2007年11月13日

馬坂  うまさか

■姫路市大塩■

のじぎくの道.JPG  馬坂峠入り口.JPG


 東の一角を占める標高93メートルの大北山と、中筋山の谷あいの峠の名を土地の人は馬坂林と呼び、晩秋のころに可憐な白い花が咲き乱れることから、花にちなんでのじぎくの里と名が付けられている。
 平安時代の荘園資料にすでに大塩庄と名がみえる大塩は、播磨の名うての塩どころとして名を馳せ、その歴史は古く、山の中腹から山麓一帯にかけて分布する多くの遺跡は、古い時代の海塩と人との関わりの深さを語りかけてくる。       
 峠を北へ越すと高砂市の牛谷へと至り、ここからは北方を横切る高速道路に遮られているものの、いにしえの山陽大道が北方まぢかに視野に飛び込み、奈良時代(8世紀)延喜式に記された「佐突駅家」伝承地にも近い。
 民俗学者宮本常一氏は『塩の道』の中で、「すべての道が海につながり、塩の通る道は先に通ずる重要な道である」と述べている。古代から塩の大生産地であった大塩は山陽大道へ近距離という立地条件で、東へ西へ奥地へと塩の一大供給地であったことは疑いなく、馬や牛の背に海塩を載せて運んだことから馬坂の名が起こったのだろう。
 ではこの峠に伝わる「馬の首」の伝説をご存知だろうか、あらましを紹介すると「峠は古くから大塩の庄の牛谷、小林、北宿、別所に通ずる幹線道路で、天正年中御着城攻略を計った秀吉軍は大塩城を攻めた。このとき戦場に倒れた馬をこの辺りに埋めたのだが、その後夜になると死者の霊の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。ある晩この坂道に嫁入りの行列が差しかかると、星明りの中に馬のいななきとともに白い馬の首が歯を剥き出し花嫁に襲い掛かり、奪い去ってしまった」
 この話について略奪婚の遺風などとの風説もあるようだが、白い馬の背に揺られて夜の峠越えをする白無垢の花嫁姿は、ひょっとすると白い塩が奪われたのではなかろうか、貴重な塩が暴漢に横取りされたとの語り草が、いつしか悲劇の花嫁に置き換えられながらも、塩どころ大塩の歴史をそれとなく伝えている地名と考えられる。
posted by 早春 at 21:20| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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