2008年09月27日

勅旨 ちょうし1

■姫路市花田町勅旨■


市川右岸から見た勅旨.JPG  電柱表示まで変わった.JPG


 ある大手出版会社が発刊した地名辞典に、姫路市花田町勅旨(ちょうし)を(ちょくし)と載せ、通称はちょうしと紹介している。ちょうしは初めからこの名であって通称ではなく、これまでに「ちょくし」の呼び名はなかった。それが資料的価値の高いとされる地名辞典に載ることで一般化され、地元をはじめとして全国に流布していく恐ろしさを身をもって体験している。
市川下流域左岸の河川沿いにある勅旨の村東には、町内外9カ村の用水をまかない町名の由来ともなった花田井(鼻田井とも書いた)の流れが通じ、正徳3年(1713)以前に造成されたと伝わるこの井溝筋が、市川の旧河道ではなかろうかと注目している。
 『花田史誌』によると「むかしはこの集落の東を川が流れていて、戸数わずか13戸ばかりなり」と記され、小さな村の様子がおぼろげながらも浮かび上がる。川が東であればそれは小川と呼ばれた時期で、深田だとか高河原・小島などの小字(こあざ)地名が示すように新田の可能性が濃厚で、ある時期「勅旨垣内」と呼ばれた小集落誕生の変遷は遡るほどに奥深いと感じた。
では、勅旨という地名の真の解釈はどうなのであろうか。『地名用語語源辞典』を引くと、「(たふし・倒し)の転で崩壊地名・侵食地形を云うか」とあり、侵食された危険な地形を指しているようである。たふし(倒し)とは目の前のものが突然倒れるとか崩れるとかの意で、川岸の集落をたびたび襲う洪水の被害箇所に多い地名である。たふしと云う言葉が永い年月の間にちょうしへ転訛すると、以前からの言葉は意味を失いちょうしの音だけが伝わるが、それさえ忘れられて意味不明のために、神功皇后や菅原道真が立ち寄ったとかの貴人伝説がまことしやかに語られるのが常である。ここ勅旨にもこれに似通ったいくつかの伝承が残される。その一つは「南に近接する播磨国分寺があることから勅旨田の遺称地名」だという説、また古代山陽道が勅旨を経て広峰山や書写山へ通じていることから「書写山円教寺修造のとき下向した勅使が止宿した」との説など、この二つが根強く語り継がれている。しかし米作りに不適切かと思われる川淵の侵食されやすい土質が「勅旨田」としての機能を果たし得たであろうか。また「戸数わずか13戸ばかりなり」の戸数では勅使が止宿して十分な応対が行き届いたのであろうか。
 この説に対し旧の『姫路市史』は「永享4(1432)年8月洪水、9月地震、書写・増位・国分寺の堂塔多く倒壊す」勅使大納言基秀が状況を視察に訪れ数日増位山に逗留、宿にされたのは増位山内と記述が見える。洪水で軟弱になった地盤に地震が襲いかかると堤は難なく倒壊したであろう。これを目の当りにした人々の率直な気持ちが「たふし」へつながり、ずっと後になって勅使下向の事実と重なり伝承が発生したと考えられる。


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2008年09月20日

貴船山(祝田神社) きぶねやま(はふりだじんじゃ)

