2010年03月03日

市松模様

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2007年12月26日

京都遊学・秦邸&角屋

秦家に伝わる奇應丸の額.jpg   角屋前全景.jpg


■網干歴史雑学塾・秦家のことども■

 京都下京区の油小路界隈は、昔ながらの古い町屋が多く残る町です。なかでもビルの影に遮られつつも、慎ましやかに表を構える秦家(はたけ)は、明治初期の町屋建築で「京都市登録有形文化財」指定を受けています。
 初代は御所の御典医を勤めた家柄で、代々薬種業を営んでいたという表の間には、当時の仕事場がそのまま残され、戸棚の壺に和漢生薬の
素材となるジンコウ、ゴオウなどが詰められ、蓋を開けるとふくよかな香りが漂います。これが小さな金の小粒に精製されますと、母親の人差し指に五粒ほどのせられ、おっぱいといっしょに乳飲み子が飲んだ「太子山奇應丸」なのだそうです。
 鴨居に掛けられた「奇應丸」の額の脇に立つ女主人に、たおやかな中に芯の強い京女の意地が見てとれました。  田中
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2007年12月18日

11月古典に親しむ 3月桜山・科学館・こどもの館探訪

■網干歴史雑学塾■

方丈記.jpg   桜山・自然科学館.JPG


方丈記

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀み
に浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる
例なし。」
 最初の出だしだけはよく耳にしますが、内容は、初めてでした。
福原選都のことや、都落ちのことが平家物語の中に引用されている
なんて、やっぱり名文なんですね。
これは作者の生き方や考え方が非凡で素晴らしいからでしょう。 加藤


歴史探訪会 桜山湖畔にて 3月17日 


 日差しはあるものの風の強い3月17日、一路桜山ダムを目指します。
 途中、姫路科学館で春の特別展「音の科学展」に入館、種々工夫された音の説明を実技を交えて係りの人が丁寧に教えて下さいました。若者に聞こえてオジサン・オバサンに聞こえない音が有るなんて、不思議です。耳について再認識、少し得をした気分です。
 次にこどもの館に行き、お雛様の展示を観たり、迷路のような館内を3階の屋外劇場に出て、眼下に広がる桜山貯水池を眺めると、なだらかな屏風を立てまわしたような緑の山を背に、満々と水を蓄えた池の絶景が大きく広がっていました。ここから広畑の新日鉄に繋がっているんですね。最後にダムを見学し、久しく訪れなかった自然の中の施設をあとにしました。あと半月もすれば、一面山桜が見事に咲き誇ることでしょう。      石野 桂子
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2007年10月12日

12月やさしい古文書・1月桜山という地名の話

■網干歴史雑学塾■  

戸籍法令原文.jpg    桜咲く桜山貯水池.jpg

  ・ やさしい古文書 戸籍法令集

 これは明治時代に出された法令です。現在の戸籍とは異なり、田畑石高、牛馬の頭数などその家の財力を示す項目や、生年月日では無く年齢と指示しているのは、現在のように誕生日をことさらのように祝う風習がなかったのでしょうから、おおまかにいえば正月から12月の一年間を一歳とする数え年が当たり前で、興味深く、考えさせられる項目です。
 江戸時代の宗門改帳から戸籍へとそれは近代的税制、徴兵制度へと大きく変わる近代国家を目指し突き進む新政府の姿を見ることが出来ます。                          森山
引用文献『続・古文書解読入門』笹目蔵之助著新人物往来社


・ 桜山という地名の話  ■姫路市青山■ 
   
 桜山だとか桜峠などの愛らしい地名が青山の北部山中にある。
 日本の国を代表する花といえば何といってもサクラの花。美しく華やぎ咲いてはかなく散る桜は万葉人にも愛され、万葉集に四十首も収められている。
 サクラという地名の多くは地形から付けられたものが多く、サクラは谷を意味するクラに狭の意味を加えた古代語で、狭(サ)はクラの語意を強めるための接頭語である。崩れやすい谷の寄り合う急峻な斜面の侵食された地形に桜地名が多いのはこのためであろう。
当地でも自生の桜が咲くという自然の風景が、地形語のサクラと重なり、桜の文字に置き換えられて、桜山湖畔の賑わいに花を添えている。                      田中 

  

