2007年02月12日

糠岡 ぬかおか 2

■姫路市船津町八幡■

糠岡二つ  八幡遺跡の碑


 城牟礼山から東へわずか三キロメートルたらず、風土記にいう八千種の野に赤松氏の家臣が築いたと伝わる飯盛山の城跡が望める、ここも古代には多駝里の一角であった。
城牟礼の(キ)といえば品太天皇の御代に百済の人がここに城を造ったことにより、城の字が当てられているが城(キ)はもしかすると「基」ではなかろうか、苗字研究の大家丹羽基二さんの推理によると基は墓につながる字源をもつ漢字であると興味深い説を披露、だとすれば城牟礼は霊魂の静まる山なのか、八幡遺跡からは弥生時代中・後期の竪穴式住居跡や周溝墓が出土、首長墓のそば近くで、永久の眠りについた人びとの離れがたき心が伝わってくる。茶褐色の赤みを帯びた独特な土質を糠に見立てた「風土記」の語りかけを、金属精錬の伝承用語である「ヌカ」と認識すれば、日本地名研究所所長谷川健一さんの「糠という地名のつく場所はおうおうにして砂鉄と関係の深い土地である」との説に共感を覚えずにいられない。糠の伝承は『播磨国風土記』にもう一カ所、この「糠岡」は賀毛郡楢原里いまは加西市網引町と小野市西脇町の境にある標高150メートルの糠塚山が比定地だといわれている。むかし大汝命が稲を下鴨村に舂(つ)かせになったとき糠が散ってこの岡に飛び散った。それで糠岡と名付けた、とある。加古川史学会の岡田功さんは、独立した美しい形をした山はかって「神まつり」が行われていたという伝説があり、古くは聖なる山ではなかったか、なかでも群集墳の一つ「糠塚古墳」14基が確認されている。天日鉾命の軍兵八千人が闘ったから八千種と名が付いたというその戦いは、石の剣にとって代わって鉄製の戦闘器使用が勝敗を分けたのではなかろうか、飯盛山の西麓にある鍛冶屋という集落の存在は、あまりにもドラマチックで多駝里へ熱い視線をそそがずにはおられない。   
posted by 早春 at 21:51| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。