2009年10月23日

興浜本町橋物語 4

■姫路市網干区興浜■

東正面から.JPG  対岸から見た庚申の森.JPG


 明治十三年 架橋手伝人足辰一月七日より(水田家文書・原文一段)
藤田真海    四海宇兵衛   津田伊助     白谷小兵衛 
山本宗兵衛   塩野一平    津田宗右衛門   松島弥三五郎
津田宗次郎   今栄徳三郎   森崎弥助    安部新兵衛 
水田傳蔵    三木房吉    塩津仁兵衛    和田弥七郎
塩野清次郎   中山宗八    田村種八     三木孫四郎
中野秀次郎   中尾孟虎    高嶋伊右衛門   斉藤硯元
原村正重    大西庄三郎   紀野元吉     田村松四郎
酒井嘉十郎   清水四郎兵衛  木村義兵衛    加納庄五郎
竹田勇助    山崎甚兵衛   伊勢茂助     鹿児島徳松
田村吉兵衛   長沢利左衛門  平田千代蔵    肝田伊作
濱野傳兵衛   吉田百太郎   安井重右衛門   松島伊助
和田多三郎   稲田弥助    同 菊松     長沢熊吉
三木太右衛門  大江喜兵衛   苦瓜仁右衛門   今栄重次郎
香川源七    石井庄次郎   長沢六次郎    不二宗七
上村嘉右衛門  同 和兵衛   伊瀬栄五郎    和田善四郎
石井作兵衛   松本亀吉    山本太兵衛    上村伊助
三木清五郎
うミ町 三木清右衛門 
 
中野町   水田傳蔵  
周旋方   安部新兵衛
           原村正重
           田村吉兵衛

 万治元年(1658)以来丸亀藩の一万石飛び地支配を受けた村々は、揖保川を立て軸として川東組と川西組に分れこれを統治する興浜陣屋との情報伝達に欠かせないにもかかわらず重要な場所に橋が無かったのは、架橋の技術はともあれ幕藩時代隣村との境となる川にむやみに橋を架けるのは軍事上ご法度であったことが最大の理由であった。明治という新しい時代をむかえ、他行を許された庶民の願いは自由気侭に対岸に渡りたいという地域の期待度は高かったに違いなく、陣屋をふくむ一帯が「字(あざ)本町」の名称であったため橋の名前はすんなりと「本町橋」に決定したと思える。
 北の浜国道(250号線)に昭和35(1960)年3月網干大橋ができるまでの本町橋は、御津町に通じる唯一の橋で、室津行きのバスも車体を揺らしながらこの橋を渡っていた。
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2009年10月14日

興浜本町橋物語 3

■姫路市網干区興浜■

大覚寺境内の山本宗右衛門墓.JPG  南についた歩道橋.JPG 
 
 架橋設立ニ付入費見積書
    一金五百円也
    内訳
    金二十円    土方人足百人賃
    金三十円    割石代
    金二十円    石工五十人賃
    金六十三円   橋杭廿一本代
    金八十二円   橋桁二十四本代
    金六十八円   橋板三十六間半
           厚三寸巾七寸以上
    金五円五十銭  木七本代
    金四円     ヌキ木十四本代
    金二十円    テスリ六十五間木代
    金三十円    釘代
    金九十七円五十銭大工三百廿五人賃
    金六十円    手伝人足三百人賃
  〆如高
  右之通御座候以上
        播磨国揖東郡興浜村
          福井治助  印
  寺田直次郎 印
  明治十二年     山本宗右衛門印
      十二月廿四日

 当時の金額で五百円という金額を「もし不足金が出来るような事があ れば、私共三名が間違いなく償うので是非御許可下さい」との住民懇 願が届いたのであろうか、これに対する許可証はいまのところ見当た らないが、翌13年1月7日「架橋手伝人足控」が残り、冬季の水嵩 の少ない時期を逃さず取り掛かったことが知れる。
 なお3人のうち寺田直次郎は大小区制時代興浜の戸長を務め、山本宗 右衛門(明治27年歿行年52歳、墓は大覚寺にある)は子息の真蔵 氏が網干燐寸合資会社および莫大小(メリヤス)製造工場に関り網干村 に新風を吹き込んだ。福井治助もおそらく名望家に違いないだろう。 またこの本町橋は網干地内では二番目の架橋で、一番早く架けられ  たのは余子浜村と新在家村をつなぐ町の大動脈「網干橋」で、弘化3(1846)年普請の土橋であった。
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2009年10月04日

