2009年10月14日

興浜本町橋物語 3

■姫路市網干区興浜■

大覚寺境内の山本宗右衛門墓.JPG  南についた歩道橋.JPG 
 
 架橋設立ニ付入費見積書
    一金五百円也
    内訳
    金二十円    土方人足百人賃
    金三十円    割石代
    金二十円    石工五十人賃
    金六十三円   橋杭廿一本代
    金八十二円   橋桁二十四本代
    金六十八円   橋板三十六間半
           厚三寸巾七寸以上
    金五円五十銭  木七本代
    金四円     ヌキ木十四本代
    金二十円    テスリ六十五間木代
    金三十円    釘代
    金九十七円五十銭大工三百廿五人賃
    金六十円    手伝人足三百人賃
  〆如高
  右之通御座候以上
        播磨国揖東郡興浜村
          福井治助  印
  寺田直次郎 印
  明治十二年     山本宗右衛門印
      十二月廿四日

 当時の金額で五百円という金額を「もし不足金が出来るような事があ れば、私共三名が間違いなく償うので是非御許可下さい」との住民懇 願が届いたのであろうか、これに対する許可証はいまのところ見当た らないが、翌13年1月7日「架橋手伝人足控」が残り、冬季の水嵩 の少ない時期を逃さず取り掛かったことが知れる。
 なお3人のうち寺田直次郎は大小区制時代興浜の戸長を務め、山本宗 右衛門(明治27年歿行年52歳、墓は大覚寺にある)は子息の真蔵 氏が網干燐寸合資会社および莫大小(メリヤス)製造工場に関り網干村 に新風を吹き込んだ。福井治助もおそらく名望家に違いないだろう。 またこの本町橋は網干地内では二番目の架橋で、一番早く架けられ  たのは余子浜村と新在家村をつなぐ町の大動脈「網干橋」で、弘化3(1846)年普請の土橋であった。
posted by 早春 at 11:51| Comment(0) | 地域史話最前線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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