2009年02月03日

御薬園  ごやくえん

■姫路市仁豊野■

病院裏の市川河畔.JPG   病院横の難民キャンプ場跡で遊ぶ子ら.JPG


 奔放に流れる市川の中流域の両岸に、たっぷりと養分を含んだ付け州が生まれると鳥がさえずり、やがて実り豊な畑地へと変身を遂げる。 
 元禄時代、右岸に堤防が築かれて洪水の被害がやや減少の気配を見せはじめたころ起立したという河原近くに、通称「茶畑」と呼ばれる土地があり、この南には「桑畑」という土地もあったが、じつはこの桑畑と隣接する小字(こあざ)「肥後藪」跡にまたがり現在聖マリア病院が建っている。ちなみに肥後藪とは庇護藪の当て字で、洪水災害を未然に防ぐために藩主の庇護のもとに、竹など根のはびこりが早い植物が植えられた竹藪である。
 明治初期に茶畑の地を含む一帯が御薬園に組み入れられ、茶畑の名は消滅したが、もともと鎌倉時代に臨済宗の祖である栄西禅師が中国から持ち帰ったのが始まりとされる茶は、貴重品で薬として扱われ、御薬園で栽培される薬草の一つであった。広峯山の東麓にあたる仁豊野の西山裾にも古い茶畑があったとの伝承から、仁豊野の茶作りは意外と古い歴史を秘めているようだ。山上の広峯神社それに随願寺の日々の務めのなかで、お茶の需要は高く貴重であったはずである。発想を飛躍させれば寺社秘伝の薬草茶の栽培が行われていた茶畑だったかもしれない。
 御薬園の研究史によれば、江戸時代になって薬草に対する認識が深まり、幕府が設けた薬用植物園は「薬園」「御薬園」と呼ばれ、これらの御薬園でとりわけ力を入れて栽培されたものが朝鮮人参だったようである。八代将軍吉宗の政策による諸国産物の調査は各藩に薬園の設置をうながし、商人・本草学者などによる薬園の開設が進み、江戸後期にはほぼ日本全土に広がったとのことである。
 姫路藩でも江戸末期の万延元(一八六〇)年姫路藩士岡庭小兵衛が、船津町の西光寺野で朝鮮人参を栽培した実績もあるが、御薬園での朝鮮人参の試作情報がないのは、やはり土質が合わなかったからだとしか思えない。
posted by 早春 at 14:41| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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