2009年07月19日

保喜ガ鼻  ほきがはな

■姫路市下手野■
対岸よりの保喜山遠景.左手前に青山八景の碑JPG  予防治山工事の立て札が見える保喜山斜面.JPG

 夢前橋の欄干を眩(まばゆ)く照らし国道二号線を西へ向かう車の列が夕陽を受けて茜色に染まる。この辺りから西の青山の峠付近へ沈む落陽の神々しさは例え用もなく明日も晴れ。
 『播磨国風土記』に品太天皇が、川で手を洗われたので手沼川と名付けられたという夢前川は『姫路市町名字考』に手野という村名はこの手沼川から起こったと記している。
 下手野の南端にある保喜ケ鼻という地名は、もともと夢前川下流域左岸に沿う山崖に付けられた地名であったが、山裾の湿地が徐々に田畑へと転換されると、明治以降この一帯を指す小字(こあざ)地名に採り上げられた。現在整備されて病院や工場用地となり、両岸の河川敷は東・西夢前台住宅地に変貌した。
 保喜ケ鼻地名の由来を探るにまず「ホキ」だが、全国に分布がみられる古い地名のようで、関東以北ではハケやハキの地名で現れ、そのほとんどが峡谷や川のそばの険しい山の急斜面の崩れやすい山腹に付けられているので、崩壊地名と見なされている。なおハケやホキは一連の同系統の語源を同じくするもので『地名用語語源辞典』は、もともと崖地の古称と記している。
 ホキに当てられる字は当地の保喜のほかに保木・法木・箒など、変わり種では赤穂市有年楢原に放亀の当て字もあって浦島伝説の世界へいざなって楽しませてくれる。またハケは波気・八景が当てられ、景色の秀麗さから○○八景もこの類にふくまれるものがある。
 つぎに鼻の解釈だが鼻は先端を表す端(はな)の当て字で、人の顔でも突き出た所を鼻というから言いえて妙と言うべきだろう。だが端も時には美しい花の字に置き換えられるのは奇岩秀峰の絶景が人の心をとらえ、それは美しい花の文字への発想転換へとつながったのかも知れない。
 山紫水明の渓谷の造形美を誇る観光のスポット四国の大歩危・小歩危峡は「歩くのも危ない」よ、との危険サインが込められたホキの当て字で痛快極まりない。


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2009年02月28日

小金田  こがねだ

■姫路市北条■

かつての小金田荘の姿.JPGc  大通りの左右が小金田の該当地.JPG


 三左衛門掘りの東を通る県道姫路停車場線(二一九号)とよばれる大通りは、市内でも屈指のオフィス街となり、日を追うごとにさまざまなビルが林立する繁華な町に変身を遂げている。
 『播磨国風土記』英保里の条に該当される北条の地味(ちみ)は中の上と記され、土地の善し悪しの評価が高いのは、市川の氾濫原野たる所以(ゆえん)なのであろうか。
 小金田といえば黄金田とも書く場合もあることから、黄金の稲穂が波打つ田圃を表す瑞祥地名かとの思いもするのだが、そうとばかりは言い切れず、日本人が昔から主要穀物とした五穀の内の金粒の粟、これしか収穫できない悪田を黄金田に見立てたものかは分かりかね、小金田の解釈は今のところ不明である。
 江戸期はずっと北条村を名乗り、のちに庄田・南条・北条が合併して国衙村となったものの城南村へと移行。度重なる行政の変革で貴重な古記録は亡失したらしい。そんなこともあって昭和十年発行の『地名宝典』をたよると、小金田と呼ばれた場所は地区内でもやや西よりに位置し、最近まで小字地名の場所をそれとなく示す「小金田荘」が建ち、唯一小字地名の在りかを留めていたが、それとていまは更地となり、現在の行政地名は北条一丁目という。
 北端の字(あざ)上芝原に「福島紡績株式会社」の表示、道を隔てた東の字(あざ)定旨(ちょうし)から神屋田を含む広範囲な場所に「片倉製糸会社」の文字、南は「○ト組製糸会社」と記載されて都合七箇所の小字(こあざ)地名が消去されている。ちなみに明治二九年四月に設立された播磨紡績は北条二一番地に本社工場を置いていたので、明治四五年福島紡績との買収交渉が成立するとその翌日から姫路支店として操業を始めた。片倉姫路製糸所は大正六年四月に創業、昭和一六年二月に閉鎖。○ト組姫路製糸所は大正六年三月の操業である。
 姫路市域内の「八大工場」とよばれたうちの、実に三社が北条村に設置されたには、広大な敷地の確保に加え良質の水の取水が得られたからに違いない。それを満たすに充分な地の利があったからこその賜物(たまもの)であろうか、今また国衙庄の片鱗と三大工場が競う華やかなりし時代を再現しつつある北条である。
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2009年02月03日

