2008年08月18日

縁土塚 えんどづか

■姫路市広畑区広畑■

唯一残る貴重な農地.JPG  昔を語る人.JPG 

 山陽電鉄の線路を南北にまたぐ中門通りは、新日本製鉄工場の中門を起点にしていることから街路名が起こり、踏み切りの名も中門通りと付けられている。
 踏み切り南東の角地で果樹園と野菜畑を守り続ける老人は、広畑で生まれ育ち81歳だといい「この場所は、むかしえんどづかといってな−、海との境が曖昧な所で腰までつかるじゅる田ばっかりやった。さて字(じ)はどんな字を書いたか知らんけど、いまは東新町2丁目や−」と目をしばたたかせた。
 ぬかるんだ土地の代名詞じゅる田が大きく変容するのは昭和12年、広畑が製鉄所建設用地に決定されて以来のことで、20年代になるとじゅる田といわれた湿地は企業用地に、その社宅用地にと埋め立てが進み、残った空閑地は泥田ゆえに蓮池と古い地図に名をとどめる。   
 水利関係の古地図に、円豆塚とも記される縁土塚のいわれは、仏教とともに大陸から伝わり江戸時代日本人の死因の第一位を占めたと伝わる天然痘に関わる地名ではなかろうか。薬事日報『おくすり博物館』によると「疱瘡(ほうそう)ともよばれた天然痘には別名も多く、奈良時代には豌豆(わんず)瘡(かさ)・裳(も)瘡(かさ)と呼ばれ、鎌倉時代には赤斑(あかも)瘡(かさ)など時代を越えてよびかたは種々使われてきた」とある。天然痘流行のすさまじさを「神戸又新日報」明治19年1月24日版にみると、県下一年間の患者数5743名、一ヵ月後の2月24日県下だけでも216名の発症が報告され、姫路に近い広畑でも猛威をふるい、村から程遠い浜風にゆすぶられる海辺の一角に、疱瘡の災禍で命を落とした人の塚が設けられたと推測できる。
 種痘施行がゆきわたり天然痘の恐怖が去って記憶も薄れたころ、天然痘の古い呼び名「豌豆(わんず)瘡(かさ)」の豌豆の文字はそのまま「えんど」と読まれ小字(こあざ)で残ったが、塚はいつしか平地に均(なら)されて消滅した。
posted by 早春 at 17:15| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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