2007年05月29日

京田 きょうでん

■姫路市四郷町上鈴■

元取山前の霊園.JPG  行者堂前の由緒ありげな石塔.JPG


 元取山中腹から東へ目を向けるとひょろ長い煙突が一本、ノスタルジックな煉瓦作りの煙突が一本、大小取り混ぜた形の煙突が集落の外郭を廻らすように立っている。
元禄郷帳に「古は御着村」とある村の中の目抜き通りが南北に延び、さして道幅は広くない四辻の小路奥の行者堂前には、由緒ありげな古い石塔が一列にならび、真新しい涎掛けから地域の人たちの手厚い信仰がジンと胸に伝わってくる。
京田という地名の場所は行者堂に近く、元取山霊園南麓の大歳神社を境にして東方へ延びる一帯となるのだろうか。京田という地名の解釈について柳田國男は「京都の資本が入って開墾した地名ではないか」と京の字にこだわった説を述べているが、日本地名研究所の谷川健一さんは「修験で知られる羽黒山の(経田)であった可能性が強く、羽黒はむかしは経田といわれる田をたくさん持っていたようだ」と自論を披露する。京都の資本による京田なのか、羽黒修験の経田なのか、手がかりとなる歴史情報は地区の小字地名しかないだろう。すると意外にも、ゆりょう(井領)ツクダ(佃)など中世に起源を持つ地名に加え、京田の東はすかいに「才藤坊」という宿坊らしき名の小字があるのに気が付いた。
宿坊での朝夕、読経に必要な経費を捻出するための田を経田と呼び、ときには本山の名僧を招き祈祷行事の出費の賄いにも充てられることもあり、あるときは宿坊の先達が率先して本山へ修行に出かける費用も捻出されたかも知れない。これらの元締めが才藤坊を名乗る宿坊であった可能性は大きいと考えるのだが、どうであろうか。ただし経田地名が即(そく)羽黒修験と結びつくか否かの断定はむつかしく詳細は不明である。
現在集落内では才藤坊の由来はおろか、その存在さえ知らない世代が増え、語り継ぎもないままに、歴史は深い襞の奥にたたみ込まれつつある。


posted by 早春 at 10:39| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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