御薬園  ごやくえん

■姫路市仁豊野■

病院裏の市川河畔.JPG   病院横の難民キャンプ場跡で遊ぶ子ら.JPG


 奔放に流れる市川の中流域の両岸に、たっぷりと養分を含んだ付け州が生まれると鳥がさえずり、やがて実り豊な畑地へと変身を遂げる。 
 元禄時代、右岸に堤防が築かれて洪水の被害がやや減少の気配を見せはじめたころ起立したという河原近くに、通称「茶畑」と呼ばれる土地があり、この南には「桑畑」という土地もあったが、じつはこの桑畑と隣接する小字(こあざ)「肥後藪」跡にまたがり現在聖マリア病院が建っている。ちなみに肥後藪とは庇護藪の当て字で、洪水災害を未然に防ぐために藩主の庇護のもとに、竹など根のはびこりが早い植物が植えられた竹藪である。
 明治初期に茶畑の地を含む一帯が御薬園に組み入れられ、茶畑の名は消滅したが、もともと鎌倉時代に臨済宗の祖である栄西禅師が中国から持ち帰ったのが始まりとされる茶は、貴重品で薬として扱われ、御薬園で栽培される薬草の一つであった。広峯山の東麓にあたる仁豊野の西山裾にも古い茶畑があったとの伝承から、仁豊野の茶作りは意外と古い歴史を秘めているようだ。山上の広峯神社それに随願寺の日々の務めのなかで、お茶の需要は高く貴重であったはずである。発想を飛躍させれば寺社秘伝の薬草茶の栽培が行われていた茶畑だったかもしれない。
 御薬園の研究史によれば、江戸時代になって薬草に対する認識が深まり、幕府が設けた薬用植物園は「薬園」「御薬園」と呼ばれ、これらの御薬園でとりわけ力を入れて栽培されたものが朝鮮人参だったようである。八代将軍吉宗の政策による諸国産物の調査は各藩に薬園の設置をうながし、商人・本草学者などによる薬園の開設が進み、江戸後期にはほぼ日本全土に広がったとのことである。
 姫路藩でも江戸末期の万延元(一八六〇)年姫路藩士岡庭小兵衛が、船津町の西光寺野で朝鮮人参を栽培した実績もあるが、御薬園での朝鮮人参の試作情報がないのは、やはり土質が合わなかったからだとしか思えない。
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2009年01月23日

才  さい

■姫路市広畑区 才■

犬塚.JPG   修正会の供え餅.JPG

 夢前川の下流域右岸に位置する「才」という名のいわれは定かではなく『才村の歴史』によると元徳元(一三二九)年の資料を初見とするものの「この地の道端に往古道祖神が祭られていたので才の名が出来た」との『姫路市町名字考』を頼る。
 しかし播磨国細見図寛延二(一七四九)年に対岸の山崎から川を越えて才を通る室津道が記され、天保二(一八三一)年渡し場近くに地蔵尊が祀られたが、この地蔵尊じつは仏道に因む賽の河原の地蔵であって道祖神ではなかった。そこでひょっとすると才のはじまりは古代の韓国語で硬い金属を表す語、サヒではなかろうかと疑問がもたげた。技術や文化の促進力となったサヒ(鉄)はサビ・サム・ソホ・ソブと変化して地名に多々定着する。
 南山麓を西へ向かうと間もなく沿道の則(のり)直(なお)に差し掛かる『飾磨郡誌』に才の枝村と記された則直は大山咋命を祀り、両村ともに書写山との深い縁故関係が往来際の「犬塚」の説明板に記される。「書写山円教寺の別院として慶雲山満乗寺(まんじょうじ)に飼われていた賢い犬は、人の言葉をよく聞き分け手紙を首に掛け書写山との間を往復していたが、この犬が病死したので村人たちが丁重に葬り塚を作り弔(とむら)った」と。
 嗅覚がすぐれた犬は産鉄一族が頼りにする山師を指し、鉱脈を求めて書写山中を則直山中を回遊して朗報を伝達した犬と呼ばれた山師の存在は貴重だった。書写山との深い縁(えにし)はこれだけではない、才村明細帳に「書写山鬼会に鏡餅供え申し候、毎年大般若経転読致され候に付き布施米も指上げ。」毎年一月十八日の書写山修正会の鏡餅は才村が奉納するしきたりで、三個の供え餅は「直径一メートル厚さ十センチ、書写講十三人の者が昔は車力で運び当日は昼飯をいただく、布施米の田は天満宮の下の公民館が跡地で犬の名はクロといいます」先の自治会長黒岩勤氏の談話である。        
 白くて大きい鏡餅は白鳥飛来を豊穣と結びつけた「餅的(もちまと)伝説」に起因するものだろう。時は流れ移ろうとも連綿と続く修正会の日、才村からの鏡餅供進は続けられるに違いない。
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2009年01月05日

町裏 まちうら

■姫路市八代■

噴水のある庭園.JPG  西の建屋南から.JPG


 国宝姫路城の中堀を越え、坊主町に接した北の路地奥の浄水場はまるっきり別空間の佇まいで、木々の葉擦れの合間に届くかそけき水音はどうやら小さな噴水らしい。
 この町裏のほとんどを占める浄水場の正式名称は「姫路市水道局町裏浄水場」、レトロな建屋に人工池、それに桜の木まであり敷地は二万平方メートルもあるので、小鳥ならずとも訪れたくなる。しかし緑陰広がる庭園の中に緊張感がただようのは,市民の水がめの重責を担うからなのだろう。
 船場川の東にあって東南隅の「町裏」という小字地名は、坊主町だとか河間町それに元禄時代の町名を受け継ぐ鍛冶町など、これら城下町の裏手にあたることから町裏と呼ばれた。町裏をふくむ八代の地下の様子を『ふるさと八代・上巻』は、「大昔は市川が八代を流れていたと想像でき、地下は砂礫層でもと河原であったことを示している。上水道の町裏水源地は地下水を汲みあげているが、水が豊富なのはこのことを裏付けている」と、また「湧水量の多さが確認されて大正一五(一九二六)年地下水の揚水試験が行われると、昭和二年三月町裏水源地の着工が始まり、七月には起工式が行われて翌三年一二月には早くも通水を開始、同四(一九三五)年四月完成した。当時の市域のほぼ中央にある町裏水源地は、汲みあげてきれいになった水を高さ五二メートルの男山に押し上げ、市内に配水するため送水管を昭和三年に敷設」したと記録「町裏ゆは、姫路工業高校の東の伊伝居字(あざ)馬場崎に町裏井堰があり、水は町裏水源地の付近へと流れていたが、船場川の改修工事で失われた。ゆとは水田に入れて稲を育てる用水のことを指し、野里、町裏、宅田、早森と呼ばれる四箇所の「ゆ」があったとも記す。
 あまり気に留めるほどのないありふれた地名「町裏」なのに、市民の命の水を託す上水道の歴史が秘められていた「町裏」。地名って本当に大事なことに気付いた。
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2008年12月01日

