2008年09月20日

貴船山(祝田神社) きぶねやま(はふりだじんじゃ)

■姫路市林田町上構■

荷台の彼岸花と祝田神社1.JPG   貴船神社奥の古めかしい祝田社.JPG


 緑したたる木漏れ日に映える赤い鳥居、稲穂の緑に競うように咲く彼岸花は、森閑と静まりかえった祝田(はふりだ)神社の秘め事とうらはらに、華やぎを添えている。ここ林田は安志庄。賀茂別雷神社の荘園であったのは文治2年(1186)と『兵庫県神社誌』は記し、ある説は寛治7年(1093)とややずれがあるのは何故なのだろうか。
 麓に貴船神社を祀ることから「貴船山」の小字地名で残り、赤い鳥居の口殿に貴船社、奥殿に延喜式7座の一つにあげられる祝田神社が鎮座する。905年に編纂が開始された延喜式に記載のある何やら古めかしい祝田の名のわけを探ってみよう。
 祝田神社の元の名は祝田宮(ほうだのみや)といい、むかし土地の人は「ホウダが森」と云っていたらしくやはり奥深い森に起源があった。いつの世も老若男女を問わず必ず死がおとずれるという定めをわきまえた人々が、身近な山と向き合う中で火葬普及以前に行われていた古い葬送のしきたりの野辺送りだとか山送りという原始葬送がハフリであった。ハフリという語は埋葬せずに人里離れた山や谷間に無造作に死骸を放り投げ捨てるしきたりで、これをホフリ(放り)と云い、葬むるの言葉につながったといわれる。
 柳田國男は『明治大正史・霊魂と土』の中で「亡き骸はやがて朽ちゆくものとして、遠く人なき浜や谷の奥に隠してこれを自然の懐に返していたのである」と述べる。残された人びとは、山へ捨て置かれた死せる者との惜別と再来を信じて言祝(ことほ)ぎ、祝の字を用いて離別の悲しみを和らげたともいう。 
 幾世代を経ると神聖化された山に小祠が設けられ、神前で額(ぬか)ずく人たちが祭神を勧請すると徐々に拡大して神社の発生につながり、司祭主は祝部(はふりべ)を名乗るようになる。
 『播磨国風土記』美嚢郡高野里の条の「祝田社」は(ほうだ)といい、現在三木市の這田(ほうだ)の地名の起こりとなり、京都相良郡精華町祝園(ほうその)ももとは羽振苑(はふりその)といったということだ。
posted by 早春 at 11:15| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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