2008年05月06日

高野田 こうやだ

■姫路市御国野町御着■

御着駅前広場.JPG   一里塚.jpg


 JR山陽線御着駅で降りたのは2人だけという駅舎に立つと、なにやら心もとなかったが、青葉の蔭から急き立てるような鳥のさえずりに目的地へ向かう。
 北の四辻を東西によぎる旧山陽道を文化元年(1804)、公用で通りかかった幕府の役人で狂歌師でもあった太田南畝(蜀山人)は「御着といえる宿に着く、宿の中なる土橋を渡りて、天守いよいよ見ゆ、左右に一里塚の松あり、これより縄手道を行くに…」と御着あたりの景観を『革令紀行』に記している。なお紀行文中の土橋は、24年後の文政11年(1828)竜山石製の太鼓橋に架け替えられた。
 高野田の位置はこの山陽道筋(縄手道)を北限に、駅構内を南へまたぎ細長く延びた範囲の内だが、いまどき小字で土地の名を呼ぶ人は数少なく、御着きっての郷土史家、故井上重数さんに高野田のいわれを尋ねたが「高野山関係の田ではないかと言う人もいますがどうでしょうか。近くに花揃という小字もありますが」と、申し訳なさそうに高野山との関わりに否定的な口ぶりが印象的だったのを思い出す。
 町内国分寺の存在から高野山とのつながりを想起させるのは当然のこと、しかし高野田の元の字(じ)は興野田もしくは荒野田が正しく、開拓地名の一つではないかと考えている。
 「興野・荒野」という地名は中世末期から近世末期にかけて開墾された土地を言い、関東圏に多く見られその歴史は古く、計画なしに徐々に切り開かれた「切り添え」と呼ばれる「切添新田」地名と同種の土地に違いないだろう。
 大雨の季節ともなると溢れ出す天川の流れは、東へ西へと絶えず流動して氾濫原野を生み、両岸の肥沃な湿地帯にやがて開発の手が加えられそこを人は高野田と名付けた。古代山陽大道に沿う南の湿地帯が良田に生まれ変わると、間もなく整備されて直線計画道路「縄手道」が出来上がり、旅の目安ともなる一里塚が設けられた。これが近世の主要な山陽街道であろう。
 越し方を振り返れば、都と大宰府を結ぶ大道を駅馬が疾駆した。国分寺の僧侶がおもむろに歩をすすめ、縄手道を参勤交代の行列が「下にー下にー」と御着の本陣を目指す。飛脚が韋駄天走り、一里塚の大樹の木陰で旅人が煙管片手に憩う、地域の歴史を浮かび上がらせる高野田地名である。
posted by 早春 at 21:35| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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