白幣山  はくへいざん

■姫路市広峰■

参道十八丁の碑.JPG  本殿裏から望める白幣山.JPG


 バスの終点駅広峰で降りると、「従(これ)是(より)廣嶺山十八丁」と記された石碑が3本出迎える。石碑は嘉永7(1854)年のものが古くて大きく「嶺」の字が見え、大正14年、昭和25年と並ぶ。
 大正7年刊行の『牛頭天王』は「廣峯山の文字、往古は廣峯山とこの峯を書きしが、後土御門天皇の明應6(1497)年度に勅宣あり、廣嶺山と嶺の字に改められる」と記し、素盞鳴尊を主神に仰ぐ社(やしろ)の名は峯の字を使い廣峯神社(牛頭天王)で、山名には五百年余りの歴史をふまえ廣嶺山の表記である。
 本殿の裏手に望める白幣山の標高は約 260メートル、中腹にあったという吉備社、荒神社は現在山頂に遷され、この白幣山には別名も多く「幣(みてくら)岳(だけ)・白(しろ)幣(にぎて)峯(みね)・伊多て(いだて)神山(かみやま)・西ノ峯と呼び、白幣峯について素盞鳴(すさのおの)尊(みこと)の御威徳により霊気立ち昇り、あたかも白(しろ)幣(にぎて)の閃(ひらめ)くがごとくこれが山名の起こりになった。西ノ峯と呼ばれる訳は廣嶺山には三峯あり、神殿はその中央の嶺に建ち、その東の峯には当社の摂社天(あま)祖父(さい)神社あり」と『牛頭天王』。天祖父神社への道筋に繁栄時の社家屋敷の崩れかかった土塀がなぜか侘しい。
 話をもどそう、神社への山項までの距離を示し路傍に立つ丁石の一丁は約109メートル、すると18丁は1962メートル。色づいた雑木の合間に見える山陽自動車道が今の高さを示し、青い海の彼方の島がかすみ眼下は絶景だ。大鳥居脇の十六丁石を過ぎ本殿にさしかかると、石段脇に当国加東郡市場村近藤文蔵再建(慶応2年)の常夜燈が目につく。
 近藤文蔵は海運業を営み姫路近辺の南部海岸の干拓を自力で手がけた人で、たつの市御津町成山新田の前身は近藤新田であった。疫神や農耕神として播磨一円に名高い廣峯神社への常夜燈寄進は、開拓地が緑なす平野に生まれ変わることを祈願してのことであろうか、周旋方同村長兵衛の文字も見える。
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2008年11月23日

土土   どど

■姫路市東蒲田■


土土の旧地.JPG  墓地近くの山添神.JPG


  夢前川下流域左岸の蒲田地区はいぶし瓦の民家が寄り合い、山あり川あり田畑ありと恵
まれた農村集落の風情を残していたが、昭和五〇年ころ圃場整備事業が始まると村の様子は一変したように記憶する。
 村の伝えによると、夢前川の河川改修までは濁流が山際まで流れ込み、いつもじくじくした湿地でおおわれ、少しずつ高くなった土地に岸上、高畑、籾取、下蒲田、山所(やまじょ)とよばれる五垣内が起こり、なかでも東に屹立する蒲田山麓にある山所と呼ばれる集落の起原は古く、発(ほっ)田(た)大明神と称された蒲田神社の旧地といわれる。山道を抜けると荒川の西庄地区へとつながり、東西をむすぶ主要な山越え道に山麓の清流を暮らしに用い田の水を引き、恵みをもたらす山の神を祀った風習が人知れずひっそりと今も続いているのに出合える。
 「土土」の場所は夢前川左岸の地区南端にあって、山の突端が夢前川に大きく突き出たところで、むかしはさぞかし通行に不自由であったろうと思える。そんな場所に大雨が降ると崖をしたたる水は一挙に水嵩(かさ)を増し、渦を巻く濁流が夢前川へ白いしぶきをあげつつなだれ込み、その時ドドッと耳をつんざくような轟音がする。この激しい水音ドドッが地名の由来となったに違いない。
水が落ち込む場所は川底をえぐり深い淵となる。立ち止まるだけで身が吸い込まれるかのような危険きわまりない場所に、若い僧と白菊という美しい娘がこの渕に身を投げたという悲恋物語が生まれた「稚児ケ淵」伝説である。
 ちなみに、東京の蒲田といえばオールドファンに懐かしい松竹キネマの撮影所があったところ、『東京地名考』は「カマタ」は「泥の中の島」の意のアイヌ語、あるいは一般に「泥深い田」を意味すると記す。蒲田神社の旧名発(ほっ)田(た)大明神は泥土が流入する地を徐々に開発
した国土開発の神を暗示するものかも知れない。



