2009年05月11日

花見田 はなみだ

■姫路市勝原区丁■

花見田橋近くの両河川合流.JPG  下流平松大洪水の碑.JPG


 檀特山を北方に従えた勝(すぐり)部の里は、姫路市域で2番目の大きさを誇る瓢塚古墳をはじめ、丁古墳群など古代にさかのぼる歴史を重層して人びとの注目度は高く、これらの墳墓群に多かれ少なかれ影響を与えてきたのは大津茂川と西汐入川の両河川であろう。
 両河川が流れを一つにする合流地点に架かる「花見田橋」は、小字地名花見田から命名されたに違いない。それにもかかわらず橋近くはおろか近辺にも桜の樹らしきものは一本も見あたらないのはなぜなのだろうか。それはこの地が両河川の合流地点となるため、毎年のように洪水の被害になやまされた暴れ川にその訳があるようだ。
 林田町大堤の北方山中を源流として南下する二級河川大津茂川災害の歴史は、記録に残る明治以降だけでも枚挙にいとまがなく、明治17年 29・32・大正元年・7・昭和29年の台風時は堤防が切れて土砂が田に流れ込み、あたりは海のようになったという過去がある。ついで大きな被害に見舞われたのは昭和51年9月、台風17号による秋の集中豪雨のすさまじさはまだ人々の記憶に残り、下流域の平松に冠水の記憶をとどめる水位の碑が建てられている。
 そんな暴れ川にそぐわない華やかな「花見田」地名の解釈を、試しに「花」と「見田」に分けてみた。花の解釈は、川中に砂州が生れてその突端をあらわす地形語、端(はし)がこの場に似つかわしいだろう。端の文字は流れにいろどりを添える花に転換され、愛される地名として残りこの地の風景に花を添えた。また見田は、深田と書いてミタとも読むことから、三田の文字をあてがう地名もあって湿地地名の最たるものでその例証は多くあり、花見田は水害の起こりやすい危険な川端に付けられた災害地名と確信がもてる。
 暮らしに密着して生業(なりわい)をささえて来た川は、時に沿岸に恐怖をもたらす川であったが、それ以上に地域に秋の稔りをとどけ、高度な文化の起こりをうながした恵みの川でもあった。
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2009年03月24日

蒲原  がまはら

■姫路市大津区天満■


天満の蓮根畑.JPG  天満 菅原神社跡の碑.JPG



 播磨灘一帯に広がる海辺の集落では古くから製塩が行われてきたが、江戸時代に入ると土砂の滞留など自然の作用の積み重ねにより、新田畑作りに適しているとして必然的にその汀(みぎわ)の様子を大きく変えて来た。塩作りに欠かせない海水を導入する澪(みお)だとか、塩害を防ぐための堤防や樋門などで守られた新田地先の天満の浜に、勘兵衛新田が生れると磯浜から遠ざかった農村にとって防潮堤は不必要となった。  
 付近の新田を併せて起こった天神町二丁目辺りが蒲原の該当地となろうか。堤防の役目を担っていた蒲原について『天満村地名考』の中で田村善太氏は、「村の最南端にあって縦割りの塩田を守るかのように東西に伸び面積は二町一反六畝一四歩」で、旧小字「蒲田」の土地を検地町の等級は「荒」となっていると記す。
海や川岸沿いに密生する蒲の付く地名は、往々にして蒲がよく生い茂る湿地帯であったなどの解釈で落ち着いてきたが、そうであれば海に囲まれた日本中に蒲田だとか蒲原、蒲生地名で覆いつくされるだろうから、それ以外の訳がきっとあるに違いない。
 『鉄の考古学』の真弓常忠氏は「古代の鉄の原料は砂鉄であろう。山手の砂鉄は雨水で流され、河川の流域に自然の選別で砂鉄層ができ、最終的には海辺へ流れ、海水で淘汰されると砂鉄層が形成される」ついで「水中の泥の中に地下茎をのばす蒲の根に純度の高い砂鉄、褐鉄鋼がよりつく」との説を述べ、辺りに菅原神社の存在があれば申し分ないという。
 西の長松村との境界の水路際集辺に黒田・安田・芋地・芦田それに蟹田「風土記」に記載される「なへ野(鍋野)」、旧小字(こあざ)地名も含めるとこんなに多くの産鉄との関わりを予想しうる地名が残っている、ということは、この地では原始的な「野たたら」製法で粗(あら)鉄(がね)を生み出していたのではなかろうか。想像ではあるが、なによりも地名が真実を語りかけていると考えるのだが。 
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2008年10月24日

