2008年11月23日

土土   どど

■姫路市東蒲田■


土土の旧地.JPG  墓地近くの山添神.JPG


  夢前川下流域左岸の蒲田地区はいぶし瓦の民家が寄り合い、山あり川あり田畑ありと恵
まれた農村集落の風情を残していたが、昭和五〇年ころ圃場整備事業が始まると村の様子は一変したように記憶する。
 村の伝えによると、夢前川の河川改修までは濁流が山際まで流れ込み、いつもじくじくした湿地でおおわれ、少しずつ高くなった土地に岸上、高畑、籾取、下蒲田、山所(やまじょ)とよばれる五垣内が起こり、なかでも東に屹立する蒲田山麓にある山所と呼ばれる集落の起原は古く、発(ほっ)田(た)大明神と称された蒲田神社の旧地といわれる。山道を抜けると荒川の西庄地区へとつながり、東西をむすぶ主要な山越え道に山麓の清流を暮らしに用い田の水を引き、恵みをもたらす山の神を祀った風習が人知れずひっそりと今も続いているのに出合える。
 「土土」の場所は夢前川左岸の地区南端にあって、山の突端が夢前川に大きく突き出たところで、むかしはさぞかし通行に不自由であったろうと思える。そんな場所に大雨が降ると崖をしたたる水は一挙に水嵩(かさ)を増し、渦を巻く濁流が夢前川へ白いしぶきをあげつつなだれ込み、その時ドドッと耳をつんざくような轟音がする。この激しい水音ドドッが地名の由来となったに違いない。
水が落ち込む場所は川底をえぐり深い淵となる。立ち止まるだけで身が吸い込まれるかのような危険きわまりない場所に、若い僧と白菊という美しい娘がこの渕に身を投げたという悲恋物語が生まれた「稚児ケ淵」伝説である。
 ちなみに、東京の蒲田といえばオールドファンに懐かしい松竹キネマの撮影所があったところ、『東京地名考』は「カマタ」は「泥の中の島」の意のアイヌ語、あるいは一般に「泥深い田」を意味すると記す。蒲田神社の旧名発(ほっ)田(た)大明神は泥土が流入する地を徐々に開発
した国土開発の神を暗示するものかも知れない。



 
posted by 早春 at 22:36| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月08日

大道ノ下  だいどうのした

■姫路市市ノ郷■

稲荷社と銀杏の木.JPG    昔ながらの店構え.JPG

  
 川のそばに市が立ち『枕の草紙』に「しかまの市」と詠まれたのは平安時代中期のこと、その縁(えにし)によって市川の名が起こり、架かる橋を市の橋といい、上流の神崎郡には市川町が生れた。
 しかまの市の遺称地はもう少し北のほうにあって、市内城東町字市場がその遺称地だといい、その北方には市内の最古道が広峯山下を書写山麓へかけて伸び、書写東坂本には「東横大道」の古い地名が残っている。
 市之郷の大道とは近世に起こった山陽道を指し西国街道とも呼ばれ、明治八(一八七五)年に木橋が架けられるまで対岸の一本松との間に渡し舟が通じ、この道を藩主が江戸へ上られるとき大庄屋・庄屋格ほか苗字帯刀のものが御着宿まで御見送り、または御出迎えに出るのが決まりであった。また明治二年三月五日の洪水で市川附定渡船壱艘が流失、舟中にあった櫓壱挺、宿駕籠壱挺も流れたと沿岸の村々へ御船役所からの通達が「姫路藩室津会所文書」にみられる。
 姫路城下への着岸地は市川橋西詰交差点の北あたりで、旧道の一画に昔ながらの木目(もくめ)にガラス戸で客を迎える「かね久(ひさ)」の屋号をもつ藤本建具店がある。敷地内には南向きの白崎稲荷社、脇の大銀杏(いちょう)が街道の安全を見守り、うだつのある民家も残るそんな歴史を踏襲する道も、昭和一一年土地区画整理により大変革、その様子を一三の古い字名(あざめい)からしばし懐古してみよう。
 まず中河原、昭和四年に丸尾町に改称された丸尾、宮上は(みやげ)と読み、旧山陽道に面する丁田、大善畑は現在楠町となり隣接して大善田もあった。宮西、西野々(にしのの)、JR西踏み切り辺りは辻ケ内、高田は現在の若菜町にあたる。なが―い土手は長堤(ながどえ)とよばれ今は日出町、大道ノ下は山陽道の南下にあって丁田と隣接まっすぐ西へ向かう、大縄場は現在東郷町大縄場として復活。丹念に描かれた大縄場を囲む石垣は字限図に波(は)戸(と)と記され、河原だとか久太夫河原の名は今水底(みなそこ)に埋もれている。


 

 
posted by 早春 at 11:41| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。