■姫路市林田町上構■

荷台の彼岸花と祝田神社1.JPG   貴船神社奥の古めかしい祝田社.JPG


 緑したたる木漏れ日に映える赤い鳥居、稲穂の緑に競うように咲く彼岸花は、森閑と静まりかえった祝田(はふりだ)神社の秘め事とうらはらに、華やぎを添えている。ここ林田は安志庄。賀茂別雷神社の荘園であったのは文治2年(1186)と『兵庫県神社誌』は記し、ある説は寛治7年(1093)とややずれがあるのは何故なのだろうか。
 麓に貴船神社を祀ることから「貴船山」の小字地名で残り、赤い鳥居の口殿に貴船社、奥殿に延喜式7座の一つにあげられる祝田神社が鎮座する。905年に編纂が開始された延喜式に記載のある何やら古めかしい祝田の名のわけを探ってみよう。
 祝田神社の元の名は祝田宮(ほうだのみや)といい、むかし土地の人は「ホウダが森」と云っていたらしくやはり奥深い森に起源があった。いつの世も老若男女を問わず必ず死がおとずれるという定めをわきまえた人々が、身近な山と向き合う中で火葬普及以前に行われていた古い葬送のしきたりの野辺送りだとか山送りという原始葬送がハフリであった。ハフリという語は埋葬せずに人里離れた山や谷間に無造作に死骸を放り投げ捨てるしきたりで、これをホフリ(放り)と云い、葬むるの言葉につながったといわれる。
 柳田國男は『明治大正史・霊魂と土』の中で「亡き骸はやがて朽ちゆくものとして、遠く人なき浜や谷の奥に隠してこれを自然の懐に返していたのである」と述べる。残された人びとは、山へ捨て置かれた死せる者との惜別と再来を信じて言祝(ことほ)ぎ、祝の字を用いて離別の悲しみを和らげたともいう。 
 幾世代を経ると神聖化された山に小祠が設けられ、神前で額(ぬか)ずく人たちが祭神を勧請すると徐々に拡大して神社の発生につながり、司祭主は祝部(はふりべ)を名乗るようになる。
 『播磨国風土記』美嚢郡高野里の条の「祝田社」は(ほうだ)といい、現在三木市の這田(ほうだ)の地名の起こりとなり、京都相良郡精華町祝園(ほうその)ももとは羽振苑(はふりその)といったということだ。
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2008年09月10日

板  いたば

■姫路市大塩■


的形との境の西浜川.jpg  養魚場内の横澪.jpg


 山陽電鉄大塩駅に降り立つと広大な塩田跡地に舞う風は、浜子たちのショツパイ汗の匂いを、すべて過去に運び去ってしまっていた。
 地元の守谷利永さんは、「塩作りが盛んだったころ、東澪・中澪・西澪・尻無し澪そのほかに横澪と呼ばれる澪(みお)がたくさんあって、塩田の中に製塩場が四~五カ所あったが、25キロ入りの小俵に詰められた塩は、船に乗せ澪を通って運んだ」と往時を振り返る。 
 西澪の名残はいま西浜川とよばれ、隣接する的形との境となる堤防沿いに「板」と一字で「いたば」と読むめずらしい小字がある。付近は廃業した養魚場跡や排水のためのポンプを兼ねた大樋門一帯もふくまれる。
 板という地名は全国に字を変え読みを替えて広範囲に分布が見られ、海に流れ込む川のそばに多く付けられる崩壊地名であることに間違いはないのだが、現在二つの解釈に分かれている。その一つは水害などで決壊を防ぐ場に打ち込まれた板がそのまま地名に定着したもの、なかでも矢板を打つなどの言葉は現在にも通じる語で、矢は水や流水の意味を持ち、水際の土砂崩れが起こる場に板が打ち込まれる状態を「矢板を打つ」などと表現される。もう一つは、毎年のように繰り返される自然災害の猛威にさらされて、暴風雨で痛んで土砂崩れを起こした場が痛み場、すなわち「いたば」になったとの説である。
 うがった言い方をすれば横澪が通じていれば、そこは非常時に決壊が起こりやすい場所ではなかったのだろうか、大雨が続くと横澪へどっとなだれこむ海水を食い止めるために防護の堰板を打ち込む。そして危険極まりない場所に「板」という地名を付けて何よりも大切な仕事場を守った。先人達の知恵と技がキラッと光る地名である。
 水郷で名高い茨城県行方郡(なめがたぐん)潮来町(いたこまち)の地名の由来は、潮を「いた」と読み、潮が寄せ返し痛んだ場所が想像できる町名であるが、むかしは板来や板久などの当て字であったという。
posted by 早春 at 21:06| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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