あへ  あえ

■姫路市網干区宮内■

先導する猿田彦神.JPG    沼高田遺跡の碑.jpg


 福井の庄28カ村の系譜を引き継ぐ氏子の祭礼網干津の宮秋祭りの日、赤い顔に大きな目、前に突き出た高い鼻、猿田彦神の先導で神輿渡御の主役を受け持つのはむかしも今も敷村宮内である。 
網干は古い歴史を持つ海辺の町で、地名のいわれを津の宮の神事の一つ放生会に漁師が網を干して参詣したからと、はからずも神仏混淆の名残を地名の起りとする。
 放生会よりもさらに古い起原をもつ神事に「饗(あえ)のこと」という祭祀がある。「饗」とは神に食事を捧げおもてなしをする事で「こと」は神事を意味し、慶長9年(1604)の宮内村検地帳の中に消滅したが注目度の高い「あへ」がみえる。あえの位置は地元を熟知する住民サイドから古い検地帳を基におよその位置が確定できて、この周辺の字名から「沼・高田」遺跡の碑が建つ。付近の朝日中学校建設工事期に石器や縄文土器や弥生遺跡が出土しており、最近の報告例から和久の旨戸遺跡(弥生時代)も至近距離だ。なお『播磨国風土記』の訳者は朝日山の南方から西方にわたる宮内を南限とする一帯を大家里と比定、元は大宮里と名乗っていたと記し、この大宮の位置こそが「あへ」場であって、現在の津の宮の原初の姿ではないかと考えられる。     
 幾星霜を経て海が南へ後退して陸地化が進むと広大な平野が誕生、大宮は品(ほん)太(だ)天皇の意思を受けて、海に、より近い場へと移転した。これが現在の魚吹八幡宮であろう。跡地は大和王権の進出により大家里(おおやけのさと)と改名したと考えられる。大家(おおやけ)とは屯倉を指すもので、饗庭(あえば)に近い勝原区丁の家(や)久田(くだ)は三宅(みやけ)田(だ)の可能性を秘め小字地名として健在で、付近にこれまた国指定史跡瓢塚古墳があるのも見逃せない。
 湿地を意味するヌマの語が示すように大津茂川のほとりで稲を栽培して、田の神を客(まろ)神(うど)と呼び最高の饗応をする「あえ」の神事は、米作りに命と慈しみの思いをかけてやまない日本人の豊穣の神々へのもてなしの行いが祖先のまつりであった。
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2008年09月20日

貴船山(祝田神社) きぶねやま(はふりだじんじゃ)

■姫路市林田町上構■

荷台の彼岸花と祝田神社1.JPG   貴船神社奥の古めかしい祝田社.JPG


 緑したたる木漏れ日に映える赤い鳥居、稲穂の緑に競うように咲く彼岸花は、森閑と静まりかえった祝田(はふりだ)神社の秘め事とうらはらに、華やぎを添えている。ここ林田は安志庄。賀茂別雷神社の荘園であったのは文治2年(1186)と『兵庫県神社誌』は記し、ある説は寛治7年(1093)とややずれがあるのは何故なのだろうか。
 麓に貴船神社を祀ることから「貴船山」の小字地名で残り、赤い鳥居の口殿に貴船社、奥殿に延喜式7座の一つにあげられる祝田神社が鎮座する。905年に編纂が開始された延喜式に記載のある何やら古めかしい祝田の名のわけを探ってみよう。
 祝田神社の元の名は祝田宮(ほうだのみや)といい、むかし土地の人は「ホウダが森」と云っていたらしくやはり奥深い森に起源があった。いつの世も老若男女を問わず必ず死がおとずれるという定めをわきまえた人々が、身近な山と向き合う中で火葬普及以前に行われていた古い葬送のしきたりの野辺送りだとか山送りという原始葬送がハフリであった。ハフリという語は埋葬せずに人里離れた山や谷間に無造作に死骸を放り投げ捨てるしきたりで、これをホフリ(放り)と云い、葬むるの言葉につながったといわれる。
 柳田國男は『明治大正史・霊魂と土』の中で「亡き骸はやがて朽ちゆくものとして、遠く人なき浜や谷の奥に隠してこれを自然の懐に返していたのである」と述べる。残された人びとは、山へ捨て置かれた死せる者との惜別と再来を信じて言祝(ことほ)ぎ、祝の字を用いて離別の悲しみを和らげたともいう。 
 幾世代を経ると神聖化された山に小祠が設けられ、神前で額(ぬか)ずく人たちが祭神を勧請すると徐々に拡大して神社の発生につながり、司祭主は祝部(はふりべ)を名乗るようになる。
 『播磨国風土記』美嚢郡高野里の条の「祝田社」は(ほうだ)といい、現在三木市の這田(ほうだ)の地名の起こりとなり、京都相良郡精華町祝園(ほうその)ももとは羽振苑(はふりその)といったということだ。
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2008年08月18日

縁土塚 えんどづか

■姫路市広畑区広畑■

唯一残る貴重な農地.JPG  昔を語る人.JPG 

 山陽電鉄の線路を南北にまたぐ中門通りは、新日本製鉄工場の中門を起点にしていることから街路名が起こり、踏み切りの名も中門通りと付けられている。
 踏み切り南東の角地で果樹園と野菜畑を守り続ける老人は、広畑で生まれ育ち81歳だといい「この場所は、むかしえんどづかといってな−、海との境が曖昧な所で腰までつかるじゅる田ばっかりやった。さて字(じ)はどんな字を書いたか知らんけど、いまは東新町2丁目や−」と目をしばたたかせた。
 ぬかるんだ土地の代名詞じゅる田が大きく変容するのは昭和12年、広畑が製鉄所建設用地に決定されて以来のことで、20年代になるとじゅる田といわれた湿地は企業用地に、その社宅用地にと埋め立てが進み、残った空閑地は泥田ゆえに蓮池と古い地図に名をとどめる。   
 水利関係の古地図に、円豆塚とも記される縁土塚のいわれは、仏教とともに大陸から伝わり江戸時代日本人の死因の第一位を占めたと伝わる天然痘に関わる地名ではなかろうか。薬事日報『おくすり博物館』によると「疱瘡(ほうそう)ともよばれた天然痘には別名も多く、奈良時代には豌豆(わんず)瘡(かさ)・裳(も)瘡(かさ)と呼ばれ、鎌倉時代には赤斑(あかも)瘡(かさ)など時代を越えてよびかたは種々使われてきた」とある。天然痘流行のすさまじさを「神戸又新日報」明治19年1月24日版にみると、県下一年間の患者数5743名、一ヵ月後の2月24日県下だけでも216名の発症が報告され、姫路に近い広畑でも猛威をふるい、村から程遠い浜風にゆすぶられる海辺の一角に、疱瘡の災禍で命を落とした人の塚が設けられたと推測できる。
 種痘施行がゆきわたり天然痘の恐怖が去って記憶も薄れたころ、天然痘の古い呼び名「豌豆(わんず)瘡(かさ)」の豌豆の文字はそのまま「えんど」と読まれ小字(こあざ)で残ったが、塚はいつしか平地に均(なら)されて消滅した。
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2008年07月22日