 
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2008年11月08日

大道ノ下  だいどうのした

■姫路市市ノ郷■

稲荷社と銀杏の木.JPG    昔ながらの店構え.JPG

  
 川のそばに市が立ち『枕の草紙』に「しかまの市」と詠まれたのは平安時代中期のこと、その縁(えにし)によって市川の名が起こり、架かる橋を市の橋といい、上流の神崎郡には市川町が生れた。
 しかまの市の遺称地はもう少し北のほうにあって、市内城東町字市場がその遺称地だといい、その北方には市内の最古道が広峯山下を書写山麓へかけて伸び、書写東坂本には「東横大道」の古い地名が残っている。
 市之郷の大道とは近世に起こった山陽道を指し西国街道とも呼ばれ、明治八(一八七五)年に木橋が架けられるまで対岸の一本松との間に渡し舟が通じ、この道を藩主が江戸へ上られるとき大庄屋・庄屋格ほか苗字帯刀のものが御着宿まで御見送り、または御出迎えに出るのが決まりであった。また明治二年三月五日の洪水で市川附定渡船壱艘が流失、舟中にあった櫓壱挺、宿駕籠壱挺も流れたと沿岸の村々へ御船役所からの通達が「姫路藩室津会所文書」にみられる。
 姫路城下への着岸地は市川橋西詰交差点の北あたりで、旧道の一画に昔ながらの木目(もくめ)にガラス戸で客を迎える「かね久(ひさ)」の屋号をもつ藤本建具店がある。敷地内には南向きの白崎稲荷社、脇の大銀杏(いちょう)が街道の安全を見守り、うだつのある民家も残るそんな歴史を踏襲する道も、昭和一一年土地区画整理により大変革、その様子を一三の古い字名(あざめい)からしばし懐古してみよう。
 まず中河原、昭和四年に丸尾町に改称された丸尾、宮上は(みやげ)と読み、旧山陽道に面する丁田、大善畑は現在楠町となり隣接して大善田もあった。宮西、西野々(にしのの)、JR西踏み切り辺りは辻ケ内、高田は現在の若菜町にあたる。なが―い土手は長堤(ながどえ)とよばれ今は日出町、大道ノ下は山陽道の南下にあって丁田と隣接まっすぐ西へ向かう、大縄場は現在東郷町大縄場として復活。丹念に描かれた大縄場を囲む石垣は字限図に波(は)戸(と)と記され、河原だとか久太夫河原の名は今水底(みなそこ)に埋もれている。


 

 
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2008年10月31日

柚木河原  ゆぎがわら

■姫路市西延末■


手柄山遊園地を望む.JPG  ニ川合流点.JPG


 姫路駅構内から西へ向かう列車は二本、一本の山陽本線は手柄山遊園地の脇を直進して西へ向かい、姫新線は当地区北端の冑山神社下をかすめ通過して岡山の新見を目指す。ちなみに、姫路の姫と新見の新の頭文字の組み合わせが姫新線の呼び名の始まりである。
「風土記」に「冑の落ちた処は冑丘」と語りかける十四の丘の一つ、冑山神社の山頂から至近距離に望める手柄山は、これまた十四の丘に登場する山で、古代の二つの丘に抱(いだ)かれた当地区の歴史的風土は奥深いものがありそうだ。それを確かめるべくしばし時を巻き戻してみよう。
たとえば、遊園地内の赤や緑に塗られた観覧車と付近のビルを排除する。完成したJRの高架とこれに沿った県道も地下へ潜らそう。時折通る姫新線だって線路を撤去すれば列車はもう来ない。すると条里制に倣(なら)い開発がすすめられた一町の田は、いまも「町田」の小字で引き継がれ、北には「加賀(かが)杭(くい)」の小字で平安時代に設立された勧学院の食(じき)田(でん)が広がりをみせる。東からの船場川の流れ込みに加え、水尾川の派流が二筋三筋と交錯(こうさく)しつつ村の中を南下する流れは絶えることはなく、清らかな水と太陽の光に育(はぐく)まれた稲穂の垂れる風景が浮かび上がってきた。
そんな集落の最南端の川淵に河原が生まれると人はそこを柚木(ゆぎ)河原と呼んだ。柚木とは「結い」の転訛ではないだろうか。結いとよばれるこの制度は字のごとく手を結び支え合うことを言い、お互いが助け合う相互扶助の仕組みは、農耕を成業(なりわい)とする日本が他国へ誇れる風習であった。田植えの時期になると一軒の田植えを数軒または十数軒で助け合う労働時の貸し借りの習慣を手結いということから「田結い」と書かれることもあり、田井や田居、鯛垣内などの当て字で市内に残る。
田の手入れや水路の整備に力を結集した古き良き時代を反映する結いの心は、香(かぐわ)しい植物の柚の木に引き継がれ、集落に潜在する知的な文化の息吹きを発散している。


 
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2008年10月16日

河間町  こばさまちょう

■姫路市河間町■

河間町界隈.JPG  誓光寺の庚申堂.JPG 


 姫路駅から神姫バスで姫路医療センター(旧国立病院)経由に乗車すると、世界文化遺産に登録された姫路城を眺めつつ、五分ほどで河間町のバス停に着いた。バス停の標識に「こばさまちょう」の振り仮名がないので、市外から初めて訪れる人だとちょっと読みづらい難読地名のひとつである。
 百メートルほど南へ下がると城内から北東への出入り口であった野里門がある。つづきの河間町は姫路城下八十八町の内の一つであるといわれ、八十八町は語呂の良さもさることながら、縁起のよい八の数字をかさねたもので、正しい数字は七十八町だそうな。
 「河間」地名の由来を探ると、文字そのままに川と川の間にある場所を指しているようで、いまは「河」の字を使用しているが、天正15(1587)年の古い書状には川間町の文字で記された古い町名でもある。
 むかし市川の分流の一つであった二股川は、増位山の東麓で、東と西へ流れが二つに分かれていたことから二股川と呼ばれていた。城が築かれている姫山の北部辺りでは、この川の作用で長い間に土砂が堆積して州となり、州は徐々に周辺にせりだしてやや高くなって自然堤防の状態となってくる。やがて堤防の内側の安全な場所に人が住まいを設け、人びとは川と川に挟まれたこの土地に河間の文字を宛がい土地の名としたのであろう。
 『姫路市町名字考』の著者橋本政次さんは「こばさまちょう」は「かわはさまちょう」のちぢまったものであると明確な答えを出している。  後背にそそり立つ広峰山や増位山からの豊潤な落ち水の恩恵は、川のほとりに庚申信仰を根付かせ、昭和4(1929)年姫路市の上水道、町裏浄水場ができて市民の水瓶(みずがめ)を確保した。西隣りの八代町には「挟(はさ)河(こ)」地名と共に、湿地を表わす「深田」や「深ケ」も残り、姫路城を取り巻く堀の防御機能をいっそう堅固にしたであろう「はざま」関連地名は、市内にじつに18の多きを数える。             
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2008年08月26日

