2007年07月02日

網干場 あみほしば

■姫路市飾磨区細江■

左奥網干し場跡.JPG  湛保ノ碑.JPG


 姫路港旅客船ターミナルの北に四角い形の船溜りがある。ここはかつて飾磨湛保とよばれた湊で、湛保はいまも大小さまざまな船を包み込む。 
 野田川と西の船場川が出合う末流近くでは、吹き寄せられる海砂に加え上流から下る土砂で船の着岸がむつかしくなり、弘化3年(1846)地元の藤田祐右衛門氏が財を基に、有志をつのって築港したのが湛保のはじまりといわれる。ちなみに湛保北東の野田川に沿った細長い地に播但鉄道の起点として明治28年(1895)に開設され、昭和61年廃線となった木造の飾磨港駅がこの辺りにあって、郷愁を誘うレンガ作りの物揚げ場跡は、生野銀山で採集された銀を姫路の港である飾磨港まで運んだ「銀の馬車道」の集荷地点である。
 「網干し場」とよばれる地名の場所は飾磨港駅の西隣に接し、湛保の北西角の1257〜1259番地に地籍が登録されている。網干し場のすぐ南はそのむかし浅瀬が広がる河口に面し、眼前に広がる浜は山部赤人が「風吹けば波か立たむと さもらひに都太(つだ)の細江に浦隠りをり」と詠んだ風待ち湊は、好漁場であったことは言うまでもなく、浜は漁師たちが網を干し、網を繕うための仕事場そのものであったのだろう。想像だが仕事場には網を保管する倉庫が建ち、未明から舟を漕ぎ出す漁師が寝泊りできるごく簡素な部屋も建てられていたのではないか、くわえて船の補修に必要な工具や鍛冶道具を収蔵する倉もあっただろうし、つれて大工職や鍛冶職などの休憩所も備わった浜を仲間は「網干し場」と呼び、やがて地名に定着したと考えられる。時は移り幕末期の湛保への改築工事が進むと、網干し場は間もなく消え失せ、古歌に詠まれた細江の名残は地名のみとなり果てた。
 「網干し場」というなんの変哲も無い漁猟地名であるがゆえに見返る人もないが、港湾都市姫路市へと大きく発展飛躍した原点が、ここ「網干し場」であることを再認識するべきではなかろうか。
posted by 早春 at 20:56| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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