興浜本町橋物語 2

ある晴れた日の本町橋.JPG 架橋添付図.jpg

 揖保川を越えるにはかつて渡し船を利用するか、水の少ない時期を見計らっての徒歩(かち)渡りという方法しかなく、上(かみ)手の下余部辺りにあった近世室津道の延長となる「八十渡し」は「定渡し」で渡し賃が必要であった。なお興浜に丸亀藩の陣屋が置かれていたため、参勤交代で江戸へ向かう藩主は自領であった御津町の岩見から上陸すると、揖保川を御座船で東へ渡り八十堤を通り興浜陣屋まで22丁39間を南下した記述が『西讃府志』に残されている。そのとき供のものは袴の裾をからげて徒歩で渡ったことだろう。その北方の揖保川町には参勤交代時の西国街道を東西につなぐ「正条の渡し」場に椋の大木が今も名残をとどめている。渡し船に賃銭は付きものであるにもかかわらず資料は少なく、つぎの資料に明治8年「沖手新開築垣一件」に市場(加古川)の近藤文蔵の代理人が興浜を訪れたときの渡船賃は拾八文であったと記す。
 明治12年暮れも押し詰まった12月24日地元民による無賃架橋設立願が出願され、これに見積り書ならびに別紙絵図面を添えて兵庫県令森岡昌純へ提出されている。

 無賃架橋設立之義願 (山本家文書)
 当村二等揖保川筋従来渡之船ニテ
 往来之諸人相当賃銭ヲ出し通行
 渡来候処、今般私共三名発起ニテ
 無賃架橋設立致度奉存尤も          
 談費ノ義は有志ノ寄附ヲ募り
 若不足金出来候ハゞ私共三名より
 相償可申候間御許可被成下度、依之別紙
 絵図面并ニ入費積り書相添此段
 奉願上候以上
       播磨国揖東郡興浜村
          寺田直次郎 印
          山本宗右衛門印
 明治十二年    福井治助  印
 十二月廿四日
 兵庫県令 森岡昌純殿
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2009年10月01日

興浜本町橋物語 1

■姫路市網干区興浜■
現在の本町橋.JPG  庚申堂の三猿.JPG 

 桜花に酔いしれた四月が終ろうとしていた日曜日、「網干区浜田を訪ねて」と銘打った公民館主催ウオークの集いが本町橋を基点に催された。浜田といえば古刹龍門寺や不徹寺が名所であるが、地元案内人ならではの視点からレトロな記憶につながる大企業躍進時の遺物である廃線跡、それに旧三昧跡などにくわえて古刹もさりげなく取り入れつつ巡り、これが今回の「本町橋の語り」へとつながった
 いにしえより悠久の流れを保つ一級河川揖保川は、『播磨国風土記』に「宇頭川(うずがわ)」と記された川で、自然の采配によって時には流れを大きく変えつつ多くの支流を生みだし、末流のデルタ上に興浜村が起こった。過酷な洪水の災禍は毎年のように沿岸の村々を襲い、そのたびに流れは移動して対岸に観音嶋なる小字地名を伝えつつ、ここに架かる橋の名を「本町橋」という。
 本町橋が架橋されたのは明治13(1880)年3月のこと、現在の橋は銘板に「昭和32(1957)年3月架橋」との文字が刻まれているので、かれこれ50年余りを経過していることになり、これまで幾度かの架け替えの歴史を秘めている。以前の橋は少し南にあって東詰めからの道筋は南に庚申堂(澤山家)があり、信浄庵(地蔵堂)を経て網干の名刹大覚寺の北門へ至る道につながっていた。すなわち現在の本町通りの南一筋目がいにしえの主街道であったことの証しであろう。
 
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