宇利ウ うりう

■姫路市太市中村■

邑智駅家跡の碑.JPG  向山の小池.JPG


 太市平野のほぼ中央を一直線に延びる上郡停車場線は、槻坂を経るとたつの市中井へと通じ、西脇廃寺から中井廃寺へと先進的な文化の波が寄せては返った古代の大道跡をほぼ踏襲する。
 大道沿いには、古代駅制にのっとった20匹ばかりの馬が置かれた「馬屋田」という地名も見受けられ、向山近くの集会所前に邑智駅家(おおちのうまや)跡の遺跡標記の立て札がひっそりと立つ。小字地名「宇利ウ」は、駅家(うまや)跡からほんの少しばかり下ったゆるい傾斜地の一帯を占め、北方に連なる標高2百b級の山からの谷水と、南の向山から滲み出る落ち水と相まって、辺りは常にほどよい水量を地表に蓄え、窪んだ盆地状の平野部ではその気象条件から常に水蒸気が発生、ウルオイ(潤い)満たされていたのであろう。このような自然環境に恵まれた土地柄は、古代語でウルウ(宇留生)とよばれたらしく、ウリウだとかウルマ(宇留間)も同じ仲間だという。常に潤おう湿原で農耕が始まると特異な現象は目印として地名に選ばれ、宇利ウ地名発祥となる。穣をもたらすこんな環境に恵まれた平野こそ「豊葦原瑞穂の国」の原点に違いない。
 素人ながら思いつくことは、水量の少ない大津茂川一筋だけでは穀倉地帯の用水にも事欠いたであろうし、ましてや延喜式に記載される20匹ばかりの馬の飼育も覚束なかったのではなかろうか、もしかすると地上だけでなく地下は水がめのような自然構造となっていたのかも知れない、ここは味の良さを誇るブランド「太市筍の里」でもある。
 豊富町神谷川下流域の「瓜生田(ウリュー田)」は金竹の小字で、相生市矢野町羅漢の里瓜生(うりゅう)は渓谷に沿う。明石市魚住に雨流と書いてウリウと読む地名は、たっぷりの水量を彷彿とさせる地名で、遠くへ目をやると北海道には湿原の町雨竜郡雨竜町、こんな当て字もあって全国的な展開をみせるウリウ地名である。
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2008年04月07日

ウツギ谷 うつぎだに

■姫路市林田町大堤■

白髭神社    洞城橋


 現在、国道29号線と呼ばれる道路は、姫路の下手野あたりを起点にして鳥取県の東部の因幡国へ通じることから、因幡街道の通り名もある。
 下伊勢の信号で騒音激しい29号線に別れを告げ、東へ進路を変えるとそこはもう別天地、ため息が洩れるような日本の原風景が目の前に展開してくる。
 大津茂川のせせらぎの恵みに育まれた下伊勢・上伊勢・大堤の3カ村は、山並みに沿った谷筋に伸びやかな暮らしを保ち、懐深い緑の樹林が林立する山中に,ある時期、海を渡ってこの奥地に辿りつき居を定めた人たちがいたのだろうか。白髭の神を祀る石の鳥居に日韓併合記念の文字もさることながら、境内の絵馬には碁盤に対峙する朝鮮の民族衣装をまとった男性と、日本男性が描かれ奉納されている。そんな大堤の集落は楚々とした佇まいで朝日を受け入れ、戦国時代赤松氏の遠見城「空木(うとろぎ)城」の遺構が残る。
 ウツギ谷はこんな大堤の山あいの谷に付けられた小字地名で、谷は字「古林」の内にあり、植物のウツギにちなむ地名と考えられる。日本各地の山野に自生分布するウツギは、県内においても植生が認められていることから、暮らしに密着した樹木だったのだろう。地名としても各地に残り、その当て字は宇津幾・打木・卯月・空木・洞木・と多彩だ。これはウツギの幹が中空である形態をよく捉え、熟知した上での当て字に先人の叡智に脱帽。ウツギはまた別名を「卯の花」といい、年輩の人ならば小学校唱歌として登場した「卯の花の匂う垣根に…」は、はるか過ぎし懐かしく幼い日が胸をよぎる。ともあれ卯の花の由来は陰暦の卯の月に咲くからだという。
 では自生する数多い植物の中で地名として定着したわけは一体何なのだろうか。まず強い芳香が人びとを魅了したのかも知れない。それとも夜目にも際立つ神秘な白い花の色なのだろうか。とりわけ静まりかえる白無垢の谷に木の精霊が浮遊すると考えた人がいた。いや、それにも増して農事にいそしむ村人の実生活を支える農耕の目安の基となるものがあったに違いない。
 ウツギ地名はもう一箇所、瀬戸の海を目の前にした白浜町松原にある。