鐘鋳場  かねいば

■姫路市白国■

佐伯神社.JPG  手すりが赤いしらかね橋.JPG


 数ある増位山随願寺への参詣道のなかでも、佐伯神社脇の道は細くいまも古道の面影を伝え、天空を覆う境内の椋の巨木も健在だ。太古と変わらぬ翠陰に癒されて鐘鋳場の地を訪ねる。
 念仏堂の下を流れる増位川をへだてた1203〜1255番地辺りの該当地は意外と狭いが、新しく住まいを設けた人も、ずっとむかしからの住人も、地名へのこだわりは少ない。
 鐘鋳場という地名について『姫路市町名字考』の著者は「鐘鋳場は随願寺の鐘を鋳た所であろう」と鐘の字にこだわりを見せているが、柳田國男は『地名の研究』のなかで、「カネイバという地名は山陽・山陰・四国・畿内、東国の国々に及んでいる。通例は鐘鋳場、鏡鋳場の字をあてて、往々にして付近の大寺の鐘を鋳た所だとかの口碑を伝えている」と述べる。柳田の言うように確かにここには随願寺という大寺を背景にした説が定説となっているが、真実はどうであろうか。 
 県下朝来市の鉱山町として名高い生野町の「口銀谷」はくちがなやと読み鍛冶屋町があり、市内飾東町八重畑鉱山跡には「金池」があるも鉱質は銀や銅のほか亜鉛・スズを産出し、鉱山とかかわる字名「雉子ガ端」があって、ここ増位川上流の鐘鋳場北端には「しらかね橋」が架かる。しらかねであれば銀の産出があったのだろうか、一般に鉱石すべてをひっくるめてカネと表現するのを見れば、鐘は鐘でも寺の鐘ではなく鉱石全般を指すカネに的をしぼるのも一策であろう。
 谷間を流れる増位川の源を増位山といい、山の西北から吹き降ろす風は古代語で「アナジ」「アナゼ」と呼び、北からの季節風を指す。推測の域を出ないが谷川の急流は山の鉱物を押し流し下流で鉱物をすくい取りカネを溶かすタタラが必要となる。それがカネ鋳場で「鋳物の場」がつづまって鋳場となったもの、鉱石を溶かすには自然の強風を必要とした。たとえ製鉄遺構が見つかっていなくとも山があって、近くに急流をともなう川があり、鋳場という地名があればこれ以上の好条件は望めないのではないか。
 製鉄技術集団を率いた人たちの出自は、新羅を征したので軍功により白国と名付けて、ここを本拠とした人たちに違いない。播磨最初の国造になった佐伯直(さえきのあたい)は鉱物の力で支配権を握ったのではないだろうか、彼を祀る佐伯神社は目と鼻の先の距離にある。
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2008年08月03日

省己橋  せいこばし

■姫路市今宿■

省己橋.JPG   渇水した大井川源.JPG


  十二所前を経由して西へ向かうバスの車窓から鬢櫛山の姿がチラチラと見え隠れする。鬢櫛山は風土記記載の十四丘の「匣丘」の比定地で、今宿の万燈山が脇を守る。
  琴丘高校を抱え込む東麓の別所谷は、今宿の別所という小字(こあざ)の谷に付けられた名で、谷は昭和の中頃まで県の種蓄場があったと伝えられ、その跡の閑静な地を求めて車崎から琴丘高校が移転してきた。校地との一線を画するかのような小川は、すぐ北の西国街道に沿った湧水池大井(おおゆ)を源流とする流れで、下流の町坪あたりでは大井川とよばれ、さらに下ると水尾川に合流して中河川に発展する。
  小川に架かる小さな橋の名を「省己橋」といい、橋はどうやら登下校時唯一の出入り口らしく、大勢の生徒たちの通学路にしては意外と気取らない粗末な造りがいい。
「省己」こういう字を書いて省己(せいこ)と読ます橋の名は、論語の「吾れ日に三たび吾が身を省みる」から採られたものであろうか。多感な青春時代をこの学び舎で過ごす三年の間「己れを省みて」学生らしき行いをしているか否か、橋が問いかけているようだ。
 でも「省己」の解釈は本当をいえばこの辺りの地形から名付けられたもので、「狭い河」すなわち川幅が狭くなった様子を表す当て字で、もともとはこの辺りの地名だったに違いない。自然堤防で高くなった所はいきおい川幅が狭(せば)まり非常時には濁流となる、その様子を目にした人びとは、「狭河」の文字を当てて注意をうながした。
 高校が移転してきて山災害の危険は去ったが、通学路の一部となった橋に同じ読みの「省己」の文字を宛がった。この時に立ち会った橋の名付け親は、消える地名を愛おしく思いつつ後輩たちに、もっとも相応しい言葉を「論語」の一節から選び出し橋の名に刻んだのではなかろうか。
  八代町では狭河と書いて「はさこ」と読み、河と川の挟い空閑地に発生した町河間町(こばさま)が野里にあって、水への関心の深さを伝える地名のなんと多いことよ。
                  姫路地名研究会  田中 
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2008年07月15日

