2008年05月25日

網干古文書堂・瓦版5

■小野周文と番匠屋 その2■

周文の旧宅.JPG  林松寺.JPG

 周文の弟の卓爾は龍野で僧として修行中であったが、そのころ丸亀藩の「司天家」として名の高かった澤山家の養子に迎えられる。
  江戸時代の澤山家の当主は右近を名乗り、土御門家の免許をもって易を占うのを業とし、占星術いわゆる天文占いを得意として近辺のみならず室津薩摩屋本陣や豪商の家相図などの作成に関与し、その裏書に「司天家・澤山右近」の記名を残している。
 周文の妻の実家は網干の鍛冶屋町で鍛冶屋を営む家の娘であったが、屋号を知る人はもう見当たらない。ちなみにその住居跡地に網干銀行が建設され、のちにアロ・タケダが建物を引き継いでいる。
 嫡子の素文は四人の女子をもうけるが大坂で画家の道を志し昭和34年82歳で没、林松寺に墓がある。周文の画風を慕い入門した弟子の一人に興浜住加藤周山の名が見える。
  周文はその余生を網干で孫娘の長女夫妻と共に暮らした。長女の夫の姓を近藤といい明治から昭和期にかけて味噌・醤油の製造販売を生業(なりわい)とする商人だったらしいが、なぜか番匠屋(ばんしょうや)という屋号を称していた。番匠というのは古くは宮廷や寺社の建築にたずさわった大工を指し、後には一般の大工も番匠と呼んだが番匠は特に伝統や技術を継承する大工の棟梁など集団のトップをいうので、その費用を捻出する田にしばしば「番匠田(ばんじょうでん)」の地名で残ることがある。
  話を戻すことにしよう。番匠屋こと近藤家の先々代は幼名鉄之助といい父の名は弥五郎。明治36年六代目の網干町長に選ばれたがまもなく辞職した近藤弥五郎である。弥五郎の旧宅は新在家の通称俵町現在の本町筋687番地にあった。
 弥五郎家の祖は網干新在家本柳寺の過去帳によると、「延宝5年(1677)亡の又右衛門を初出とし、すでにそのころ(番)とのみ記載されるも後年に番匠屋と載る」明治16年有志と組んで和合社(汽船の定期航路)を設立し、大正15年77歳で没するまで専務の業を続けた。  幕末から明治の激動期にかけて網干の産業と舟運に心をくだいた高い志をもつ一人であった。 

 *『網干町史』は新在家本柳寺に近藤家の墓があるとの記載、これをたよりに本柳寺を訪ねるが墓は無く、後日電話にて聞き合わせたところ過去帳を繰っての丁寧な応対での返事をいただき、末尾ながら感謝の意を表します。
 


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2008年05月17日

網干古文書堂・瓦版4

■網干古文書堂・瓦版4■

周文画松に旭.JPG   周文画伯墓.JPG 


 小野周文と番匠屋 1

 明治期の郷土画家小野周文について昨今ある縁をもって聞き取りの機会に恵まれ、そのうえ幸運にも地元興浜自治会所蔵の古文書中に周文の養子縁組に関する資料に出合い、その次第を書き残すことにした。
 周文は名を寛 字は子明、周文はその号で、弘化4年(1847)8月兵庫県揖保郡網干町興濱に生まれる。小野嘉左衛門重政を父として一子に素文(画家)がある。京極佐渡守の家臣であった小野家へ婿入りした父の嘉左衛門は、武士勤めの傍ら画業に専念し唐萃翁と号した。その血を受け継いだ長男の周文は幼いときから画才に長け、昭和10年9月89歳で没し大覚寺に墓がある。
 明治9年(1876)姫路藩窯の跡を継ぐ民営の陶器会社永世舎が姫路市内大蔵前町に設けられ、そこで絵筆を握る優れた画工の中心的存在に小野周文の名が見える。しかし間もなく永世舎は解散、自由の身となった周文はさらに腕を磨くため大坂へ出て数々の作品を残している。
 89歳という長寿を全うしたにもかかわらず、次に示す資料には「多病で家名相続なりがたく」と、養子縁組を解消されるのは何故だろうか。吉田しやう家は現在揖保川筋に建つ奥本町長の碑あたりにあって、工を職とする女所帯の様子から、もしかすると画才を認められ請われて勤める士族授産施設永世舎に賭ける心意気が離籍への道を選ばせたのかも知れない。       つづく


