2008年12月15日

西ノ神  さいのかみ

■姫路市豊富町細野■

公民館前の記念の石碑.JPG  バス停脇の道標.JPG


 東の古法華まで東西につづく県道大柳・仁豊野線は、静かな集落を避けて昭和二三(一九四八)年に完成、バス停前の道が旧道かと思いきやこれは新道らしい。
 一筋北の旧道は細くカーブしながらゆるやかな坂道がつづき、なるほど村の中心地であろうか、公民館前に出るとユニークな表示の石碑に「二十世紀の細野」の様子を「細野公会堂新築は昭和五七(一九八二)年」「細野に電灯がついたのは大正九(一九二〇)年」こんな風に箇条書きで村の文明変遷の歩みを簡潔に記す記念の碑が建つ。 
 「西ノ神」の場所は北嶺の中腹辺りにあって村境には程遠く、さりとて道が出合う辻でもないのに「さいのかみ」とは合点がいかないが該当地を訪ねると、折りよく居合わせた当主から「昭和のはじめころ亡くなった父親が「拝み屋」を家で行っていました。子どもの疳の虫に良く効き、遠方からでも子どもをつれて訪れる人が多く、よく繁盛してました。疳の虫に効く特別な薬を与えていたのかどうかは、自分が子どもでしたので記憶があやふやで、家も建て直したので何も残っていません」との話を聞かせていただく。
 「拝み屋」といえば庶民の苦悩を和らげるために加持祈祷を行い、星の動きで吉方を占う霊能者で、土御門家が発行する司天家(してんか)の免許状を持つ家もある。陰陽道の流れをくむ祈祷師たちは、疾患の病苦を取り去るがサルに通ずることから「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を信仰の対象に据えた歴史は古く、元は道祖神だとか庚申信仰に起原をもつ。
 近隣に拝み屋として名を広めた浅田博文家は、改築以前は背後の高台「西(にし)の岡」に屋敷があっといい、これは西(さい)ノ岡の可能性が高い。明治の修験道廃止令で庚申信仰も廃れたが、霊能者として信頼を得ていた拝み屋はそのまま昭和の御代を迎えたのだろう。
posted by 早春 at 17:18| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月01日

白幣山  はくへいざん

■姫路市広峰■

参道十八丁の碑.JPG  本殿裏から望める白幣山.JPG


 バスの終点駅広峰で降りると、「従(これ)是(より)廣嶺山十八丁」と記された石碑が3本出迎える。石碑は嘉永7(1854)年のものが古くて大きく「嶺」の字が見え、大正14年、昭和25年と並ぶ。
 大正7年刊行の『牛頭天王』は「廣峯山の文字、往古は廣峯山とこの峯を書きしが、後土御門天皇の明應6(1497)年度に勅宣あり、廣嶺山と嶺の字に改められる」と記し、素盞鳴尊を主神に仰ぐ社(やしろ)の名は峯の字を使い廣峯神社(牛頭天王)で、山名には五百年余りの歴史をふまえ廣嶺山の表記である。
 本殿の裏手に望める白幣山の標高は約 260メートル、中腹にあったという吉備社、荒神社は現在山頂に遷され、この白幣山には別名も多く「幣(みてくら)岳(だけ)・白(しろ)幣(にぎて)峯(みね)・伊多て(いだて)神山(かみやま)・西ノ峯と呼び、白幣峯について素盞鳴(すさのおの)尊(みこと)の御威徳により霊気立ち昇り、あたかも白(しろ)幣(にぎて)の閃(ひらめ)くがごとくこれが山名の起こりになった。西ノ峯と呼ばれる訳は廣嶺山には三峯あり、神殿はその中央の嶺に建ち、その東の峯には当社の摂社天(あま)祖父(さい)神社あり」と『牛頭天王』。天祖父神社への道筋に繁栄時の社家屋敷の崩れかかった土塀がなぜか侘しい。
 話をもどそう、神社への山項までの距離を示し路傍に立つ丁石の一丁は約109メートル、すると18丁は1962メートル。色づいた雑木の合間に見える山陽自動車道が今の高さを示し、青い海の彼方の島がかすみ眼下は絶景だ。大鳥居脇の十六丁石を過ぎ本殿にさしかかると、石段脇に当国加東郡市場村近藤文蔵再建(慶応2年)の常夜燈が目につく。
 近藤文蔵は海運業を営み姫路近辺の南部海岸の干拓を自力で手がけた人で、たつの市御津町成山新田の前身は近藤新田であった。疫神や農耕神として播磨一円に名高い廣峯神社への常夜燈寄進は、開拓地が緑なす平野に生まれ変わることを祈願してのことであろうか、周旋方同村長兵衛の文字も見える。
posted by 早春 at 14:10| Comment(2) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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