いか土 いかづち

■姫路市山野井町■

岩端大師堂全景.JPG  唯一残るいか土名.JPG

 
  姫路城の西を南流する船場川と名古山の間の景福寺山の標高は51m、北西の山腹が近年になって一挙に開発が進み、元から有った地蔵堂が肩身狭しと地区の集会所で寄り合い所帯となっている。
  『播磨国風土記』の十四の丘の「船丘」に比定される景福寺山は、江戸時代姫路城主の国替え時に南麓の寺院名が変わるたびに山の呼び名も変わり、明治15年作成の字限図には増位山と載る。 
もと山野井町に属していた「いか土」の場所は、山の北麓一帯を占め東西は大溝で仕切られた湿地の野が広がっていたらしく、昭和11年ころから始まった急激な都市化で、かつて嵐山と呼ばれていたことから嵐山町を名乗り、小字(こあざ)地名「いか土」はこの時消滅した。 
 「いか土」地名の由来は、まず雷の古語である「雷(いかずち)」説がある。怖い物の代名詞であった雷の稲妻の閃光に畏れおののいた人びとは、これを雷神と崇め別雷神を祀った。恐れながらも慈雨をもたらす神への感謝と自然への畏敬を込めたのであろう。奈良県明日香村の雷(いかずちの)岳(おか)の大字に雷(いかずち)があり、雷岳を甘(あま)樫(かし)丘(おか)の比定地とするのは奈良地名研究所の池田末則さん、徳川期には雷土と書きイカヅチと訓読していたとこだわりを見せる。
つぎの「巌土(いかつち)」説は、ある辞典に「厳(いかる)は形容詞イカル・イカシで険しい山麓を言い、後ろの山から落ちた土砂で埋まった土地は、川をも埋め尽くしてしまう様子をいう」とある。  
 最後にいか土をふくむかつての山名「嵐山」の語源に注目してみよう。アラシの語源は、古い時代の焼畑耕作を慣習とする傾斜地や崖地に与えられた言葉をアラシだとかアラスなどというので、古代に遡れる原初農耕焼畑地名がもっともこの地に相応しいように感じられるのだが、どうであろうか。
 京都の嵐山から連想される雅な景観から予想しえない古い山の営み、それにつれて裏腹な危険性を我らに警告しつつ、険しい山麓の危険地名を我らに伝えるべく残した地名だと思えるからにほかならない。
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2008年04月23日

夫婦木 めおとぎ

■姫路市飾磨区上野田■

西河原橋から北を見る.JPG  夫婦木が立つ境内.JPG


姫路城主池田三左衛門輝政の名にちなみ三左衛門堀とも、外堀川とも呼ばれる運河も、「三の切橋」辺りを過ぎると野田川と名を変える。
野田川は、お世辞にも清い流れとは形容しがたく、それでも羽を休める鳥の姿が見えてホット安堵した。西河原橋から北を望む風景である。
西河原橋東の上野田公園は、春休みだというのに乗り手のない遊具が手持ち無沙汰に揺れ、若い娘(こ)が一人バス停に立つ姿を横目に目的地「夫婦木」へ向かう。川跡のくねりを偲ばせる細い道をたどると、玉垣をめぐらす宮跡らしき境内に「上野田公民館」表示の建屋がある。東北隅の地蔵堂と天神祠の脇の碑は、大正14年「田四反七畝十三歩、高徳純教」の寄贈碑で、高徳氏は都会へ出た成功者であったのだろう、平成6年南条の大歳社の分霊を請けて新築なった大歳神社にも神戸市荒田町高徳藤五郎の銘を残す。碑を覆い隠すように枝葉を伸ばす大木が一本、樹は地上から2メートルほどの所で二股に分かれ、それぞれに新芽が萌えて樹木の旺盛さを誇示している。もしかすると夫婦木という地名の由来はこの樹木なのであろうか。                
夫婦木の地名解釈は、幹の中途から二股に分かれて同じ大きさの勝ち負けのない枝が出ている状態に付けられ、自然が創り出した芽出度い現象を吉祥ととらえた人たちが好んで付けた地名である。明治初年に大歳神社と改めた南条の元の神は大白星、すなわち星を祀り方位を占う信仰と、自然現象の夫婦木との関連は定かではないが、いずれにしても古い信仰の影を落とす地名であろう。
近くで酒店を営む女主人の話によれば、毎年1月15日に上野田公園で行われるとんど焼きの当日、天神さんに灯(とも)した火を種火にして公園まで運び、とんどに点火するのだという。       
 地名の記憶が確実に人びとから遠ざかっているのを実感する日々である。 
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2008年02月09日

美道路 みどろ

■姫路市西庄■

姫新線の綿所踏切.JPG  薬師堂に秋の風.JPG


 西庄北口のバス停で降車、姫新線の「綿所(わたじょ)」踏み切りを南へ、東方の大木の陰の薬師堂に詣でると、昭和58年9月改修の堂内に地蔵が四体寄り添っていた。
屏風を立て巡らしたかのように西を山で遮られた西庄は、明治6年(1873)旧の西脇村と庄村が合併して一村になった合成地名の先駆けである。
 薬師堂近くの舗装が行き届いた広幅の道も、かつては夢前川が流れていた時代があったので、田仕事すら困難と思える湿地が広がっていたことだろう『姫路城史・中巻』によると「明暦元年(1655)姫路城主の榊原忠次が横関に堰を築き、西の菅生川御立の横関から南へ流れていたものを合流させた」とある。すれば先の踏み切り名「綿所」は、むかしの渡河地点を表す「渡所(わたじょ)」の変え字に違いないと思いつく。
旧河道に当たる美道路周辺は、人工的に地下へ潜らされた伏水が古い記憶をたどり地上へと染み出し、表土は照る日曇る日を問わず常に水浸しの状態がつづいていたのではないか。そこで湿地の最たる地名「ミドロ」地名が起こった。なおミドロを漢字に直すと深泥が最適であろうか。その地名解釈は「ミ」を接頭語に据えて「ドロ」には泥でなく道路の字があてがわれた。まさに広幅の道作りが前もって計画されたかのような名付けの智恵が今に活きる。同じ泥の付く地名もミが付くとより深いどろっとした状態を表し、西に隣接する西美道路から広範囲な湿地の広がりが想定できる。
 ミドロの当て字は数多くあって、水泥・味泥・見土呂など漢字の妙味もさることながら湿地へのこだわりと思い入れは、農耕民族の性(さが)が為せる業かも知れない。ちなみに市内のミドロ地名は、区画整理が行われて昔日の面影の失せた白浜町中村寺家町の一画に旧小字地名の所在を示す美土呂公園が設けられている。
 「豊葦原瑞穂の国」の原風景を思い起こさせるドロ地名の代表は、弥生時代の文化遺産である静岡県の登(と)呂(ろ)遺跡、近畿地方では吉野熊野国立公園の瀞(どろ)峡(きょう)の瀞などがよく知られるところであろう。 
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2008年01月10日

