2007年12月06日

門堤 もんどえ

■姫路市飾磨区下野田■

曲線を描く野田川.JPG   隣村の境の旧水路.JPG


 村の西を流れる野田川の名は、上野田と下野田を通過することから野田川の名が生まれ、上流域では姫路城主池田三左衛門が開削した堀にちなみ三左衛門堀と呼ばれる。
東の阿成との地境を流れていた水路は、いまやその形跡を追うのは困難だが、かつて水路に沿った316番地から371番地にかけて「門堤」と呼ばれる小字地名があった。
 村のあまりの変わりように地区の水利組合長松岡明雄さんを訪ね、字限図を見せていただき教えを乞う。松岡さんは野田川と阿成のはざまにある当村は市川の影響で阿成の方が土地が高く、下野田側にどうしても土が流れ込む時代があったという。字限図に残る「門堤」のページには、水色の彩色で南北に描かれた一本の水路が阿成との存在感ある境界を示し、水路に沿った緑色は用水に恵まれたであろう田畑の記号で、隣接する一筋の茶色い太目の紐状の上に「堤5畝24歩」との表示がある。詳細な地番は329番地、これがすなわち門堤の原形で、土の流入を防ぐために置き土をして築いた当時の土手の姿が色鮮やかに残っていた。
 「もんどえ」という語について柳田国男は『地名の研究』の中で「播磨の方言に堤防のことを「ドエ」という。これは土居の転訛に相違ない。なお境などの置き土をドイといい、土居・土井の名の付く地名は全国各地に分布している」と説明する。
 土居だとか土井地名は姫路市内にもいくつか残り、町坪の「土居ノ内」であれば英賀城の支城、町坪弾四郎構居の跡地から土居の文字は好例であろうし、大津区西土井も天正8年(1580)秀吉が英賀城攻めの時「西土居」を陥れたと長曾我部元親に与えた書状に見え、武士の屋敷地を表す土居地名も後年「土井」へと容易に転換されるという事実を考えると、下野田において堤を「どえ」と云う播磨独特の方言が、生き生きと地名に反映されて残った珍しく愛おしい地名である。
posted by 早春 at 22:03| Comment(1) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
押し後残します
Posted by 人妻 at 2008年01月26日 15:55
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