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2008年02月23日

水尾 みお

■姫路市大津区平松■

 平松船着場跡の碑.JPG    左右へ 蛇行する大津茂川.JPG


  播磨灘に河口をもつ大津茂川下流域の平松は、上流からの土砂の流入により川淵に寄州が生まれ、対岸の大江島と州境の帰属をめぐる諍(いさか)いをたびたび繰り返してきた。
 それでも川のくねる堆積作用は新しい土地を沿岸に生み出し、「西新田」だとか「西開」など開拓の歴史を地名に残し、なおも汐入川と大津茂川の狭間にある灘方吉美村の塩作りに支障を来たし、廃田の時期を早めたのではなかろうか。
  吉美の安積家所蔵天保15年の資料を基にして地元の吉江光弘氏作成の小字復元図によると、枡田(柳田カの注釈)西沖畑 四十田 竹ノ下 畑前それに水尾の六字(あざ)が、水尾一字(いちあざ)に統合された明治初期の様子を浮かびあがらせる。江戸時代、新宮藩の飛び地として年貢米をはじめ諸物資が流入する川湊として大いに繁栄を誇った船着場には、その追憶の石碑が立ち、豪商の土井蔵・奥本蔵が軒を連ねていたと吉江氏は語る。
  水尾と書いてミオと読む地名解釈は、潮の満ち干きで自然に出来た底深い水路を澪(みお)といい、川を航行する船の安全な指標となる水脈をいうため、水脈と書いて大胆にもミオと読ませる場所もある。澪に棹差す船頭たちも時にはこの澪筋を見失う場合もあることから、あらかじめ三角に組んだ棒を立てて目印とした。これがいわゆる「澪標(みおつくし)」または「澪じるし」と呼ばれたもので、てっぺんに赤や白の布切れをくくりつけて夜目にも解り易くした。ちなみに水の都大坂はこの澪じるしが市章となっている。
  なお河口など土砂の堆積しやすい所に水尾(みお)地名が多いのは、塩田や新田成立と深い関わりを示すもので、播磨の塩どころ大塩に残る澪筋は現在西浜川と呼ばれ重用され、飾磨区今在家の水尾川末端の糟谷新田の前身は塩田であった。網干区興浜の水尾も例外ではなく、遠浅の浜辺に枝条架の飛沫(しぶき)がキラリと、そんな時代にノスタルジーを感じる。
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2007年11月13日

松木ノ本  まつきのもと

■姫路市刀出■


刀出橋から見た飛び渡.JPG  川端に建つ古川開墾碑.JPG

 夢前町を抜けて書写山西麓の刀出に差しかかった菅生川は、集落を二分した過去の歴史を古川や河水、梅ノ木などの川端特有の地名に残しつつ、性空上人の故事に事欠かない。
 その一つ御幸道(おなり道)は、長保4年(1002)「花山法皇が書写山の性空上人を訪ねて、床坂より六角、刀出を通り夢前町寺の弥勒寺に行かれた時に通られた」道と云い、自然の流れが作る風景インブリケーションという「飛渡」を、花山法皇と性空上人に絡ませつつ歴史が流れる。
 松木ノ本とよばれる場所は、集落の南西にあって東西南北道の主要な基点である四辻交差点に至る県道411号線に近く、松ノ木はおろか一本の樹木さえ見当たらぬ畑地である。
 「松木ノ本」という地名について、古代交通の研究にくわしい木下良氏は、「古代駅伝制による駅家は、ヤクカ・ウマヤと称したが、これを馬継と呼び、それが転化して松木になったとして、これを古代駅関係地名とする説が特に山陽道・南海道に多い」と述べる。なお「主要交通路に沿うものの想定駅路から離れるものについて、あるいはマツギは駅伝制衰退後の古代末、または中世の駅に対する呼称であったとも考えられる」という。
 『性空上人法薫志』によると、長保4年花山法皇は飾磨津細江に着かれ、しめて馬16匹の調達と食事などを在庁官人、郡司などが担当、播磨国の国司大椽(だいじょう)播磨宿禰延昌らが御先導を務め、通宝山に向かわれたとあって、花山法皇が調達した乗り換え馬の「馬継の元」の可能性がもてる。
 中世に起こった道路政策は古代の駅制にならい、馬の常駐と交代のための馬継制度にのっとったもので、主要道四辻方面を目指す唯一の街道筋は人馬が頻繁に行き通い、種々の物品が馬の背に揺られ奥地へと送られたことだろう。古代山陽大路から距離を隔てたこの地であれば、性空上人の徳を慕う善男善女にくわえ、庶民の移動がもたらした「馬継の元」地名に落ち着いても差し支えはなかろう。
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2007年11月02日

ケンサキ

■姫路市林田町中山下■


集落への出入り口中山下橋.JPG  林田川右手奥がケンサキ.JPG


 安富町関の鹿ガ壺を発して33、6キロメートルを南下する林田川は、中流域のゲンジボタルの保護地区を通過すると間もなく林田町地内へさしかかる。
 町内北部の中山下村は、東の鈴ガ峯と対岸の松山、それに六九谷山のハザマとなる川中の中州が開拓されて起立した新田村の一つで、もと山下村の内であった。
 しかし慶長の国絵図に名を見せない山下村も、元禄郷帳に(1688〜1703)ようやく六九谷村の枝郷と記され、江戸中期になると砂州が発達して面積が拡大したのか山下村の頭に上・中・下を付け、三カ村に分割されたが、ずっとのちの明治になって上中山下は松山村に、下中山下は六九谷村へ併合され現在残っているのは中山下村のみである。
 そんな村の北端に松山を境にして地籍図に片仮名で記されるケンサキは、漢字になおせば剣先であろうか。上流から運ばれた土砂で堆積した三角州が発達すると耕作可能な土地に生まれ変わり、これを目(ま)の当りにした林田城下の人びとが頭に描いた言葉は、先が鋭く尖った「剣先」だったのだろう。
 雨季をむかえると洪水の水禍で村内が埋没するほどの濁流に悩まされたらしく、地底から噴き出す清水は、暮らしにまた田畑への灌漑用水として「出水」の小字名を残し、悪水や余分な水を下流に誘導する場所に「水抜」の地名がみえ、中洲上の新田の暮らしがいかに人と水との融合の日々であったかを物語る。
 明治6年地租改正事業のための林田村巡回の様子は、当時飾磨県に勤務した加藤高文の『奉職日誌』中に2件ある。「同年7月14日林田三木、沽券調印」もう一つは「揖東郡林田貫属邸券状95通渡、千坪に付き80円」。大庄屋をはじめ武家地への地価等級がすんなりと受け入れられたらしく、まさにこの時期、中山下村一村が残された時期と推察してもいいだろう。
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2007年08月10日