天王道  てんのうみち

■姫路市書写■

白山神社目指して鬼も登る.JPG   合寺記念碑.JPG


夢前川の書写橋を西へ渡ると、これまで遠くに見えていた標高371メートルの霊峰書写山が一挙に目前に迫ってきた。
 天王道とよばれた道は、この橋から西へ伸びる県道石倉・玉田線を南北にまたいだ東坂近辺にあって、以前はこの南の渡河地点を中心に昔の観音霊場第27番札所への参詣道と重複する往古の古道である。
天王道の天王とは同じ読みの天皇とは異なり、インドの祇園精舎の守護神である牛頭天王を指し、祇園天神ともよばれる。なお備後の国風土記逸文に載る武塔大王・武塔天神・武大神などの呼び名は、すべて牛頭天王の別称といわれ、牛頭天王は日本へ入ってくると神道では武塔だとか武大の名の荒ら荒らしいイメージを反映して荒ぶる神スサノオノ命と名を変え登場する。仏道では吉備国の逸文に記された蘇民将来(そみんしょうらい)伝説にもとづき、衆生を救う薬師如来の化身となって鎮疫神の役目も担わされているようだ。           
 康保3(966)年性空上人開基という書写山では、毎年1月18日の「修正会」のさなか、蝋燭の炎がゆれる本堂に朗々と響く読経の中に牛王宝印の名が流れ、式も終わりに近づいたころ、長さ30センチばかりの魔除けの棒が参詣者に撒かれる。これが牛王木というもので、これを手にしたものは1年の災厄が除けるとあって暗闇の中で奪い合いになる。以前は「牛王宝印」と刷り込まれた護符も配られたが今は途絶えているようだ。
なお『飾磨郡誌』は「書写字大門にあった万願寺茂(も)梨寺(りじ)薬師堂は、女人堂(如意輪寺)に移り、明治42年東坂本村宝聚寺を合寺した」と記載する。茂梨寺といえば、スサノオノ命がその子五十猛命を伴い新羅に渡り曾尸(そし)茂(も)梨(り)に住んだ、という旧事に由緒を求めるのは無理な推論ではなく、「性空上人入山以前になんらかの宗教施設があった」との記事からは、茂梨寺は牛頭天王の悪疫退散を願う信奉者が籠る古堂だった可能性が高いと考えられる。
posted by 早春 at 22:45| Comment(5) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

門堤 もんどえ

■姫路市飾磨区下野田■

曲線を描く野田川.JPG   隣村の境の旧水路.JPG


 村の西を流れる野田川の名は、上野田と下野田を通過することから野田川の名が生まれ、上流域では姫路城主池田三左衛門が開削した堀にちなみ三左衛門堀と呼ばれる。
東の阿成との地境を流れていた水路は、いまやその形跡を追うのは困難だが、かつて水路に沿った316番地から371番地にかけて「門堤」と呼ばれる小字地名があった。
 村のあまりの変わりように地区の水利組合長松岡明雄さんを訪ね、字限図を見せていただき教えを乞う。松岡さんは野田川と阿成のはざまにある当村は市川の影響で阿成の方が土地が高く、下野田側にどうしても土が流れ込む時代があったという。字限図に残る「門堤」のページには、水色の彩色で南北に描かれた一本の水路が阿成との存在感ある境界を示し、水路に沿った緑色は用水に恵まれたであろう田畑の記号で、隣接する一筋の茶色い太目の紐状の上に「堤5畝24歩」との表示がある。詳細な地番は329番地、これがすなわち門堤の原形で、土の流入を防ぐために置き土をして築いた当時の土手の姿が色鮮やかに残っていた。
 「もんどえ」という語について柳田国男は『地名の研究』の中で「播磨の方言に堤防のことを「ドエ」という。これは土居の転訛に相違ない。なお境などの置き土をドイといい、土居・土井の名の付く地名は全国各地に分布している」と説明する。
 土居だとか土井地名は姫路市内にもいくつか残り、町坪の「土居ノ内」であれば英賀城の支城、町坪弾四郎構居の跡地から土居の文字は好例であろうし、大津区西土井も天正8年(1580)秀吉が英賀城攻めの時「西土居」を陥れたと長曾我部元親に与えた書状に見え、武士の屋敷地を表す土居地名も後年「土井」へと容易に転換されるという事実を考えると、下野田において堤を「どえ」と云う播磨独特の方言が、生き生きと地名に反映されて残った珍しく愛おしい地名である。
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2007年09月18日

