2008年10月24日

あへ  あえ

■姫路市網干区宮内■

先導する猿田彦神.JPG    沼高田遺跡の碑.jpg


 福井の庄28カ村の系譜を引き継ぐ氏子の祭礼網干津の宮秋祭りの日、赤い顔に大きな目、前に突き出た高い鼻、猿田彦神の先導で神輿渡御の主役を受け持つのはむかしも今も敷村宮内である。 
網干は古い歴史を持つ海辺の町で、地名のいわれを津の宮の神事の一つ放生会に漁師が網を干して参詣したからと、はからずも神仏混淆の名残を地名の起りとする。
 放生会よりもさらに古い起原をもつ神事に「饗(あえ)のこと」という祭祀がある。「饗」とは神に食事を捧げおもてなしをする事で「こと」は神事を意味し、慶長9年(1604)の宮内村検地帳の中に消滅したが注目度の高い「あへ」がみえる。あえの位置は地元を熟知する住民サイドから古い検地帳を基におよその位置が確定できて、この周辺の字名から「沼・高田」遺跡の碑が建つ。付近の朝日中学校建設工事期に石器や縄文土器や弥生遺跡が出土しており、最近の報告例から和久の旨戸遺跡(弥生時代)も至近距離だ。なお『播磨国風土記』の訳者は朝日山の南方から西方にわたる宮内を南限とする一帯を大家里と比定、元は大宮里と名乗っていたと記し、この大宮の位置こそが「あへ」場であって、現在の津の宮の原初の姿ではないかと考えられる。     
 幾星霜を経て海が南へ後退して陸地化が進むと広大な平野が誕生、大宮は品(ほん)太(だ)天皇の意思を受けて、海に、より近い場へと移転した。これが現在の魚吹八幡宮であろう。跡地は大和王権の進出により大家里(おおやけのさと)と改名したと考えられる。大家(おおやけ)とは屯倉を指すもので、饗庭(あえば)に近い勝原区丁の家(や)久田(くだ)は三宅(みやけ)田(だ)の可能性を秘め小字地名として健在で、付近にこれまた国指定史跡瓢塚古墳があるのも見逃せない。
 湿地を意味するヌマの語が示すように大津茂川のほとりで稲を栽培して、田の神を客(まろ)神(うど)と呼び最高の饗応をする「あえ」の神事は、米作りに命と慈しみの思いをかけてやまない日本人の豊穣の神々へのもてなしの行いが祖先のまつりであった。
posted by 早春 at 13:21| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。