日富見新田 ひふみしんでん

■姫路市網干区新在家■

船溜りの先のバス停.JPG  中澪筋の問屋川.JPG


 網干新在家南東の行き詰まりに神姫バスのダイセル停留所がある。終着地点の駅の辺りから南一帯はかつての塩田跡で、日冨見新田の前身である。
 龍野藩南組に属していた新在家の塩の生産高は、江戸時代中期ごろには遠浅の沖へ450メートル東西450メートルの塩浜から採塩され、のちに海辺の附け州を手入れして、塩浜が新田へと発展をとげる様子について、昭和25年発刊の『網干町史』をみると「新在家の字にヒフミと言うがあり、平福三また日冨見とも書く、文久3年(1863)の春になってから開拓された附洲である」なお慶応4年(1868)平福三(ひふみ)新田開発人7人のものへ、龍野藩が金300疋と袴地一反ずつをご褒美として下賜されたとの記載から、当初7人で起工したものが事情により籤引きで3人の名が残ることになった。
 近世開発の新田名には、人名・屋号その他開発年の干支などが付けられるのが通例で、新在家でもその例に漏れず平松屋伝吉、福地屋善左衛門、三石屋甚右衛門3人の頭文字をとり平福三新田と名付けられたが、のちに日本人の好む吉祥文字「日」を当て、福を冨の字へと置き換え日冨見となり、その上分割した地番に日富見松などの目出度い表現の松竹梅、それに鶴亀の瑞祥文字をつけた。
 時は移り明治39年気候が温和で自然災害も少なく、その上一級河川揖保川を擁し、大津茂川をも視野に入れた好条件から大手化学工業が進出を決め、新田の買収計画にはずみがつくと「埋め立ては、東は網干川港岸の源貞新田(大江島の肥塚源貞)西は塩田東澪岸の日冨見新田の中松屋(新在家の古田家)内から始め、約1ヶ年を要した」と網干郷土史に記されている。
川湊網干の発展を支えてきた新田成立の歴史を振り返る人も今は無く、ただ企業所有の異人館ばかりが目立つ昨今、歴史の埋没を愁いている。
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2007年08月01日

揖保川 いぼがわ

■姫路市余部区上川原■

対岸から望む上川原.JPG  上川原の産土神社.JPG


 川を隔てて屹立する緑濃い山並みは、御津町中島の権現山山塊であろう。おおむかし中島村と上川原とは地続きであったが、川の流れが東へ移動して、いま姫路市とたつの市御津町と離ればなれになってしまった。
 宍粟郡の藤無山(1139メートル)を源流とする流れは、はじめ公文川と呼ばれ、引原川を合わせて揖保川を名乗るようになる。蛇行を繰り返し南下するその長さはおよそ70キロメートルにおよび、流域の人口約22万人の生命を支える一級河川である。
 播磨最古の文献『播磨国風土記』によれば、新羅国の王子天日槍命が渡来して川尻にたどり着き、住む場所を先住の伊和大神に要求したが、上陸を断られたので海中を掻き回して挑戦の意思を示した。この姿に恐れた伊和大神は丘の上で戦闘に備え慌てて食べた飯粒が、口からこぼれ落ちたので飯粒(いいぼ)の丘と呼ばれたと、地名の由来を記している。ちなみに龍野市の中臣山がこの丘に比定され、これが揖保の郡(こおり)や里の名となり、山裾を流れる川は揖保川と呼ばれるようになった。
 国占めの神話に託された飯粒の「いいぼ」の「いい」とは、古い時代からの慣習であった「結い」が元ではなかろうか、「結い」とは田植えや稲刈りなど、米作りに必要な労働力を互いに交換する制度を言い、古代のムラ生活に不可欠の良き助け合いの心を育むもので、地名に定着する例証は多々ある。風土記の時代、湿潤で肥沃な龍野平野では早くから米作りが行われ、そこにはすでに結いの制度が活かされて普通に暮らす人びとが「保」とよばれる集落を形成していた、と考えられる。そう理解するとユイがイイとなり、飯粒にことよせた語りもすんなりと理解できるのではなかろうか。しかし機械化された現代は悲しいかなその風習も失われつつある。
 70キロメートルにもおよぶ流域の営みを見つめてきた揖保川が、地籍図に小字として確認できるのは上川原一箇所のみであるが、一定しない流れとともに共存してきた村の歴史を、それとなく後世に伝える歴史ある地名と言えるのではなかろうか。
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2007年06月12日

