2009年09月23日

坪田醤油を支えた人びと 4

■揖保郡太子町糸井■

糸井の武大神社.JPG  金拾圓岩見銀行支店の碑.JPG


 明治30(1897)年に創設された岩見銀行は、地域の銀行として着実に成果をあげ支店網を広げて行く。旧国鉄の輸送網を視野に取り込み山陽線龍野駅前に龍野支店を置き、同じ山陽線網干駅前に網干駅支店を設置した。なお町の繁栄を持続し続けていた網干区内に網干支店を設け、揖西支店は揖保郡揖西村に、飾磨支店を姫路市飾磨区に設置したほか、室津出張所 東部出張所を御津村釜屋に開き漁業者の多い妻鹿に出張所を建て、それぞれの漁業従事者への便宜をはかっている。
 網干駅支店が置かれた山陽線網干駅前の北部の日吉山(通称荒神山)は、糸井村と網干区和久村の境界をなす山で、現在太子町糸井を名乗る糸井地区は網干魚吹神社の氏子である。ここに鎮まる武大神社の玉垣に大正15年岩見銀行隆盛の証しとして奉納された碑が残っている。
 昭和2(1927)年金融恐慌におそわれ地方銀行の経営が行き詰まるのだが、久太郎が社長をつとめる岩見銀行は堅実な経営で無事乗り切り、大正2(1913)年浅五郎が取締りに就任、久太郎が監査役におさまり、大正15年の玉垣奉納にいたったのだろう。
posted by 早春 at 11:46| Comment(3) | 地域史話最前線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月14日

坪田醤油を支えた人びと 3 

■たつの市御津町岩見 恵比寿神社の碑■

岩見港.jpg  岩見港醤油蔵跡.jpg  岩見銀行の文字.jpg

 岩見銀行は明治30(1897)年開業と伝えられ、本拠地を御津村岩見に置き、頭取に同じ村の海運業者仲間で醤油醸造家としても成功を収めていた上西宗兵衛がおさまり、本店を御津村岩見に据え支店を5箇所に設け出張所を3か所設置している。海岸通に面した本店の建物は洋館風の洒落た建物だったが惜しくも撤去されなにも残っていない。出船入り船で賑わったであろう岩見港の、岸壁の路地に沿う民家の重厚な厚みの軒庇と太い梁に、醤油蔵の記憶を留めながら薄暗い部屋のどこにも諸味(もろみ)粕や麹の移り香はとっくの昔に潮風に追いやられ、嗅ぐことはとうてい無理だった。
 港をくまなく見渡せる背後の荒神山に鎮まる恵美須神社への石段脇の玉垣に、「株式会社岩見銀行」明治44年11月の文字が確認できる。本拠地岩見の産土の森への奉納は、岩見銀行創設後の順調な伸展もさることながら、上方へ朝鮮半島へと醸造物や海産物の販路を拡大していく就航船の安全を祈願してのことなのだろう。
posted by 早春 at 21:11| Comment(0) | 地域史話最前線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月09日

坪田醤油を支えた人びと 2

■姫路市網干区興浜こんぴらさん境内■

坪田家三人の碑.JPG  坪田前停留所.jpg


 本殿が鎮座する内境内にある坪田久太郎・浅五郎・薫の三本の碑には、彼らの特別な思いが込められているようだ。大正4 (1915)年これまで別会社でそれぞれが社長をつとめていたが、時代の趨勢を素早く見通した坪田一族は、製造および販路拡大のためこれを一つに合併して坪田醤油株式会社を新たに発足させ、兵庫県の醤油醸造家としての位置を伸展させる気概から、これら三本の碑は新しい門出に際し結束の固さを誇示するために敢えて新しい碑の建立となったのであろう。
 久太郎の祖は浅五郎家と同じく姫路市八代の出で、浅五郎とは従兄弟という間柄であった。昭和2(1927)年久太郎は坪田醤油株式会社の社長となり、浅五郎と薫が役員をつとめている。
 伊津村の幹線道路は路地としか言いようのない細くて狭い村道を縫うように走っていた路線バスが、南の浜国道(250号線)に移動した今も、坪田醤油会社の名残を伝える「坪田前」停留所にかつての栄光と繁栄のよすがを伝えている。坪田家はのちに水産業者への融資を念頭においた銀行経営に深く関わり、一個人の利益にこだわることなく常に海につながる同胞を気遣い、御津村の岩見港から兵庫の岩見港へと高い志しをもつ一族であった。
 
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2009年09月05日

坪田醤油を支えた人びと 1

■姫路市網干区興浜こんぴらさん境内■

坪田浅五郎.JPG  坪田藤之助.JPG

 姫路市の西南端にあたる網干でもさらに西よりの集落興浜に鎮まる金刀比羅神社は、西讃を治める京極家の領有であることから海上交通を守護する讃岐の金刀比羅宮を勧請したものであろう。
 外垣正面右手の玉垣に二代目「坪田浅五郎」を真中に据えて三本の坪田銘の碑がならび、すこし離れた東に坪田藤之助の文字も確認できる。さらに北に折れるとやや高く盛土された敷地の内境内には、従兄弟の坪田久太郎や浅五郎それに薫とこれも三本が並び、合わせると同族七本の碑が奉納されこの時代坪田本家を中心とした経済的余裕と、海上安全をつかさどる金毘羅信仰への依存度がうかがわれる。
 坪田家の祖は姫路市八代の土豪であったが、ある時期揖西郡伊津村に帰農した。初代坪田浅五郎はたつの市御津町伊津村で弘化元年(1844)出生、明治34(1901)年58歳で没した。坪田家は代々農業と海上運送を生業(なりわい)とし、それに肥料の売買を行っていたが、慶応元(1865)年従兄弟の久太郎と醤油醸造を開始、明治17年から貿易に力を注ぎ明治30年ころより醸造を専門としてヤマホの商標や(まるほ)の商号で坪田一族は醸造家として近隣一円に躍進を遂げていく



posted by 早春 at 14:44| Comment(0) | 地域史話最前線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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