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2007年08月20日

10月探訪会・破磐の社 11月歴史 赤松氏

■網干歴史雑学塾■

破磐の旧地.JPG  梶山城山頂の碑.JPG


・竹の里太市にて詠める歌

   ―竹の里・神さびる破磐を詠む川柳三首―
  
    大磐(おおいわ)に神鎮まりて竹の里

    后(きさき)射る鏑矢(や)は磐破り神と座す

    古のいま蘇える懐かしさ
                  岩佐 萠


・歴史赤松氏史話

赤松家再興の不思議         
室町将軍・足利義教を京の自宅で斬殺した赤松家が、この将軍の息子である足利義政の時代に再興した。家臣が主君を斬殺して一旦滅んで再興した例を私は他に知らない。その理由を考えてみると少なくとも二つのことが考えられる。一つは最後の戦いの前に軍隊の解散式を行い、有力な赤松家臣を温存したことである。二つ目は、義政が父を殺した赤松の残党に、南朝が盗んだ天皇の印である神璽を取り返したら再興を許すと約束したことである。これらの常識では考えられない行動についての私の推定では、これらの行動は武士である男の考えだけではないとの感じを受けた。これから自決する武士の統領が自分の軍隊を解散してから共に死ぬ覚悟のある者だけを率いて城に籠もるなどは考えられないし、他の例もない。妾であった室津の遊女・枯野が当主・赤松満祐に進言して、満祐が解散式を行ったと推定した。更に、満祐と枯野の娘である小松が後花園天皇を動かして、義政に約束させたと推定している。            水井 順一

これらの新解釈で、この赤松の物語を小説に書きたいと思っています。                    (2007年4月)
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2007年07月22日

8月やさしい古文書・触書 9月地名の話・硯橋

■姫路市太市相野■

触書.JPG  相野橋.jpg


やさしい古文書・触書

 加藤高文氏が公用のため、兵庫表へ出張された時の兵庫県と定まる以前の飾磨県から出された「先触れ」が教材です。
 先触れとは、近世に幕府の役人や大名・公家などが旅をする際に事前に通告して、通行予定の街道の宿場に対して人馬の継ぎ立てや、休泊の準備をさせるための内容を記した文書のことです。高文氏は明治6年3月飾磨県少属に任ぜられ県庁に出仕していますので、その頃の先き触れと思われます。明治と年号が変わり先触れの宛先は「陸運会社役人中」へと変わりましたが、内容は江戸時代と少しも変わっていません。   「餘慶の間」と名付けられた加藤家の一室での雑学塾は、また他とは少し違った空間にひたることができます。    肥塚 昭子

地名の話・硯橋

 大津茂川に架かる相野橋の西詰め北の一角に、「硯橋」という地名の場所がある。ここは西脇との境界ばかりでなく、北へ延びる道は因幡へ通じ今も昔も変わらぬ交通の要衝である。辺り一帯は6〜7世紀にさかのぼる西脇廃寺、古代の官道に設けられた邑智駅家(おおちのうまや)跡などに加え古墳群が散在する。
 大津茂川の派流に渡された橋は、片面が硯の形に穿たれた石棺の蓋が転用されたもので、その形から硯橋の名が起こったのであろう。柳田國男は、境界について「内と外、生と死、此岸と彼岸といったイメージの重なる場である」と述べ、橋の空間を、此の世とあの世との霊魂のさまよう場と位置づける。
 また人が頻繁に通行する橋は、邪悪なものを除くために橋のたもとに橋神を祀り、物々交換の市が立ちそれが太市の名の始まりとなったのかも知れない。                 田中 早春


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2007年07月11日

6月歴史・不徹寺にて 7月古典・徒然草

■網干歴史雑学塾■

不徹寺座禅堂.JPG  今日は古典に親しむ日です.JPG


不徹寺
 曇りがちの空を気にしつつ、網干歴史雑学塾の皆さんと不徹寺を訪ねました。30分の座禅を体験した後に、第二の人生に禅の修業を選ばれた竹内住職より捨女さんのお話をお聞きし、充実したひとときを過ごしました。 捨女さんは、盤珪師に魅かれて網干の地に足を踏み入れ、悟りを求めて54歳(1686年)で弟子となり剃髪。その求道心の強さ、またわずか6歳で「雪の朝…」の句を詠み、その後も歌や俳句に秀でた作品を多数残されたこと等、尊敬とともに好奇心を掻き立てられました。
 6人の子どもを授かった喜びと愛し子を亡くすという哀しみの体験に、捨女さんと私の共通点を発見し、何かしらより身近に思えて感慨ひとしおでした。     大脇 和代



