2009年10月04日

興浜本町橋物語 2

ある晴れた日の本町橋.JPG 架橋添付図.jpg

 揖保川を越えるにはかつて渡し船を利用するか、水の少ない時期を見計らっての徒歩(かち)渡りという方法しかなく、上(かみ)手の下余部辺りにあった近世室津道の延長となる「八十渡し」は「定渡し」で渡し賃が必要であった。なお興浜に丸亀藩の陣屋が置かれていたため、参勤交代で江戸へ向かう藩主は自領であった御津町の岩見から上陸すると、揖保川を御座船で東へ渡り八十堤を通り興浜陣屋まで22丁39間を南下した記述が『西讃府志』に残されている。そのとき供のものは袴の裾をからげて徒歩で渡ったことだろう。その北方の揖保川町には参勤交代時の西国街道を東西につなぐ「正条の渡し」場に椋の大木が今も名残をとどめている。渡し船に賃銭は付きものであるにもかかわらず資料は少なく、つぎの資料に明治8年「沖手新開築垣一件」に市場(加古川)の近藤文蔵の代理人が興浜を訪れたときの渡船賃は拾八文であったと記す。
 明治12年暮れも押し詰まった12月24日地元民による無賃架橋設立願が出願され、これに見積り書ならびに別紙絵図面を添えて兵庫県令森岡昌純へ提出されている。

 無賃架橋設立之義願 (山本家文書)
 当村二等揖保川筋従来渡之船ニテ
 往来之諸人相当賃銭ヲ出し通行
 渡来候処、今般私共三名発起ニテ
 無賃架橋設立致度奉存尤も          
 談費ノ義は有志ノ寄附ヲ募り
 若不足金出来候ハゞ私共三名より
 相償可申候間御許可被成下度、依之別紙
 絵図面并ニ入費積り書相添此段
 奉願上候以上
       播磨国揖東郡興浜村
          寺田直次郎 印
          山本宗右衛門印
 明治十二年    福井治助  印
 十二月廿四日
 兵庫県令 森岡昌純殿
posted by 早春 at 23:14| Comment(0) | 地域史話最前線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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