2008年06月12日

日和山 ひよりやま 1

■たつの市御津町室津■

日和山・船でにぎわう室湊.jpg   湾を見下ろす警鐘台.JPG


 『播磨国風土記』に風を防ぐこと室のごとし故に名となす、と地名の由来を記されている室津は、向背に迫りくる山影をすり鉢のような湾面に映し、狭小な集落は当時とそう変わってはいない。古い時代から貴人たちの往来で賑わったのも、物流にともなう商人の寄港地として機能し得たのも、自然がもたらした地形の恩恵というべきであろうか。
 海には二つの岬がせり出し、一つの岬は賀茂神社が祀られる明神山、もう一つは藻振りの鼻と呼ばれる岬、鼻は端の替え字であろう。この岬には藻振りにちなみ「玉藻かる からかの嶋にあさりする ふねしもあれや家おもはざらん」の万葉の歌碑が建っている。二つの岬をつなぐような位置にある「日和山」は、標高44メートルの山頂にあった燈篭堂跡とともに山の好立地を示し、原存する室津の小字(こあざ)地名である。
 室津には室津千軒と囃(はや)された繁栄の時代があった。この繁栄をもたらしたのは、近世に始まった参勤交代の制度であり、日本海の湊を経由しながら蝦夷まで運航した北前船(ただしくはベザイ船)の主要な寄港地であったからだといえるだろう。この湊を飛び地として管轄する姫路藩では御茶屋を設立、参府のため江戸へ向かう朝鮮通信使をはじめ、オランダ・琉球など各国の上級使者たちの宿舎、および饗応接待の場所に充てた。
 しかしこれらによる支出の増大は藩の財政をきびしく悪化させたようである。
 そこで考え出されたのが綿の栽培で、良質の姫路木綿はその後全国に販路を広げ、窮迫した藩の経済を立て直すまでに成長した。このころ蝦夷のニシンは干鰯という魚肥に仕立てられ北前船で全国に運ばれた。農産物の飛躍的な収穫量の増大が見込まれた干鰯は、近郊の農村で急激に需要が伸び、各地の湊は活況を呈し全盛の時代を迎えることになるのである。魚肥を扱う廻船問屋は本陣を凌ぐほどの蔵を持ち、滞留した荷物が捌けるときまで蔵敷とよばれる保管料を取る業務をおこない、自前の船には古着や特産の塩などを積んで北国へと商いを続けるのであった。
             
posted by 早春 at 14:17| Comment(0) | 地名アラカルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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