イガキ  いがき

■姫路市網干区大江島■

海北山薬師寺.JPG   イガキ大明神の幟.jpg


 大津茂川に架かる大平橋は、両岸の大江島と平松の頭文字から橋の名が付けられ、秋祭りの日、津の宮の氏子たちの勇壮な屋台の練り合わせで橋はいつもより活気づく。
 橋から200mほど西の「古川」の流れは、名のとおりある時期大津茂川の本流だったのだろう。川の堆積で州が生まれそこを人は「生い島」と呼び、やがて大江島に変化したという地名の由来がある。
古川に近い古刹「海北山薬師寺」を北へ折れると、それとなく高台と感じ取れる畑地の一画にある小字「イガキ」は、砂州で成り立った畑の中にあって、地元では「ダイミョジ」さんと呼び、52坪ほどの宮地にお堂も存在していたらしい。「ダイミョジ」さんとは、大明神さんがつづまったもので、明治17年11月作成の「大江島地誌編纂取調べ書」によると「禅宗福庄寺、村の北方4丁、字(あざ)籬垣(いがき)耕地の内にあり、長寛年中(1163〜1164)僧保心開基す…嘉吉年間兵火にかかりその後甚だ衰微せり」と記され、海北山薬師寺の前身が福庄寺であったという古老の記憶と一致する。
 明治政府が進めていた一村一社を掲げた神社合祀令にもとづき、村の三カ所にあった小社を一社に集め三社大明神と唱えた。郷土史『大江島物語』は、三社の祭神は滝位天大明神、広峯牛頭天王、それに恵美酒大明神を祀り明治41年三社は村の中の大江神社に合祀され、このとき滝位天は倉稲魂命に、恵美酒神は事代主命に牛頭天王は素盞男命へと神道系の呼び名にすっかり替えられた。その時イガキに祀られていたであろう牛頭天王は、すんなりと佛へと転換して薬師如来と習合、海北山薬師寺にご神体を寄せたと考えられる。
 陽春4月、網干津の宮の氏子が持ち回りで行う武人祭は、牛頭天王の別名武大神にちなむ名で、古くは疫病神として異国の神を迎えたものが、当地では五穀豊穣を主願とし広峯社より守護札をもらい受け、聖地「籬垣」で行う祭りのたびごとに川風に旗めいた「笊籬(いがき)大明神朋友中」の幟はいまも大切に村で保管されている。
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2007年04月26日

毛氈田 もうせんだ

■姫路市網干区坂出■

存在感のある津宮杜  坂出北交差点 

 山陽電鉄網干駅前を南北に通じる県道太子−御津線は、かつて地元の夢と希望を乗せて敷設されたチンチン電車とよばれた播電の路線が転用されて県道に昇格した道路である。
 毛氈田がある場所は、この県道の「坂出北」信号をほぼ中心にして、北は網干区和久を限り、西は同じく福井を境として、南は坂出の「寺門」に隣接する127〜221番地にまたがる。
 毛氈田と命名された当時に映像を巻き戻してみよう、この辺り一帯は見晴らすかぎり青田が広がる場所で、南方に存在感のある魚吹津宮の杜の木立が何にも遮られることなく氏子の村々からは望めたことだろう。早苗が育つ初夏のころ、水田は青い毛氈を敷きつめたかのような色合いとなり、秋ともなれば、たわわに稲穂が頭(こうべ)を垂れる田んぼは黄金色の毛氈へと入れ替わり祭り囃子が通りぬける。そんな風景が頭をよぎる毛氈田の本当の意味は、奉遷田ではないだろうか、長い年月の間に口伝えで伝わった奉遷田は、やがて誤って言い継がれ毛氈田と呼ばれるようになったと単純に考えている。
 『播磨国風土記』に大宮と載る由緒深い魚吹津の古社は、めくりくる季節の雨に打ちたたかれ、風雪に損傷激しく、時には神座を他へ遷し替える奉遷の儀式が行われたことが幾たびかあったに違いない。その祭典費用に充てるための田が奉遷田の由来となっているのではないだろうか。最近のことではあるが平成14年5月に本殿・幣殿・拝殿屋根の老朽化が進み、屋根葺替修復工事をするために仮殿遷座祭が行われた、との報告がある。
 郷土史『大江島物語』によると「宮内の古い小字に奉遷田というのがあって、いまでは大江島の「西新田」の内に含まれている」と記される。この奉遷田も遷座式にともなう費用に充てられたので地名に定着したが、大津茂川沿岸の宿命である改修につぐ改修で統合されて今は無い。


 
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2007年01月09日

吾妻 あずま

■姫路市広畑区広畑■

吾妻寮跡地のスーパー  浜国道吾妻橋東詰


 ゴトゴトと音をたてて東汐入川を電車が渡る。この川は西の大津区と東の広畑区を分ける境の川で、線路より南の250号線までを吾妻町といい1丁目から3丁目まである。
以前は川沿いの3丁目に、静かな緑の木立に囲まれた新日本製鉄「吾妻独身寮」があったが、いまその跡地は買い物客の出入りが多いスーパーマーケットに変身した。
 昭和12年に始まった「広土地区画整理事業」は20有余年の歳月をついやし完成した。新区画の町名制定について『広畑区画整理誌』は「町名はなるべく従来の字名など歴史的由緒に準拠して定める。町名の読みにくきもの冗長なるものを避け、簡潔にして」と、町名設定に最良の選択を住民にうながした。その結果、字(あざ)稗新田・大新田・五郎田・東町(ひがしのちょう)新田の各一部を吾妻町1丁目とし、字東町新田・稗新田・大町・五郎田の各一部を2丁目に、字東町新田・大町・五郎田の各一部が3丁目に改称された。このときすべてに分割された東町新田を簡潔に、東を吾妻に読み替え地域の立地をも念頭に置きつつ吾妻町が成立したと、もと大黒屋の屋号を名乗った男性は遠くを見つめた。
 あずまの語源について『古語辞典』に、「あ」は接頭語、妻(ツマ)は(端)(爪)(褄)であって、ものの端をいうと記されている。爪は指の先端にあってつま先の言葉を生み、褄(つま)は着物の左右両端部分をいうところから衣篇に妻の字が添えられている。
県内では加西市の加古川支流域に朝妻、福崎長目地区の大妻は市川中流域左岸に位置するところから、辺境の地のその先端に付けられた「つま」地名の可能性が高いだろう。
 余談だが、姫路市船津町に「我女房・がにょうぼう」と読む小字名がある。船津町でも最南端の仁色区域のその南の高台にあるいっぷう変わった地名も、実のところ端(はし)っこを意味する「あ・つま」ではなかろうか。なぜなら我が(わが)女房(にょうぼう)は吾が妻、すなわち「あがつま」は「あずま」となりうる、と解釈できる。
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2006年12月25日

