2009年02月28日

小金田  こがねだ

■姫路市北条■

かつての小金田荘の姿.JPGc  大通りの左右が小金田の該当地.JPG


 三左衛門掘りの東を通る県道姫路停車場線(二一九号)とよばれる大通りは、市内でも屈指のオフィス街となり、日を追うごとにさまざまなビルが林立する繁華な町に変身を遂げている。
 『播磨国風土記』英保里の条に該当される北条の地味(ちみ)は中の上と記され、土地の善し悪しの評価が高いのは、市川の氾濫原野たる所以(ゆえん)なのであろうか。
 小金田といえば黄金田とも書く場合もあることから、黄金の稲穂が波打つ田圃を表す瑞祥地名かとの思いもするのだが、そうとばかりは言い切れず、日本人が昔から主要穀物とした五穀の内の金粒の粟、これしか収穫できない悪田を黄金田に見立てたものかは分かりかね、小金田の解釈は今のところ不明である。
 江戸期はずっと北条村を名乗り、のちに庄田・南条・北条が合併して国衙村となったものの城南村へと移行。度重なる行政の変革で貴重な古記録は亡失したらしい。そんなこともあって昭和十年発行の『地名宝典』をたよると、小金田と呼ばれた場所は地区内でもやや西よりに位置し、最近まで小字地名の場所をそれとなく示す「小金田荘」が建ち、唯一小字地名の在りかを留めていたが、それとていまは更地となり、現在の行政地名は北条一丁目という。
 北端の字(あざ)上芝原に「福島紡績株式会社」の表示、道を隔てた東の字(あざ)定旨(ちょうし)から神屋田を含む広範囲な場所に「片倉製糸会社」の文字、南は「○ト組製糸会社」と記載されて都合七箇所の小字(こあざ)地名が消去されている。ちなみに明治二九年四月に設立された播磨紡績は北条二一番地に本社工場を置いていたので、明治四五年福島紡績との買収交渉が成立するとその翌日から姫路支店として操業を始めた。片倉姫路製糸所は大正六年四月に創業、昭和一六年二月に閉鎖。○ト組姫路製糸所は大正六年三月の操業である。
 姫路市域内の「八大工場」とよばれたうちの、実に三社が北条村に設置されたには、広大な敷地の確保に加え良質の水の取水が得られたからに違いない。それを満たすに充分な地の利があったからこその賜物(たまもの)であろうか、今また国衙庄の片鱗と三大工場が競う華やかなりし時代を再現しつつある北条である。
posted by 早春 at 12:07| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月14日

桃ケ坪  ももがつぼ

■姫路市白浜町中村■

中村白浜の町並みと麻生山.jpg  宇佐崎踏切の百合崎地蔵堂.jpg


 私蔵する昭和五五年の住宅図を見ると、むかしのままの畦道が図面上に幅を利かしていたのだが。いつしか整然と区切られた新しい洒落た町並みに灘の里は変貌していた。
白浜土地区画整理事業が始まったのは昭和四八(一七九三)年ころ、この年をキッカケにして奈良時代の条里制区画を踏襲する田の遺構跡は大きくくずれていった。
 条里制遺構を確かめる手だてとなるものは、意図的に区切られた田の並び具合と共に、小字地名に条里制度と思(おぼ)しき地名が残っているかどうかが鍵を握る。なかでも「五ノ坪」のように数字の付く坪名があればまず疑いなく、これが複数残されていると立派な古代の田制が図上に点描されていると考えてもよいだろう。
 では表題の数字ではない「桃ケ坪」はどうなのであろうか。果物の桃は普通「もも」と発音するが音読みすると「とう」、すなわち十(とう)に通ずることから十ノ坪に桃の文字を宛がう例は多く、これは昔話に登場する桃から生れた桃太郎のなつかしい記憶が脳にインプットされているからかも知れない。当町内には三の坪だとか、十の坪、十一の坪、柳ガ坪など条里地名が点在していて、なかには十カ坪の変え字と思われる遠ケ坪(とおがつぼ)も見うけられる。だが古い字限(じげん)図(ず)上にこれらが必ずしも条里制度の配置上にある訳ではないのが、思案にくれるところである。ともあれ他所には一ノ坪の変え字である市ノ坪や石ノ坪があり、松ノ坪は条里制度三十六ノ坪の末(まつ)ノ坪かも知れず、梅ケ坪の梅はおそらく埋めの変え字であろう。      
 海岸線の後退で広大な湿地が生まれると、条里制を取り入れて良田とした人びとは、石を切り出し組み立てて分水するという灌漑技術を駆使して「糸引(いとひき)井(ゆ)」を成し遂げた同一集団の可能性がもてる。彼らは後世渡来人と呼ばれ歴史上にその偉業を高く評価されている。
posted by 早春 at 10:52| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月03日

御薬園  ごやくえん

■姫路市仁豊野■

病院裏の市川河畔.JPG   病院横の難民キャンプ場跡で遊ぶ子ら.JPG


 奔放に流れる市川の中流域の両岸に、たっぷりと養分を含んだ付け州が生まれると鳥がさえずり、やがて実り豊な畑地へと変身を遂げる。 
 元禄時代、右岸に堤防が築かれて洪水の被害がやや減少の気配を見せはじめたころ起立したという河原近くに、通称「茶畑」と呼ばれる土地があり、この南には「桑畑」という土地もあったが、じつはこの桑畑と隣接する小字(こあざ)「肥後藪」跡にまたがり現在聖マリア病院が建っている。ちなみに肥後藪とは庇護藪の当て字で、洪水災害を未然に防ぐために藩主の庇護のもとに、竹など根のはびこりが早い植物が植えられた竹藪である。
 明治初期に茶畑の地を含む一帯が御薬園に組み入れられ、茶畑の名は消滅したが、もともと鎌倉時代に臨済宗の祖である栄西禅師が中国から持ち帰ったのが始まりとされる茶は、貴重品で薬として扱われ、御薬園で栽培される薬草の一つであった。広峯山の東麓にあたる仁豊野の西山裾にも古い茶畑があったとの伝承から、仁豊野の茶作りは意外と古い歴史を秘めているようだ。山上の広峯神社それに随願寺の日々の務めのなかで、お茶の需要は高く貴重であったはずである。発想を飛躍させれば寺社秘伝の薬草茶の栽培が行われていた茶畑だったかもしれない。
 御薬園の研究史によれば、江戸時代になって薬草に対する認識が深まり、幕府が設けた薬用植物園は「薬園」「御薬園」と呼ばれ、これらの御薬園でとりわけ力を入れて栽培されたものが朝鮮人参だったようである。八代将軍吉宗の政策による諸国産物の調査は各藩に薬園の設置をうながし、商人・本草学者などによる薬園の開設が進み、江戸後期にはほぼ日本全土に広がったとのことである。
 姫路藩でも江戸末期の万延元(一八六〇)年姫路藩士岡庭小兵衛が、船津町の西光寺野で朝鮮人参を栽培した実績もあるが、御薬園での朝鮮人参の試作情報がないのは、やはり土質が合わなかったからだとしか思えない。
posted by 早春 at 14:41| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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