2008年10月31日

柚木河原  ゆぎがわら

■姫路市西延末■


手柄山遊園地を望む.JPG  ニ川合流点.JPG


 姫路駅構内から西へ向かう列車は二本、一本の山陽本線は手柄山遊園地の脇を直進して西へ向かい、姫新線は当地区北端の冑山神社下をかすめ通過して岡山の新見を目指す。ちなみに、姫路の姫と新見の新の頭文字の組み合わせが姫新線の呼び名の始まりである。
「風土記」に「冑の落ちた処は冑丘」と語りかける十四の丘の一つ、冑山神社の山頂から至近距離に望める手柄山は、これまた十四の丘に登場する山で、古代の二つの丘に抱(いだ)かれた当地区の歴史的風土は奥深いものがありそうだ。それを確かめるべくしばし時を巻き戻してみよう。
たとえば、遊園地内の赤や緑に塗られた観覧車と付近のビルを排除する。完成したJRの高架とこれに沿った県道も地下へ潜らそう。時折通る姫新線だって線路を撤去すれば列車はもう来ない。すると条里制に倣(なら)い開発がすすめられた一町の田は、いまも「町田」の小字で引き継がれ、北には「加賀(かが)杭(くい)」の小字で平安時代に設立された勧学院の食(じき)田(でん)が広がりをみせる。東からの船場川の流れ込みに加え、水尾川の派流が二筋三筋と交錯(こうさく)しつつ村の中を南下する流れは絶えることはなく、清らかな水と太陽の光に育(はぐく)まれた稲穂の垂れる風景が浮かび上がってきた。
そんな集落の最南端の川淵に河原が生まれると人はそこを柚木(ゆぎ)河原と呼んだ。柚木とは「結い」の転訛ではないだろうか。結いとよばれるこの制度は字のごとく手を結び支え合うことを言い、お互いが助け合う相互扶助の仕組みは、農耕を成業(なりわい)とする日本が他国へ誇れる風習であった。田植えの時期になると一軒の田植えを数軒または十数軒で助け合う労働時の貸し借りの習慣を手結いということから「田結い」と書かれることもあり、田井や田居、鯛垣内などの当て字で市内に残る。
田の手入れや水路の整備に力を結集した古き良き時代を反映する結いの心は、香(かぐわ)しい植物の柚の木に引き継がれ、集落に潜在する知的な文化の息吹きを発散している。


 
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2008年10月24日

あへ  あえ

■姫路市網干区宮内■

先導する猿田彦神.JPG    沼高田遺跡の碑.jpg


 福井の庄28カ村の系譜を引き継ぐ氏子の祭礼網干津の宮秋祭りの日、赤い顔に大きな目、前に突き出た高い鼻、猿田彦神の先導で神輿渡御の主役を受け持つのはむかしも今も敷村宮内である。 
網干は古い歴史を持つ海辺の町で、地名のいわれを津の宮の神事の一つ放生会に漁師が網を干して参詣したからと、はからずも神仏混淆の名残を地名の起りとする。
 放生会よりもさらに古い起原をもつ神事に「饗(あえ)のこと」という祭祀がある。「饗」とは神に食事を捧げおもてなしをする事で「こと」は神事を意味し、慶長9年(1604)の宮内村検地帳の中に消滅したが注目度の高い「あへ」がみえる。あえの位置は地元を熟知する住民サイドから古い検地帳を基におよその位置が確定できて、この周辺の字名から「沼・高田」遺跡の碑が建つ。付近の朝日中学校建設工事期に石器や縄文土器や弥生遺跡が出土しており、最近の報告例から和久の旨戸遺跡(弥生時代)も至近距離だ。なお『播磨国風土記』の訳者は朝日山の南方から西方にわたる宮内を南限とする一帯を大家里と比定、元は大宮里と名乗っていたと記し、この大宮の位置こそが「あへ」場であって、現在の津の宮の原初の姿ではないかと考えられる。     
 幾星霜を経て海が南へ後退して陸地化が進むと広大な平野が誕生、大宮は品(ほん)太(だ)天皇の意思を受けて、海に、より近い場へと移転した。これが現在の魚吹八幡宮であろう。跡地は大和王権の進出により大家里(おおやけのさと)と改名したと考えられる。大家(おおやけ)とは屯倉を指すもので、饗庭(あえば)に近い勝原区丁の家(や)久田(くだ)は三宅(みやけ)田(だ)の可能性を秘め小字地名として健在で、付近にこれまた国指定史跡瓢塚古墳があるのも見逃せない。
 湿地を意味するヌマの語が示すように大津茂川のほとりで稲を栽培して、田の神を客(まろ)神(うど)と呼び最高の饗応をする「あえ」の神事は、米作りに命と慈しみの思いをかけてやまない日本人の豊穣の神々へのもてなしの行いが祖先のまつりであった。
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2008年10月16日