鉄炮場 てっぽうば

■姫路市網干区興浜■

鉄炮場跡南の墓地  北東の大木 


 興浜地区の住宅図を広げ、揖保川の支流湾洞川の蛇行跡を指でなぞりながら追うと、南の下水処理場に隣接した墓地へとたどり着く。 
 江戸時代末期、もと三昧場であった墓地の南はおだやかな播磨の海が広がり、海岸線に沿って干拓が進むと「沖高洲」と「味岡新田」二つの畑地が誕生した。この墓地を境にして北の空閑地に背の高い目立つ樹が一本、ここがどうやら「鉄炮場」とよばれた場所の北限となるらしい。
 これまで鉄炮場の意味について二つの考えを巡らしていた。一つは湾洞川の流末であれば当然のように洪水に襲われたであろう鉄砲水の発想である。二つ目は徳川政権太平の世の中とはいえ、いざ戦闘となると真っ先に役立つ飛び道具の鉄炮が想定できた。だが鉄炮射撃や鍛冶とのかかわりが皆目不明なうえに、丸亀藩京極家の飛び地である当地が鉄炮を所持していたか、どうかの確かな証拠が得られないままに年を経た。
 転機がおとずれたのは、もと丸亀藩陣屋の代官を勤めていたという興浜住の秋山家所蔵の古文書の中に「荻野流聞書」「京極能登守領分荻野流炮術稽古打順」「荻野流炮術稽古打順」の3点との出会いであった。荻野流といえば寛文元年(1661)に荻野六兵衛が創設した流派で、実戦向きといわれている。文書は「文政4辛巳(1821)8月27日 網干興浜濱手に於いて、荻野流炮術昼夜稽古打ち順」が記され、さらに昼と夜にわたり轟音を響かせ、京極藩はもちろんのこと林田藩も参加した事実が記載されている。これで「鉄炮場」が鉄炮稽古場であった確実な証拠とともに、浜手の空き地に「鉄炮場」という地名が付けられたおよその年代も推測が可能となった。
 地名が難解な理由の最たるものは資料に乏しいことが何よりの難点で、今回のように古文書から貴重な手がかりを探れるのは稀で、幸運といわねばならない。
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2006年07月28日

九日天 くにってん

■姫路市六角■

 六角橋北からのぞむ菅生川  畦に立つ天王道の碑 


 緑濃い樹林が、信仰の山書写山をくまなく覆う西南麓に、菅生川に架かる六角北橋がある。
この橋の東西にまたがる宿東・宿西という小字地名は、遠路やっとの思いで聖地に辿りついた善男善女たちの仮寝の宿をあらわし、そこはまた渡河地点でもあったのだろう。
 九日天の場所は、山之内に至る県道沿いの人家の路地を抜けると田畑が広がる南の一画にあって、南西隅の用水畦に「天王道」の碑が立つ。天王道の天王とは神仏習合によってスサノオ命となった牛頭(ごず)天王のことで、仏道では薬師如来を唱えた。豊穣の神であり疫病神でもあった牛頭天王信仰が、庶民にもっとも浸透したころの宝暦7年(1757)の絵図に、天王道の記載があるといい、東坂の夢前川河畔に残る小字「天王道」は、書写山信仰の東の基点と考えられる。
難解な「くにってん」の意味は国津神の別称であるが、所によっては「くにったん」ともいい、勧請される神は所により一様ではないが出雲大社に祀られる大国主命が筆頭と目される。ちなみに国津神はコウツ・コウズ・ゴヅとなり、牛頭へ変換されるという説からスサノオ命が祀られることが多々ある。
 「くにってん」の呼び名について、柳田國男は年中行事のなかで「九日に祀る神がある、なお(てん)は天王の天であろう」と述べる。奈良市都祁の国津神社は池田末則氏によれば、九日(くにち)は国津で大国魂命を祀っているという。すれば打越の大国魂神社は峰相の山越えで下伊勢への伝播がたどれる一点となろうか。また因幡道の宿駅、町田の田守神社の石灯籠の「牛頭天王神」の刻印は、因幡街道経由の参詣者の賑わいを今に伝える資料の一端となるだろう。

 


