎へも向かえるという主要街道筋に面している。
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2005年10月16日

縄手ノ下1 なわてのした

■姫路市西今宿■

縄手ノ下
縄手ノ下踏み切り

 騒々しい国道二号線が目と鼻の先にありながら「縄手ノ下」踏切り近くは静かな空気がただよっている。ときおり赤いツートンカラーの車体をゆさぶるように電車が通り抜け、昼過ぎであればたった一両だけというなんとも可愛い姫新線は、昭和五年九月姫路駅と余部駅区間に開通した。
 以前この辺りはジクジクとした沼地が広がっていたのだろう、この様子は東接する「川ノ上」だとか西の「池田」という地名、それに大井川の源流でもある豊な湧水地の存在からも推し量ることができる。
 人家も無く人通りも少なく、たまに山へ山菜採りや薪を取に行く人が通るぐらいの自然そのままのそんな場所に踏切が設けられ、目印になるような建造物も無いところから「縄手ノ下」と呼ばれていた小字地名がそのまま踏切名に用いられたに違いない。
 「縄」の付く地名は全国各地に分布が見られ、むかしの幹線道路沿いに付けられた特徴ある地名で、古くは条里制などに深く関わり、土地の基準線ともなる直線道を指しこれを「縄手」道といっていたようだ、直線道であれば現在二号線の北に並行するように甍のつづく西国街道と呼ばれる道が、いにしえの縄手道そのものであったのだろう。
ちなみに縄手道は低湿な土地に作られたようだが、低湿な土地ならばどこでも良いというわけではなく、湿潤な土地に盛り土をした人の労力の加わった計算された「作り道」だったから、いきおい人家の無い未開の所が選ばれたようだ。「縄手ノ下」はこの縄手道の下手にあたる位置から名が起こったと考えられる。
 なお縄手は畷とも書かれ四条畷の合戦の様子は『太平記』に記され、歴史の表舞台に登場する主要な街道筋であった証となる地名であろう。
 踏切の場所は西今宿の姫路市医師会館ビルの南付近にあるので、運がよければ可愛い電車と、むかし懐かしい小字地名に出会える。
posted by 早春 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月01日

十二所前町 じゅうにしょまえちょう

■姫路市十二所前町■


お菊神社
北門のお菊神社

日曜日、十二所前町界隈はいつもと違って静かな朝を迎える。南通りに面した食品・雑貨の卸売り市場の「忍町」や「久保町」が休業日なので、人もまばらで静かな気配がただよっている。十二所神社の前にあることから長い間十二所前と呼ばれていた町名を十二所前町と変更したのは昭和十年ごろだったといわれている。
 主要道姫路港線の大将軍橋北詰めの東下に、むかし「南畝の森」と呼ばれた十二所権現社の旧地が木立の間に見える。十二所神社でいただいた縁起書には「御祭神は少彦名大神で、御神紋はよもぎの葉、由緒は千余年前、付近に疫病が流行し、里人などはたいへん苦しんでいました。そのとき夜の内に十二本のよもぎが生え、少彦名大神が現れるとよもぎを煎じて飲めば直ると教えられ、そのとおりにすると病が癒えたので少彦名大神を祭神として十二所神社を創建しました。それで神紋はよもぎの葉です」とある。よもぎの葉は止血に最適で、その方法は葉をよくもんでその汁を傷口にぬると傷を癒し、若葉は食用にもなり葉の毛からもぐさを作るという種々の薬効があるといわれている。
 神社の境内には姫路城伝説の播州皿屋敷で有名となったお菊さんを祀るお菊神社がある。そういえばたしか「よもぎ」はきく科の植物だった。そんなことからお菊さんが祀られるようになったのかも知れない。
十二所神社への出入り口は市場に面した南に一つと、大きな石の鳥居が建つ東門、それにバス停のそばの北門と都合三カ所の出入り口がるので、エプロン姿の人やバス待ちの人も気さくに参詣することができるのがありがたい。


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2005年08月10日

宝来 ほうらい

■飾磨区中島■


宝来橋
宝来へ通じる橋

 市川右岸の中島浜手緑地を通過すると、滔(とう)々と流れ下った川はやがて海と混在して南岸の臨海工場敷地は浮島となり、島すべてが「宝来」という小字地名となる。
 江戸時代後期、播磨灘に面した沿岸の村々では、海浜を埋め立てて塩田や田畑を増やす新田作りが盛んに行われた。海中にお金を投げ捨てるかのように莫大な費用と労力を要した新田作りは、有力な豪農や富裕な商人などの財力に頼る「請け負い新田」が多く、『姫路城史』によると中島の沖合いに、文政八年(一八二五)阿成村の浜田庄助が六〇町歩の開発を起こし、これを庄助新田といい、ついで天保一〇年(一八三九)中島村の庄屋大森源三が開墾に着手、文久三年(一八六三)新田が竣工すると開発者の労をねぎらい大森新田と名付けられた。この大森新田の南地先の埋立地に人工島が出来て「宝来」と名付けられるのはずっと後のことで、中国の古い民間信仰の一つ神仙思想にみえる山名「蓬莱山」にあやかった地名と考えられる。
 中国の「史記」にも記される蓬莱山は、東方海上にあって不老不死の霊薬を持つ仙人が住むと信じられていた。長寿とお金持ちになるという人類最大の願いが叶うという憧れの山は、日本では造園の時に蓬莱山を築き、蓬莱池を設けるのがならわしであったらしい。秦の始皇帝の命を受けた徐福が日本に渡来したとの伝承は、東方海上に浮かぶ島国日本の豊な森が、蓬莱山と認識されたからに違いない。
 この地に徐福渡来の伝えが無いにも関わらず、島を廻る海辺を蓬莱池とみなし島を蓬莱山に見立てて、縁起の良い宝来の字に入れ替えた人びとの意図は、この土地の繁栄をひたすら願う心の現われと見て取れる。




posted by 早春 at 13:24| Comment(1) | TrackBack(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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