2008年11月08日

大道ノ下  だいどうのした

■姫路市市ノ郷■

稲荷社と銀杏の木.JPG    昔ながらの店構え.JPG

  
 川のそばに市が立ち『枕の草紙』に「しかまの市」と詠まれたのは平安時代中期のこと、その縁(えにし)によって市川の名が起こり、架かる橋を市の橋といい、上流の神崎郡には市川町が生れた。
 しかまの市の遺称地はもう少し北のほうにあって、市内城東町字市場がその遺称地だといい、その北方には市内の最古道が広峯山下を書写山麓へかけて伸び、書写東坂本には「東横大道」の古い地名が残っている。
 市之郷の大道とは近世に起こった山陽道を指し西国街道とも呼ばれ、明治八(一八七五)年に木橋が架けられるまで対岸の一本松との間に渡し舟が通じ、この道を藩主が江戸へ上られるとき大庄屋・庄屋格ほか苗字帯刀のものが御着宿まで御見送り、または御出迎えに出るのが決まりであった。また明治二年三月五日の洪水で市川附定渡船壱艘が流失、舟中にあった櫓壱挺、宿駕籠壱挺も流れたと沿岸の村々へ御船役所からの通達が「姫路藩室津会所文書」にみられる。
 姫路城下への着岸地は市川橋西詰交差点の北あたりで、旧道の一画に昔ながらの木目(もくめ)にガラス戸で客を迎える「かね久(ひさ)」の屋号をもつ藤本建具店がある。敷地内には南向きの白崎稲荷社、脇の大銀杏(いちょう)が街道の安全を見守り、うだつのある民家も残るそんな歴史を踏襲する道も、昭和一一年土地区画整理により大変革、その様子を一三の古い字名(あざめい)からしばし懐古してみよう。
 まず中河原、昭和四年に丸尾町に改称された丸尾、宮上は(みやげ)と読み、旧山陽道に面する丁田、大善畑は現在楠町となり隣接して大善田もあった。宮西、西野々(にしのの)、JR西踏み切り辺りは辻ケ内、高田は現在の若菜町にあたる。なが―い土手は長堤(ながどえ)とよばれ今は日出町、大道ノ下は山陽道の南下にあって丁田と隣接まっすぐ西へ向かう、大縄場は現在東郷町大縄場として復活。丹念に描かれた大縄場を囲む石垣は字限図に波(は)戸(と)と記され、河原だとか久太夫河原の名は今水底(みなそこ)に埋もれている。


 

 
posted by 早春 at 11:41| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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