小野周文と番匠屋 1
明治期の郷土画家小野周文について昨今ある縁をもって聞き取りの機会に恵まれ、そのうえ幸運にも地元興浜自治会所蔵の古文書中に周文の養子縁組に関する資料に出合い、その次第を書き残すことにした。
周文は名を寛 字は子明、周文はその号で、弘化4年(1847)8月兵庫県揖保郡網干町興濱に生まれる。小野嘉左衛門重政を父として一子に素文(画家)がある。京極佐渡守の家臣であった小野家へ婿入りした父の嘉左衛門は、武士勤めの傍ら画業に専念し唐萃翁と号した。その血を受け継いだ長男の周文は幼いときから画才に長け、昭和10年9月89歳で没し大覚寺に墓がある。
明治9年(1876)姫路藩窯の跡を継ぐ民営の陶器会社永世舎が姫路市内大蔵前町に設けられ、そこで絵筆を握る優れた画工の中心的存在に小野周文の名が見える。しかし間もなく永世舎は解散、自由の身となった周文はさらに腕を磨くため大坂へ出て数々の作品を残している。
89歳という長寿を全うしたにもかかわらず、次に示す資料には「多病で家名相続なりがたく」と、養子縁組を解消されるのは何故だろうか。吉田しやう家は現在揖保川筋に建つ奥本町長の碑あたりにあって、工を職とする女所帯の様子から、もしかすると画才を認められ請われて勤める士族授産施設永世舎に賭ける心意気が離籍への道を選ばせたのかも知れない。 つづく
資料1「明治八年差出ス控諸綴込」改印御届
私儀是迄用来候実印摩滅仕候ニ付
別紙印鑑之通改印仕候、即御届申上候以上
明治九子七月二十九日
第十弐大区四小区興濱村
弐拾四番屋敷居住 吉田周文印
資料2「明治十年諸届伺綴」離縁送籍御届
右之者私方へ家名相続貰受罷在候処、近来多病ニ付、迚も相続難相
成候ニ付、原籍同郡八拾三番屋敷住工小野嘉左衛門方へ復籍為仕度 願済之上今般離縁仕候、尤跡家名之義は私名前ニ仕度旁以此段御届 申上候以上
明治十年三月
第十二大区四小区興濱邨
弐拾四番屋敷居住 工 吉田しやう 印
戸長 片岡徳太郎殿
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