2008年08月26日

鐘鋳場  かねいば

■姫路市白国■

佐伯神社.JPG  手すりが赤いしらかね橋.JPG


 数ある増位山随願寺への参詣道のなかでも、佐伯神社脇の道は細くいまも古道の面影を伝え、天空を覆う境内の椋の巨木も健在だ。太古と変わらぬ翠陰に癒されて鐘鋳場の地を訪ねる。
 念仏堂の下を流れる増位川をへだてた1203〜1255番地辺りの該当地は意外と狭いが、新しく住まいを設けた人も、ずっとむかしからの住人も、地名へのこだわりは少ない。
 鐘鋳場という地名について『姫路市町名字考』の著者は「鐘鋳場は随願寺の鐘を鋳た所であろう」と鐘の字にこだわりを見せているが、柳田國男は『地名の研究』のなかで、「カネイバという地名は山陽・山陰・四国・畿内、東国の国々に及んでいる。通例は鐘鋳場、鏡鋳場の字をあてて、往々にして付近の大寺の鐘を鋳た所だとかの口碑を伝えている」と述べる。柳田の言うように確かにここには随願寺という大寺を背景にした説が定説となっているが、真実はどうであろうか。 
 県下朝来市の鉱山町として名高い生野町の「口銀谷」はくちがなやと読み鍛冶屋町があり、市内飾東町八重畑鉱山跡には「金池」があるも鉱質は銀や銅のほか亜鉛・スズを産出し、鉱山とかかわる字名「雉子ガ端」があって、ここ増位川上流の鐘鋳場北端には「しらかね橋」が架かる。しらかねであれば銀の産出があったのだろうか、一般に鉱石すべてをひっくるめてカネと表現するのを見れば、鐘は鐘でも寺の鐘ではなく鉱石全般を指すカネに的をしぼるのも一策であろう。
 谷間を流れる増位川の源を増位山といい、山の西北から吹き降ろす風は古代語で「アナジ」「アナゼ」と呼び、北からの季節風を指す。推測の域を出ないが谷川の急流は山の鉱物を押し流し下流で鉱物をすくい取りカネを溶かすタタラが必要となる。それがカネ鋳場で「鋳物の場」がつづまって鋳場となったもの、鉱石を溶かすには自然の強風を必要とした。たとえ製鉄遺構が見つかっていなくとも山があって、近くに急流をともなう川があり、鋳場という地名があればこれ以上の好条件は望めないのではないか。
 製鉄技術集団を率いた人たちの出自は、新羅を征したので軍功により白国と名付けて、ここを本拠とした人たちに違いない。播磨最初の国造になった佐伯直(さえきのあたい)は鉱物の力で支配権を握ったのではないだろうか、彼を祀る佐伯神社は目と鼻の先の距離にある。
posted by 早春 at 21:50| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月18日

縁土塚 えんどづか

■姫路市広畑区広畑■

唯一残る貴重な農地.JPG  昔を語る人.JPG 

 山陽電鉄の線路を南北にまたぐ中門通りは、新日本製鉄工場の中門を起点にしていることから街路名が起こり、踏み切りの名も中門通りと付けられている。
 踏み切り南東の角地で果樹園と野菜畑を守り続ける老人は、広畑で生まれ育ち81歳だといい「この場所は、むかしえんどづかといってな−、海との境が曖昧な所で腰までつかるじゅる田ばっかりやった。さて字(じ)はどんな字を書いたか知らんけど、いまは東新町2丁目や−」と目をしばたたかせた。
 ぬかるんだ土地の代名詞じゅる田が大きく変容するのは昭和12年、広畑が製鉄所建設用地に決定されて以来のことで、20年代になるとじゅる田といわれた湿地は企業用地に、その社宅用地にと埋め立てが進み、残った空閑地は泥田ゆえに蓮池と古い地図に名をとどめる。   
 水利関係の古地図に、円豆塚とも記される縁土塚のいわれは、仏教とともに大陸から伝わり江戸時代日本人の死因の第一位を占めたと伝わる天然痘に関わる地名ではなかろうか。薬事日報『おくすり博物館』によると「疱瘡(ほうそう)ともよばれた天然痘には別名も多く、奈良時代には豌豆(わんず)瘡(かさ)・裳(も)瘡(かさ)と呼ばれ、鎌倉時代には赤斑(あかも)瘡(かさ)など時代を越えてよびかたは種々使われてきた」とある。天然痘流行のすさまじさを「神戸又新日報」明治19年1月24日版にみると、県下一年間の患者数5743名、一ヵ月後の2月24日県下だけでも216名の発症が報告され、姫路に近い広畑でも猛威をふるい、村から程遠い浜風にゆすぶられる海辺の一角に、疱瘡の災禍で命を落とした人の塚が設けられたと推測できる。
 種痘施行がゆきわたり天然痘の恐怖が去って記憶も薄れたころ、天然痘の古い呼び名「豌豆(わんず)瘡(かさ)」の豌豆の文字はそのまま「えんど」と読まれ小字(こあざ)で残ったが、塚はいつしか平地に均(なら)されて消滅した。
posted by 早春 at 17:15| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月03日

省己橋  せいこばし

■姫路市今宿■

省己橋.JPG   渇水した大井川源.JPG


  十二所前を経由して西へ向かうバスの車窓から鬢櫛山の姿がチラチラと見え隠れする。鬢櫛山は風土記記載の十四丘の「匣丘」の比定地で、今宿の万燈山が脇を守る。
  琴丘高校を抱え込む東麓の別所谷は、今宿の別所という小字(こあざ)の谷に付けられた名で、谷は昭和の中頃まで県の種蓄場があったと伝えられ、その跡の閑静な地を求めて車崎から琴丘高校が移転してきた。校地との一線を画するかのような小川は、すぐ北の西国街道に沿った湧水池大井(おおゆ)を源流とする流れで、下流の町坪あたりでは大井川とよばれ、さらに下ると水尾川に合流して中河川に発展する。
  小川に架かる小さな橋の名を「省己橋」といい、橋はどうやら登下校時唯一の出入り口らしく、大勢の生徒たちの通学路にしては意外と気取らない粗末な造りがいい。
「省己」こういう字を書いて省己(せいこ)と読ます橋の名は、論語の「吾れ日に三たび吾が身を省みる」から採られたものであろうか。多感な青春時代をこの学び舎で過ごす三年の間「己れを省みて」学生らしき行いをしているか否か、橋が問いかけているようだ。
 でも「省己」の解釈は本当をいえばこの辺りの地形から名付けられたもので、「狭い河」すなわち川幅が狭くなった様子を表す当て字で、もともとはこの辺りの地名だったに違いない。自然堤防で高くなった所はいきおい川幅が狭(せば)まり非常時には濁流となる、その様子を目にした人びとは、「狭河」の文字を当てて注意をうながした。
 高校が移転してきて山災害の危険は去ったが、通学路の一部となった橋に同じ読みの「省己」の文字を宛がった。この時に立ち会った橋の名付け親は、消える地名を愛おしく思いつつ後輩たちに、もっとも相応しい言葉を「論語」の一節から選び出し橋の名に刻んだのではなかろうか。
  八代町では狭河と書いて「はさこ」と読み、河と川の挟い空閑地に発生した町河間町(こばさま)が野里にあって、水への関心の深さを伝える地名のなんと多いことよ。
                  姫路地名研究会  田中 
posted by 早春 at 11:13| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。