河間町  こばさまちょう

■姫路市河間町■

河間町界隈.JPG  誓光寺の庚申堂.JPG 


 姫路駅から神姫バスで姫路医療センター(旧国立病院)経由に乗車すると、世界文化遺産に登録された姫路城を眺めつつ、五分ほどで河間町のバス停に着いた。バス停の標識に「こばさまちょう」の振り仮名がないので、市外から初めて訪れる人だとちょっと読みづらい難読地名のひとつである。
 百メートルほど南へ下がると城内から北東への出入り口であった野里門がある。つづきの河間町は姫路城下八十八町の内の一つであるといわれ、八十八町は語呂の良さもさることながら、縁起のよい八の数字をかさねたもので、正しい数字は七十八町だそうな。
 「河間」地名の由来を探ると、文字そのままに川と川の間にある場所を指しているようで、いまは「河」の字を使用しているが、天正15(1587)年の古い書状には川間町の文字で記された古い町名でもある。
 むかし市川の分流の一つであった二股川は、増位山の東麓で、東と西へ流れが二つに分かれていたことから二股川と呼ばれていた。城が築かれている姫山の北部辺りでは、この川の作用で長い間に土砂が堆積して州となり、州は徐々に周辺にせりだしてやや高くなって自然堤防の状態となってくる。やがて堤防の内側の安全な場所に人が住まいを設け、人びとは川と川に挟まれたこの土地に河間の文字を宛がい土地の名としたのであろう。
 『姫路市町名字考』の著者橋本政次さんは「こばさまちょう」は「かわはさまちょう」のちぢまったものであると明確な答えを出している。  後背にそそり立つ広峰山や増位山からの豊潤な落ち水の恩恵は、川のほとりに庚申信仰を根付かせ、昭和4(1929)年姫路市の上水道、町裏浄水場ができて市民の水瓶(みずがめ)を確保した。西隣りの八代町には「挟(はさ)河(こ)」地名と共に、湿地を表わす「深田」や「深ケ」も残り、姫路城を取り巻く堀の防御機能をいっそう堅固にしたであろう「はざま」関連地名は、市内にじつに18の多きを数える。             
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2008年10月07日

