2007年02月02日

糠塚 ぬかつか 1

■姫路市船津町八幡■

溝口駅前太子畑踏み切り  中津橋右手に正八幡神社の森

 姫路発の播但線溝口駅を降りると北に「太子畑」踏切を東西にまたいで駅前通りが一本通じ、これがいわゆる目抜き通りなのだろうか。そこで下り列車を見送り東へ向かう。
 昨夜来の雨で増水した市川の瀬音は高いが、澄んだ流れの「中津橋」東詰めがかつての姫路市との境界だったが、現在は姫路市北端の町として同じ行政区内である。
『播磨国風土記』神崎郡の条の語りは、市川両岸一帯に色濃く拡散して古代につながる生命が育まれ輝いているようだ。条の一つの伝承地「粳岡」は明治初期の字限図に「上糠塚」「下糠塚」と記され、姫路市の最北端沖積平野の広がる船津町八幡地区にあって、1988年に縄文土器出土の報告があった福崎町南田原長目遺跡は北西に400メートルという至近距離にある。長目遺跡から望む糠岡の景観は鬱蒼とした竹林に沿った環濠の名残をとどめ、騒々しい世間にじっと耐えつついまだいにしえの姿を失っていない。
 またの名を城牟礼山ともいう糠塚の比高は約3、5メートル、山というよりは丘むしろ塚というべき姿が似つかわしいようだ、この小丘が伊和大神と天日鉾が戦ったとき、伊和大神の軍が稲を舂いて出た糠が丘のように積もり、それを墓と言い別名を城牟礼山ともいったというのである。
 牟礼の意味について『地名の語源』の中で鏡味氏は「朝鮮語MURO MORIの山などから九州に多い山名で集落名ともなる、牟礼の字のほかに群、六連、無礼などの表記が見られ『日本書紀』で朝鮮の山をムレと呼ぶ」と、述べているのでやはり牟礼は山と認識するのが良いらしい。それとも新羅国の王子と伝えられる天日鉾命ひきいる集団の地だったのか、はたまた神の籠もる「杜」を指すのだろうか。
 それにしても朝鮮の山名をムレと呼ぶならば、牟礼山は「山々」と重なる語となり、これは山への強い思い入れとこだわりがあったからに違いないだろう。

 
posted by 早春 at 11:36| Comment(1) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by 電波時計 at 2013年07月26日 16:55
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