 資料1「明治八年差出ス控諸綴込」改印御届
  私儀是迄用来候実印摩滅仕候ニ付
  別紙印鑑之通改印仕候、即御届申上候以上
  
    明治九子七月二十九日
      第十弐大区四小区興濱村
       弐拾四番屋敷居住 吉田周文印


  資料2「明治十年諸届伺綴」離縁送籍御届
  右之者私方へ家名相続貰受罷在候処、近来多病ニ付、迚も相続難相
  成候ニ付、原籍同郡八拾三番屋敷住工小野嘉左衛門方へ復籍為仕度  願済之上今般離縁仕候、尤跡家名之義は私名前ニ仕度旁以此段御届  申上候以上
   
    明治十年三月
      第十二大区四小区興濱邨
       弐拾四番屋敷居住 工 吉田しやう 印
   
   戸長 片岡徳太郎殿


posted by 早春 at 16:59| Comment(3) | 網干古文書堂 ★瓦版 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月12日

網干古文書堂 瓦版3 

陣屋横の空き地でご対面.JPG  時代の異なる親王雛.jpg

■網干湊に春一番の風が吹く■

 格子窓から射し込む陽がスーツと奥まで和らいでとどく三月、あちこちの町から湊から「梅の花だより」とともに「雛祭り」の催しが届いてきます。
 かつて揖保川河口の港町として栄えた網干の中心地、新在家の片岡家において、3月1日から3日まで初めての雛まつりが催されました。今回はそのときの様子をお伝えしましょう。
 薄ぐらい蔵のなかから久方ぶりに取り出された雛箱から、持ち主が手習いに使用したのでしょうか、いろは文字の残る半紙が詰め物として入れられていて、女あるじの細やかな心遣いが伝わってきます。江戸時代網干の興浜は丸亀藩の陣屋が置かれた所、その船手組に属していたとも、また舟庄屋だったとも伝えられる家に縁付いた明治生まれの女あるじが愛でた親王雛は、香気あふれる面立ちで少しはにかみながら路上での初対面です。
 床の間に緋毛氈を敷いた平飾りという形でお披露目をしたもう一組の古今雛は、柴屋の屋号で造り醤油を営んでいた隣家太田家に伝わる親王雛で、新聞紙上でも取り上げられたこともあってその道の専門家の訪問を受け、なんの知識を持ち得ないで開いた雛祭りの意外な反響に恥じ入るばかりです。そのとき教わったさわりを受け売りしますと、まず江戸時代と明治時代の雛の簡単な見分け方は着物の染料が決め手の一つだとか、明治時代に輸入された化学染料のきわだつ赤さと異なり、日本古来の優雅で深みのある紅花染が江戸時代の雛の特徴だそうで、一同見較べてなるほどと納得する一幕もありました。
 座敷に並べられた檀飾りは、会員持ちよりの思い出のお雛さん、それに有志の方の出品も加わり主(あるじ)ともども春の陽射しに頬をうっすらと桃色に染めた姿は、なんといっても華やかにこの場を引き立てて和ませてくれます。網干湊町に春一番の風が吹いた三日間でした。


 
posted by 早春 at 21:30| Comment(0) | 網干古文書堂 ★瓦版 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月31日