葉草 はくさ

■姫路市砥堀■


春川神社.JPG  市内最大の石室をもつ権現山古墳.JPG


 西を標高250bの増位山にさえぎられ、東に市川が蛇行する河岸段丘に発達した南北に細長い砥堀は、古い時代、湿地に覆われた土地の高台に人が住み着いたのが始まりなのだろう。麓に沿って細くうねる道の山側にある春川神社は墾(はる)川の替え字で、開墾に関わる一社と考えられる。
 葉草という地名の場所は砥堀の南西部の山頂に近く、けもの道さえ途絶えた鬱蒼と茂る潅木を掻き分けぬかるんだ坂を登ると、第32回に掲載した「仕出掛」へと到達し、増位山頂上が間もないことを知らせる。
 葉草の元の字は「蛇草」と書くのが正しいらしく、大坂に蛇草という地名がある。そこで「長瀬町蛇草友集会」の国本氏へ聞き合わせたところ「東大阪市衣摺(きずり)にある長瀬神社はもと北葉草、南葉草そのほか5カ村が合併したとき、式内社波牟許曾(はむこそ)神社ならびに村社であった蛇斬(じゃさき)社などを合祀した。社名の波牟は蛇のことで、許曾は社の意味であり、神社創始の由緒書きの一部には蛇を祀り、古代この地は大和川の川ぶちの湿地であった」と返事をいただく。なお江戸時代の国学者である伴信友は「蛇草と書いて今いかに唱うにか、知らねども「波牟久佐」とか「波美久佐とか唱うべきなり」との記述もありますとのこと。
 日本地名研究所所長谷川健一さんは蛇草について、蝿も羽羽(はは)も蛇の古名で、波牟とは物を口にくわえることからきたもので、魚類の鱧も古くはハムと呼ばれた。蛇は蝮であったろう」と述べている。
 県下篠山市で行われる鱧祭りは、人身御供の子どもに模した10歳くらいの男児をたて、式が進むと鱧切り役がまな板に乗せた鱧を一刀に切断するという行事が無形文化財になっている。鱧は大蛇に見立てられたもので、人身御供の子どもを連れ去ったので天罰をくだすのだという。
  播磨六山の一つである随願寺への山道をたどる善男善女たちの足元に,生い茂る色とりどりの葉草、だが湿地を好む習性の蝮にとっては格好の棲みかとなる。それで蝮の存在を示す葉草という地名を付けて、それとなく注意をうながした地名かも知れない。
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2007年08月29日

面白 おもじろ

■姫路市今宿■

面白山の白い電波塔.JPG  面白・山の施設表示.JPG


 東行き国道2号線から北に間近い山頂に立つ電波塔が白く際立つ夕どき、古代に登場する十四の丘の一つ甕丘(みかおか)は、ひっそりと時を巻き戻したように静まりかえる。
 一風変わった名の面白山の標高は49b、ただし現在は駐車場が設けられて38,2bと低くなり、みかおかは神子岡へ、そしていま面(おも)白山(しろやま)とよばれる。
南麓の行者堂脇に行者たちの寄る辺となった出水の記録が地区の字限図に位置をとどめ、南の崖の建物が撤去されたあと風化した頁岩があらわになり、この真上に先ほどの白い電波塔が危うげに立つ。2003年3月より無人化された測候所は「特別地域気象観測所」と名前を変えた。観測所の前身は「明治37年の兵庫県統計書」によると、もと県立姫路東高等学校北西の地にあって名前を飾磨郡城北観測所といい、姫路師範学校内にあったと記される。昭和38年に面白山に移転したのち41年児童文化センターが開館、この土地の字名(あざめい)から面白山児童文化センターと命名された。
 面白という地名は全国的に数は少なく、その大半が河川・渓谷の近くにあって、島根県や千葉県それに福島県、山形、北海道、など列島の北部に偏ってあるのが特徴である。
判りにくい面白の語源についてアイヌ語からの発祥だという説があるので紹介しょう。北海道雨竜郡雨竜町の面(おも)白内(しろない)という地名の由来は、アイヌ語のオモシリオナイが変化したもので、その意味は(川尻に島がある川の意)だとの説である。日本地名研究所所長谷川健一さんは、アイヌ語地名の存在と重要性についてアイヌ語を共通語として話した人びとがいたのであろうと語る。
 さすれば、水尾川の流れが麓まで迫る古代の甕丘周辺は、アイヌ語でいうオモシリ(川尻)に相当し、丘を島と認識する人たちの居住環境であったのだろうか。
posted by 早春 at 10:54| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月02日

網干場 あみほしば

■姫路市飾磨区細江■

左奥網干し場跡.JPG  湛保ノ碑.JPG


 姫路港旅客船ターミナルの北に四角い形の船溜りがある。ここはかつて飾磨湛保とよばれた湊で、湛保はいまも大小さまざまな船を包み込む。 
 野田川と西の船場川が出合う末流近くでは、吹き寄せられる海砂に加え上流から下る土砂で船の着岸がむつかしくなり、弘化3年(1846)地元の藤田祐右衛門氏が財を基に、有志をつのって築港したのが湛保のはじまりといわれる。ちなみに湛保北東の野田川に沿った細長い地に播但鉄道の起点として明治28年(1895)に開設され、昭和61年廃線となった木造の飾磨港駅がこの辺りにあって、郷愁を誘うレンガ作りの物揚げ場跡は、生野銀山で採集された銀を姫路の港である飾磨港まで運んだ「銀の馬車道」の集荷地点である。
 「網干し場」とよばれる地名の場所は飾磨港駅の西隣に接し、湛保の北西角の1257〜1259番地に地籍が登録されている。網干し場のすぐ南はそのむかし浅瀬が広がる河口に面し、眼前に広がる浜は山部赤人が「風吹けば波か立たむと さもらひに都太(つだ)の細江に浦隠りをり」と詠んだ風待ち湊は、好漁場であったことは言うまでもなく、浜は漁師たちが網を干し、網を繕うための仕事場そのものであったのだろう。想像だが仕事場には網を保管する倉庫が建ち、未明から舟を漕ぎ出す漁師が寝泊りできるごく簡素な部屋も建てられていたのではないか、くわえて船の補修に必要な工具や鍛冶道具を収蔵する倉もあっただろうし、つれて大工職や鍛冶職などの休憩所も備わった浜を仲間は「網干し場」と呼び、やがて地名に定着したと考えられる。時は移り幕末期の湛保への改築工事が進むと、網干し場は間もなく消え失せ、古歌に詠まれた細江の名残は地名のみとなり果てた。
 「網干し場」というなんの変哲も無い漁猟地名であるがゆえに見返る人もないが、港湾都市姫路市へと大きく発展飛躍した原点が、ここ「網干し場」であることを再認識するべきではなかろうか。
posted by 早春 at 20:56| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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