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2006年07月19日

富津 ふづつ

■姫路市広畑区則直■

則直の産土神 とみつに変わった踏切


 木の芽立ちの季節を迎えた京見山のそこここで萌黄色への衣替えがはじまると、麓の村「則直」は新緑の香りに包まれる。
標高216,1メートルの山頂から見る風景に、最近異変が起こりつつあるのに気が付いた。これまで眼下に広がる田の中を、時おり列車が行き過ぎるだけの、のどかな田園風景の中に一軒、また一軒と民家が建ちはじめると、堰が切れたように一挙に住宅化が進み、やがて安全のための踏切が設けられ、踏み切りの名はこの付近の田の小字地名だった「富津」が採用された。しかし近寄ってよく見るとなんと「とみつ」と大きく表示されている。これにはただ唖然とするほかない。これは踏切設置のときに主だった村の指導者の世代交代が進んみ、地名の読みや、いわれを知る人がいなかったに違いない。
 それにしても海にほど遠い潮香の届かない田の中に、なぜ「津」の付く地名があるのだろうか。『地名の由来を知る事典』によると、富津は海岸などの小高くなった所を指す古語「ふ」が津に付いたもので、「ふつつ」は「ふの津」が転じた地名だとする。なお海岸が高い崖になっていて陸地が水面より高くなっている有り様を岡でなく「ふ」で表したものであるとも記している。そういえば「阜(ふ)」のもう一つの読みは「おか」で小高い所の意味があるのに気がついた。              
富津と書いて「ふづつ」と読む地名は、ここ則直に限ったことではなく、どうやら全国的といえるようだ。たとえば千葉県の富津市は東京湾の東岸に突き出た富津岬が好漁場との定評がある。西へ目を向けると長崎県高来郡布津町は島原半島の南東部に位置し有明海にのぞみ、普賢岳を北にトビウオ漁が盛んな町でよく知られるところだ。
 夢前川の扇状地帯にあって京見山がそそりたつ南麓の則直地先を、波がひたひたと押し寄せるそんな時代があったのだろう。江戸時代の後期、則直村の三木勘兵衛が大津村の沖合いの州を開発して完成に導いたのが現在の大津区勘兵衛町である。      
多額の費用と労力を要した新田開発の底力を、山と海のめぐみに求められる奥深い富津地名である。
posted by 早春 at 13:15| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月26日

湾洞川 わんどうがわ

■姫路市網干区興浜■

人口のワンド 合祀記念碑


汚濁でフナも棲めなくなった揖保川の下流域にふたたび清流がもどってきた。穏やかな午後の河口近くはきらめく陽光を川面に集め、一瞬川底に光が届くと魚の鱗が光る。
揖保川の下流域左岸、興浜本町橋付近の静かな住宅地の一画に、本流から分かれて南の海に注ぎ込む湾洞川が流れていたのは、そう遠いむかしの話ではない。江戸時代、丸亀藩の飛び地一万石の陣屋が置かれた興浜では、年貢米の輸送を危険のともなう本流を避けて湾洞川に頼っていたのだろう、年代不詳ながら十六石積上荷船がわんど川を航行していた古文書が『網干町史』に載せられ、生活に密着した有用な水路としての役目を果たしていた。
川の淵に付けられた湾洞地名の意味を探ると、湾曲した所を指すようで、なおかつ入り江につながる汽水域に分布例が多く、ワンドウ・ワント・ワドなどと呼ばれ漢字になおせば湾洞・湾処・曲処の当て字もある。これは川の屈曲した場所を暗に示すものであろう。ゆるやかにカーブする水際に葦が生い茂ると軟弱な土手の補強に役立ち、葦の自生で魚や貝の棲息地となって格好の漁場となる。人と共生の歴史地名の起こりである。
川や海を国の境と位置づけたむかしの人びとは、他国から悪事災難が入り込むのを防ぐために、湾洞川沿いに修験道場福寿院を建て庚申堂を設けたが、明治初期の神社合祀令のあおりを受けて明治41年、庚申堂は湾洞神社と改称、大正5年本町目抜き通りの金刀比羅神社に合祀されることになった。その時の記念碑が境内の西隅に振り向く人も無いままにひっそりと、植木に囲まれ建っている。
やがて人との関わりが途絶えて無用となった湾洞川は、昭和二十三年埋め立てられ間もなく住宅地に転用されることになる。地域の暮らしを見守りながら流路を絶たれた川跡とおぼしき場所に、だれが祀るのか白蛇明神の祠がひっそりと建っている。


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2006年06月02日

奴田 ぬだ

■姫路市勝原区宮田■

奴田の休閑地 宮田ポンプ場 


 大津茂川の東を南北に走る県道大江島・太子線の「宮田ポンプ場前」信号を東へ折れると、宮田団地と呼ばれる閑静な住宅地が建ち並ぶ、住宅の東の溝はいまも雨水を集める西汐入川で、むかしこのあたり一帯は奴田と呼ばれる田圃だった。
 奴田という地名は全国各地に分布が見られ『地名の語源』によれば「ニタとともに近畿中心に分布が見られる」とあり、ニタ・ヌタはともに同じ意味の低湿地を表す地名のようだ。このニタ・ヌタはドロットした沼のような状態の土地をいうらしいことから、そのものずばり沼田と書いてヌタと訓む所もあり、そのほか怒田、仁多、尼田などの当て字もある。ヌタという語は「ヌタクル」などの動作と結び付くのだろうか。そういえば体に泥をこすりつけることを「塗りたくる」といった。
 低湿なこの土地の状態はどうやら大津茂川と西汐入川がもつとも近接している地域の環境が大きな影響を及ぼしているのだろう。林田町大堤を源として流れ下る大津茂川は、流域に合流する川が無いことから一本の帯にたとえられ「帯川」の別名をもっているが、いったん大雨が降ると近辺からの排水を集め、水量は一挙に増し人為の加わらない自然堤防を乗り越えて、大災害を幾度も引き起こしてきた。このような氾濫原野にありがちな自然状況が長い時を経て肥沃な田や畑を作りだしたに違いない。勝原区の両岸一帯は『播磨国風土記』にいう大宮の里の比定地とされ、大宮は現在の魚吹八幡宮だろうから、宮への神饌米の供給地であったことが、大字「宮田」の起こりになったのではないか。
「沼」や「沼の内」などの地名が大津茂川両岸と上流の大市にあって、地名の伝播が川を仲介していたと考えてもよいだろう。ちなみにここはヌダと濁った発音である。
posted by 早春 at 16:59| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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