勅旨 ちょうし2 

■姫路市花田町勅旨■

勅旨の大歳神社.JPG  勅旨の墓地.JPG

 では、勅旨という地名の真の解釈はどうなのであろうか。『地名用語語源辞典』を引くと、「(たふし・倒し)の転で崩壊地名・侵食地形を云うか」とあり、侵食された危険な地形を指しているようである。たふし(倒し)とは目の前のものが突然倒れるとか崩れるとかの意で、川岸の集落をたびたび襲う洪水の被害箇所に多い地名である。たふしと云う言葉が永い年月の間にちょうしへ転訛すると、以前からの言葉は意味を失いちょうしの音だけが伝わるが、それさえ忘れられて意味不明のために神功皇后や菅原道真が立ち寄ったとの貴人伝説がまことしやかに語られるのが常である。ここ勅旨にもこれに似通ったいくつかの伝承が残されている。その一つは「南に近接する播磨国分寺があることから勅旨田の遺称地名」だという説、また古代山陽道が勅旨を経て書写山へ通じていることから「書写山円教寺修造のとき下向した勅使が止宿した」との説など、この二つが根強く語り継がれている。しかし米作りに不適切かと思われる川淵の侵食されやすい土質が「勅旨田」としての機能を果たし得たであろうか。また「戸数わずか13戸ばかりなり」の戸数では勅使が止宿して十分な応対が行き届いたのであろうか。 
 この説に対し旧の『姫路市史』は永享4(1432)年8月洪水、9月地震、書写・増位・国分寺の堂塔多く倒壊す。勅使大納言基秀が状況を視察に訪れ数日増位山に逗留した、宿にされたのは増位山内と記述が見える。洪水で軟弱になった地盤に地震が襲いかかると堤は難なく倒壊したであろう。これを目の当りにした人々の率直な気持ちが「たふし」へつながり、ずっと後になって勅使下向の事実と重なり伝承が発生したと考えられる。
 最近『太子町史・第一巻』を読んでいて興味深い記事に出合った。田中真吾氏の「大地のシーソ」説である。播磨の自然界では気候の変化から「河川の流路を常に西方に押しやるという大地の特質があり、東方が相対的に隆起傾向にあったことを示すのではなかろうか。市川の左岸においても顕著である」と述べられ、東へ西へと揺れ動く大地の有様が説明されている。ならば勅旨集落の東を川が流れていて、の記載の川は大水の時季と相まって堤防は倒壊して徐々に西方に押しやられ、村が東へ移動したのではなかろうか。そのとき小川であった元の流れは井溝(ゆみぞ)として残ったのだろう。なおこの時期は11〜17世紀にかけての出来事らしい。こう考えると姫路城主池田輝政の治績の一つである市川本流の付け替えなども案外自然の現象を利用したものであれば、成功率は高く工事もいつもより容易であったかも知れない。
 さて日本の各地に散見できる(ちょうし)(ちょくし)地名だが、やはりすぐ思いつく地名は千葉県の銚子市ではないだろうか、利根川河口に発展した醸造の町としても有名な銚子市は、地名のいわれを「酒器の銚子の口の細く狭い様子から名が付けられた」との解釈がされている。兵庫県ではちょうし・ちょくし地名はやはり河口部に多く分布がみられ、なかでも氷上郡市島町の大字勅使は地名の起こりについて、「暦応元年この村よりご在位の天皇に多額の献金をしたので勅使と命名した」との貴人説話でまとめられている。また加古川の勅使塚古墳のように古代の墳墓名に多いと報告されているちょうし・ちょくし名は、周溝を自然の流水から取り込むための導水技術に長けた人たちによって名付けられたとも受け取ることが可能で、長岡京市の「調子」や宮崎県五ケ瀬の「丁子」それに奥入瀬渓流の十和田湖に近い「銚子大滝」などは、どのような地名の解釈が付されているか興味の尽きないところだが、いずれも河川沿いの地名であることに変わりはない。
 ちなみに市川に沿う南の北条に「定旨」と書いてちょうしという小字があったが今はどうなったのだろうか。市庁舎に隣接するという好立地で区画整理が進み、大きく発展した村にもう危険な地名は似つかわしくないだろうが、それでも水との過酷な村の闘いの歴史をつなぐ地名であることに間違いない。       
このように同じ意味の地名であると思われるのに、所によって字が変えられ地名の謂れや解釈が異なる地名について、柳田國男は『地名研究』の中で、「地名の意味が忘れられたから発生するというものではなく、単なる思いつきでもない、共同で生活する人の心の中にある思いが地名として表れた」と書いている。
 わずかな資料の中に記された勅使下向の事実のくだりが、郷土勅旨の由来説に願ってもない好材料であったに違いなく、誇りある伝承は最高の贈り物となって今も語り継がれている。

☆ 断り書き『神戸史学会・歴史と神戸』202に記載したものに加筆訂正したものです。


posted by 早春 at 11:12| Comment(2) | 地名アラカルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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