2007年06月06日

網干歴史雑学塾  2006,4月5月

■姫路市南西部の新田の歴史を探訪■

勘兵衛新田東堤の惨状.jpg  糟谷新田.jpg

■大津区勘兵衛新田■ おおつくかんべえしんでん 
 西汐入川の左岸を南へ下がると、石積みの土手が延々と東へ続くのが目に入ります。
ここは江戸時代末期、広畑区則直の三木勘兵衛が新田開発を進めた所で、開発者の名が付けられています。しかし勘兵衛の開発以前
にも、寛政5年(1793)余子浜村庄屋弥一郎に開墾の命が下りましたが完成にいたらず、文政8年(1825)龍野藩の領地になると、弥一郎に替わり村尾東左衛門に工事を託しますが又しても未完成となり、天保13年(1842)脇坂淡路守が藩主の時代、ふたたび開墾が企てられ三木勘兵衛がそのあとを引き継ぎました。幾多の苦難を乗り越え弘化元年(1844)大手囲堤がやっと完成して潮止めに成功。その記念の碑が建っています。            (田中)


■飾磨区今在家糟谷新田■  かすやしんでん 
 勘兵衛新田探訪を帰路に設定して、夢前川と水尾川が合流するその南地先にある糟谷新田を訪れました。川岸に立つ姫路市教育委員会の説明板によると「姫路藩主酒井忠實のとき、加古川市米田町船頭の糟谷利一が私財を投じて干拓事業を進めました。天保年間(1830〜1843)に完成しましたが台風により幾度か決壊、その度に修復して現在は粕谷新町という町名で、新日鉄の電磁鋼板工場になっています」と記されています。
 糟谷利一の直系、糟谷正勝氏(西宮在住)は龍野市に生まれ、会社役員を経て退職後、糟谷利一の功績調査をてがけられましたが、志半ばにして平成14年亡くなられたとの訃報が奥様より届きました。   
 明治という大変革の時代に翻弄されて、明治3年ごろから家は急速に傾いて来たといいます。姫路市の発展を支える臨海工業地区は、自然の猛威との闘いに果敢に挑んだ、先人たちの血と汗と涙の努力の賜物の上に成り立っているのを忘れてはならないでしょう。(田中)
posted by 早春 at 13:47| Comment(0) | 網干歴史雑学塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。