2008年07月22日

宇利ウ うりう

■姫路市太市中村■

邑智駅家跡の碑.JPG  向山の小池.JPG


 太市平野のほぼ中央を一直線に延びる上郡停車場線は、槻坂を経るとたつの市中井へと通じ、西脇廃寺から中井廃寺へと先進的な文化の波が寄せては返った古代の大道跡をほぼ踏襲する。
 大道沿いには、古代駅制にのっとった20匹ばかりの馬が置かれた「馬屋田」という地名も見受けられ、向山近くの集会所前に邑智駅家(おおちのうまや)跡の遺跡標記の立て札がひっそりと立つ。小字地名「宇利ウ」は、駅家(うまや)跡からほんの少しばかり下ったゆるい傾斜地の一帯を占め、北方に連なる標高2百b級の山からの谷水と、南の向山から滲み出る落ち水と相まって、辺りは常にほどよい水量を地表に蓄え、窪んだ盆地状の平野部ではその気象条件から常に水蒸気が発生、ウルオイ(潤い)満たされていたのであろう。このような自然環境に恵まれた土地柄は、古代語でウルウ(宇留生)とよばれたらしく、ウリウだとかウルマ(宇留間)も同じ仲間だという。常に潤おう湿原で農耕が始まると特異な現象は目印として地名に選ばれ、宇利ウ地名発祥となる。穣をもたらすこんな環境に恵まれた平野こそ「豊葦原瑞穂の国」の原点に違いない。
 素人ながら思いつくことは、水量の少ない大津茂川一筋だけでは穀倉地帯の用水にも事欠いたであろうし、ましてや延喜式に記載される20匹ばかりの馬の飼育も覚束なかったのではなかろうか、もしかすると地上だけでなく地下は水がめのような自然構造となっていたのかも知れない、ここは味の良さを誇るブランド「太市筍の里」でもある。
 豊富町神谷川下流域の「瓜生田(ウリュー田)」は金竹の小字で、相生市矢野町羅漢の里瓜生(うりゅう)は渓谷に沿う。明石市魚住に雨流と書いてウリウと読む地名は、たっぷりの水量を彷彿とさせる地名で、遠くへ目をやると北海道には湿原の町雨竜郡雨竜町、こんな当て字もあって全国的な展開をみせるウリウ地名である。
posted by 早春 at 16:27| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月15日

いか土 いかづち

■姫路市山野井町■

岩端大師堂全景.JPG  唯一残るいか土名.JPG

 
  姫路城の西を南流する船場川と名古山の間の景福寺山の標高は51m、北西の山腹が近年になって一挙に開発が進み、元から有った地蔵堂が肩身狭しと地区の集会所で寄り合い所帯となっている。
  『播磨国風土記』の十四の丘の「船丘」に比定される景福寺山は、江戸時代姫路城主の国替え時に南麓の寺院名が変わるたびに山の呼び名も変わり、明治15年作成の字限図には増位山と載る。 
もと山野井町に属していた「いか土」の場所は、山の北麓一帯を占め東西は大溝で仕切られた湿地の野が広がっていたらしく、昭和11年ころから始まった急激な都市化で、かつて嵐山と呼ばれていたことから嵐山町を名乗り、小字(こあざ)地名「いか土」はこの時消滅した。 
 「いか土」地名の由来は、まず雷の古語である「雷(いかずち)」説がある。怖い物の代名詞であった雷の稲妻の閃光に畏れおののいた人びとは、これを雷神と崇め別雷神を祀った。恐れながらも慈雨をもたらす神への感謝と自然への畏敬を込めたのであろう。奈良県明日香村の雷(いかずちの)岳(おか)の大字に雷(いかずち)があり、雷岳を甘(あま)樫(かし)丘(おか)の比定地とするのは奈良地名研究所の池田末則さん、徳川期には雷土と書きイカヅチと訓読していたとこだわりを見せる。
つぎの「巌土(いかつち)」説は、ある辞典に「厳(いかる)は形容詞イカル・イカシで険しい山麓を言い、後ろの山から落ちた土砂で埋まった土地は、川をも埋め尽くしてしまう様子をいう」とある。  
 最後にいか土をふくむかつての山名「嵐山」の語源に注目してみよう。アラシの語源は、古い時代の焼畑耕作を慣習とする傾斜地や崖地に与えられた言葉をアラシだとかアラスなどというので、古代に遡れる原初農耕焼畑地名がもっともこの地に相応しいように感じられるのだが、どうであろうか。
 京都の嵐山から連想される雅な景観から予想しえない古い山の営み、それにつれて裏腹な危険性を我らに警告しつつ、険しい山麓の危険地名を我らに伝えるべく残した地名だと思えるからにほかならない。
posted by 早春 at 16:40| Comment(0) | 姫路市中部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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