2009年05月29日

大ソリ  おおそり

■姫路市継■

継北1信号付近.JPG  山中に鎮まる住吉神社.JPG



 風土記にいう継(つぎ)の潮(みなと)の比定地とされる継は、姫路バイパスで北方の視界をさえぎられているものの、見野廃寺跡や長塚古墳、姫路の石舞台と噂に高い見野古墳群など古代遺跡の宝庫に隣接する。
 このような背景に支えられる継の地名由来は、風土記に一人の女が死んだ、女を復(つぎ)生(い)かしたので継の名が起こったとするも、実のところ韓泊(福泊)からの舟運中継地の継(つぎ)湊(みなと)が名の起こりとの説も捨てがたい。
 入り海湊の名残は村内北西山中に住吉神社があることだろうか。竹林のトンネルをくぐり抜け住吉さんへの参詣を終えてだらだら坂を下ると、幹線道路312号線へ出る。「大ソリ」の該当地はここから南の「継・北」信号を東西にまたぎ、条里制度の地割りにならったと思(おぼ)しき水路で区切られる小区域である。
 ソリという地名はアラシだとかコバ地名と同様に、焼畑地名だといわれ『日本歴史地名総覧』は、焼畑はもともと山の急斜面を利用するので後地が荒れて崩壊することとは、焼畑の両側面であって崩壊地名をも意味すると記述する。なおソリという語は地方によってソウリ、ゾウレン、ソウジと種々に変化を遂げ、漢字表記をみると反・曾利・蔵連、太市石倉山中の「掃除」や御津町碇岩の「剃山(そりやま)」などは焼畑が終ってさっぱりと小綺麗(こぎれい)になった当時の状況がよみがえるようだ。しかし焼畑地名といっても一様でないことを柳田國男は『地名研究』の中で告げる「ソリは休んでいる土地であり畑を焼くことではなくして…」との一説から、ソリは焼畑そのものではないこと、その跡地の地力が肥料切れのために休ませた土地の状態の名であること。つまりこれまで焼畑を一括りにしての解釈だったソリ地名の奥深さに地名の多角的解釈がどこまで迫れるのか心許ない。
 市内のソリ地名は当地のほかに明田・広畑にもあって、明田には新羅(しらぎ)神社、広畑には播磨国と同じ「播磨」という遺称地名が残る。古代播磨の野が空が焼畑の炎で赤く染め上がった拓(ひら)けゆく時代を語る地名である。

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2009年05月11日

花見田 はなみだ

■姫路市勝原区丁■

花見田橋近くの両河川合流.JPG  下流平松大洪水の碑.JPG


 檀特山を北方に従えた勝(すぐり)部の里は、姫路市域で2番目の大きさを誇る瓢塚古墳をはじめ、丁古墳群など古代にさかのぼる歴史を重層して人びとの注目度は高く、これらの墳墓群に多かれ少なかれ影響を与えてきたのは大津茂川と西汐入川の両河川であろう。
 両河川が流れを一つにする合流地点に架かる「花見田橋」は、小字地名花見田から命名されたに違いない。それにもかかわらず橋近くはおろか近辺にも桜の樹らしきものは一本も見あたらないのはなぜなのだろうか。それはこの地が両河川の合流地点となるため、毎年のように洪水の被害になやまされた暴れ川にその訳があるようだ。
 林田町大堤の北方山中を源流として南下する二級河川大津茂川災害の歴史は、記録に残る明治以降だけでも枚挙にいとまがなく、明治17年 29・32・大正元年・7・昭和29年の台風時は堤防が切れて土砂が田に流れ込み、あたりは海のようになったという過去がある。ついで大きな被害に見舞われたのは昭和51年9月、台風17号による秋の集中豪雨のすさまじさはまだ人々の記憶に残り、下流域の平松に冠水の記憶をとどめる水位の碑が建てられている。
 そんな暴れ川にそぐわない華やかな「花見田」地名の解釈を、試しに「花」と「見田」に分けてみた。花の解釈は、川中に砂州が生れてその突端をあらわす地形語、端(はし)がこの場に似つかわしいだろう。端の文字は流れにいろどりを添える花に転換され、愛される地名として残りこの地の風景に花を添えた。また見田は、深田と書いてミタとも読むことから、三田の文字をあてがう地名もあって湿地地名の最たるものでその例証は多くあり、花見田は水害の起こりやすい危険な川端に付けられた災害地名と確信がもてる。
 暮らしに密着して生業(なりわい)をささえて来た川は、時に沿岸に恐怖をもたらす川であったが、それ以上に地域に秋の稔りをとどけ、高度な文化の起こりをうながした恵みの川でもあった。
posted by 早春 at 17:29| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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