網干古文書堂 瓦版 2

■瓦版:2■

青畳に茶席が映える片岡邸    古文書資料展示


 平安末期の『色葉字類抄』(いろはじるいしょう)に載るしはすは、現在「師が走る」と書く「師走・しわす」です。師ならずとも誰彼なく忙しく早足で駆け巡った1年も早や終章。と云うわけで12月に龍野藩邸から南組大庄屋(網干片岡家)に到来した「御用状」を2・3紹介しましょう。
 資料122の232の「御用」状は、藩主が年頭の御礼を正月2日御城において受けられるので、前日七ツ時(午前4時20〜30分頃)に町宿へ入り、木綿屋勝三郎方へ着いたことを知らせる。登城は麻上下(裃)着用、御樽代弐百文持参、病気などで出られない時は拙宅(大庄屋片岡徳太郎宅)へ連絡すること。書状は早く回し触れ留めより此方へかならず相戻すこと」。日付は暮れもせまった12月22日。正月なのにお役目ご苦労様と声も掛けたくなるのが偽らざる心情です。
 なおこの触状は「方角触」と珍しい表現の但し書きがあることに注目、藩主に謁見を許された人たちは丁村2人、宮田村1人、坂上村1人、網干福地屋の伊之介、善左衛門、善右衛門の3人、三石屋甚右衛門、藤円の2人、天満屋儀兵衛、唐網屋佐七郎の7人衆の、計11人が名誉ある年頭の拝顔の栄に浴しています。
 つぎの資料122の231表書き「御用」状を要略しますと、「御触帳が到来したので明日23日印判(印鑑)を総会所へ持参すること、なお寺社へも通達するように、書状は早く回し触れ留めより此方へかならず相戻すこと、と念を押し、高田村を始まりとして和久 谷村(朝日谷) 丁村 宮田村 平松村 新在家村の庄屋を経て大庄屋へと間違いなく戻されています。

 ★ UPの季節タイミングがずれましたこと、お詫びいたします
posted by 早春 at 14:16| Comment(2) | 網干古文書堂 ★瓦版 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月06日

網干古文書堂・瓦版

■事始:瓦版1■

朝の本町通り.JPG   061128整理初回日.JPG


 姫路市網干区新在家の片岡家に伝わる古文書類は、昭和56年片岡都子氏より資料を委ねられて、姫路市史編集室が整理を済ませ、すでに目録化されたもので、当網干地区はおろか龍野市においても貴重な歴史資料の一つであることは間違いのないことでしょう。
 なぜかと言いますと近世(江戸時代)に龍野藩南組の大庄屋を務めていた当家の古文書には、藩からの御用状にくわえ膨大な回達文書が残されているからにほかなりません。しかしこれらの文書に目が通された形跡は無く、手付かずの状態と判断しましたが、地方文書の類は早くに散逸して量は少なく、貴重な資料に欠けるというのが実情です。
 浜風が吹く遠浅の播磨灘に面した網干は、一方で揖保川河口の重要な川港という恵まれた自然条件を備え、城下町龍野とは高瀬船舟運の終着駅として、大きな要となりうることは間違いなく、藩にとって財政上もさることながら、海を介しての交流の舞台として質の高い人材と、それにともなう文化を藩邸に届けたに相違ないのです。
 崩れかかった古民家の座敷の隅に放置された古文書に出合ったときの驚き、紙魚に冒され、茶箱の中で悲鳴をあげ助けをもとめる古文書は、いつ破棄されるか知れない状況下でした。そのとき神戸大学と神戸史学会が共同で進める古文書レスキュー隊の二文字が私の頭をよぎりました。
 それから間もなく仲間の応援を得て、救出された古文書入りの茶箱は、現在網干余子浜の古民家、加藤邸の二番蔵に収められ安息の日々を送っています。
 大切な網干の歴史文献保存の呼びかけに応じて、資料整理に駆けつけてくれた同士、助っ人の数も増えて現在作業が進められつつあり、なんとも心強いかぎりです。         店主 春 麗
posted by 早春 at 10:28| Comment(1) | 網干古文書堂 ★瓦版 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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