古典・徒然草
 梅雨の晴れ間の、のったりとした午後『方丈記』『枕草子』とならぶ日本古典の粋を極める三大随筆の一つ『徒然草』を聴く。
 まずは序段から「つれづれなるままに、日暮らし硯にむかいて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」。
 低い音律ながらそれでもずっしりと体内に染み込む心地よさは、きっとアロマセラピー効果抜群、これが古典の良さなのだろうな。著者吉田兼好は「よしだかねよし」とよむのが正しいらしく、吉田に代表されるあの京都吉田神社の代々神官を勤め、占い師として朝廷に仕えた卜部氏であったとは…。    加藤 三郎
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2007年06月06日

網干歴史雑学塾  2006,4月5月

■姫路市南西部の新田の歴史を探訪■

勘兵衛新田東堤の惨状.jpg  糟谷新田.jpg

■大津区勘兵衛新田■ おおつくかんべえしんでん 
 西汐入川の左岸を南へ下がると、石積みの土手が延々と東へ続くのが目に入ります。
ここは江戸時代末期、広畑区則直の三木勘兵衛が新田開発を進めた所で、開発者の名が付けられています。しかし勘兵衛の開発以前
にも、寛政5年(1793)余子浜村庄屋弥一郎に開墾の命が下りましたが完成にいたらず、文政8年(1825)龍野藩の領地になると、弥一郎に替わり村尾東左衛門に工事を託しますが又しても未完成となり、天保13年(1842)脇坂淡路守が藩主の時代、ふたたび開墾が企てられ三木勘兵衛がそのあとを引き継ぎました。幾多の苦難を乗り越え弘化元年(1844)大手囲堤がやっと完成して潮止めに成功。その記念の碑が建っています。            (田中)


■飾磨区今在家糟谷新田■  かすやしんでん 
 勘兵衛新田探訪を帰路に設定して、夢前川と水尾川が合流するその南地先にある糟谷新田を訪れました。川岸に立つ姫路市教育委員会の説明板によると「姫路藩主酒井忠實のとき、加古川市米田町船頭の糟谷利一が私財を投じて干拓事業を進めました。天保年間(1830〜1843)に完成しましたが台風により幾度か決壊、その度に修復して現在は粕谷新町という町名で、新日鉄の電磁鋼板工場になっています」と記されています。
 糟谷利一の直系、糟谷正勝氏(西宮在住)は龍野市に生まれ、会社役員を経て退職後、糟谷利一の功績調査をてがけられましたが、志半ばにして平成14年亡くなられたとの訃報が奥様より届きました。   
 明治という大変革の時代に翻弄されて、明治3年ごろから家は急速に傾いて来たといいます。姫路市の発展を支える臨海工業地区は、自然の猛威との闘いに果敢に挑んだ、先人たちの血と汗と涙の努力の賜物の上に成り立っているのを忘れてはならないでしょう。(田中)
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2007年05月24日

私たちの町おこし

■この指とーまれ 2006年4月■

出会い  加藤邸内.JPG

 揖保川下流域の河端近く御成門を備えた古民家の主(あるじ)は、江戸時代天領の倉敷を務めるかたわら、廻船物流の総元締めとして近隣の村々を束ね、網干湊を活気あふれる町人の町に育て上げました。筆まめで文化への造詣が深かった主は蔵の中に多くの記録を残し、現在「加藤家文書」として姫路市に寄贈保管されています。
平成16年の秋に網干を永住の地にと帰郷された加藤家の当主は、古文書の中から自宅の普請帳をひもとき、建物の耐久性や保存状態を把握してこれなら大丈夫、豪商の家を開放して寂れたふるさとを活性化するために役立てようとの試みを始められました。
呼びかけに賛同した商店街の「おかみさん会」の後押しで、「こころの祭り」への参加をはたし、第二土曜日に行われる網干サロンは、毎回ユニークな話者と軽食でもてなす客室は夜にもかかわらず盛況をみせます。
そんな中で18年1月、ひょんなご縁で加藤家に引き取られた地元写真家の古い写真の整理を、「古文書を読む会」の若手メンバーが引き受けたのをきっかけに、加藤家を軸にして4月に立ち上げたのが「歴史雑学塾」です。
雑学をメインにする塾は「ふしぎな地名の話」を聞いた翌月、自分の目で新発見を体感するための「訪ねてみよう見学会」を行います。加藤家の座敷でくつろいで聞く「古典を楽しもう」は、日本語の奥深い優美さを心の琴線に届けたいと企画されたものです「身近な歴史を探ろう」に続き「やさしい古文書入門」の指導は、「あなたもきっと読めます」を合言葉に候文に挑戦します。
地域の文化遺産を受け継ぎつつ、地道な在野の研究者が育つことを念じた塾は、心ある支援者の智恵と努力で今テープを切ったばかりです。
posted by 早春 at 11:13| Comment(0) | 網干歴史雑学塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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