2008年06月30日

桜ノ木 さくらのき

■姫路市豊富町江鮒■

裾池と甲八幡神社の赤い鳥居.JPG  段丘の坂道.JPG


 仁豊野橋を東へ渡ると間もなく甲八幡神社の赤い大きな鳥居が視界に飛び込んできた。鬱蒼と繁茂する木々の奥の古社に祀られる神は「風土記」に記され、神の名にちなんだ町名が生まれ、山の姿から甲山と呼ばれる。
 バスに揺られ江鮒停留所で降車。北へ向かうバスの後尾を見送ると、あれっバスが目の前から消えていった。甲山の標高は107.8m、の独立丘で、裾野は河岸段丘とよばれる豊富平野が広がりをみせる。なるほど先ほどのバスは段丘の最高段を下っていったのだとやっと理解できた。
 「桜の木」を尋ねるため地図を片手に広げると裾池の奥に鳥居の表示、字限図にも残る裾池は段丘の最高段に位置し、その名の通り山裾の平坦地の窪みにできた池であろう。目的地は池の下手(しもて)に当たり1758〜1766番地とさほど広い範囲ではなく、この壮大な平野に似つかわしくなくむしろ狭いともいうべきであろうか、該当域の建屋の裏側は低めの崖が石で築かれ通り抜けは不可能らしい。裏手に回ると誰が見てもはっきりとわかる坂道が北へ延び、両側に階段状に仕切られた家屋が建つ敷地から、ここは自然の地形に付けられたサクラ地名との考えに至った。
 日本人が愛してやまない桜の花は、地名に用いられることが多くその解釈は一様(いちよう)ではないが、漢字にこだわらずサ.ク.ラという語を分解してみるのもいいかも知れない。サ、クラのサは狭い所を表す接頭語、クラは谷を意味する古語であり崩れやすい谷をいう言葉なのだから、これほどの条件に適う場所に異論はないだろう。
 悠久の時に刻まれた大地は人間に与えられた最大の恵みである。産土神に額(ぬか)ずき日々感謝を捧げよう。 
posted by 早春 at 17:39| Comment(0) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月20日

日和山 ひよりやま 2

■たつの市御津町室津■

唐荷島と古代船入港.JPG   藻振りの鼻.jpg 


 おだやかな表情をみせる播磨灘も、じつは複雑な海流の動きでおこる潮の急変があり、天候の悪化による自然現象では天気の回復を待つしかない危険一杯の航路であった。快晴だからと出船しても行く先が大雨であったり、突風に出合えばたちまち破船して沈没、積み荷はおろか人命までも危険にさらされる。ましてや藩主が乗船する御座船の船頭たちは観天望気に命がけで取り組んだに違いない。しかし気象は土地の立地条件をもっとも反映するものであるから、優秀な経験をつんだ船頭であっても他国の気象は油断が出来なかったようだ。
 このため土地の気象に熟知した地元の日和見をする人たちの判断を優先して、航海の安全を見きわめたようである。
 室津でも本陣や廻船問屋、それに船宿なども加わって日和見に習熟した人を選び出し、その予報を出港する船に伝えるのも主要な仕事であった。室津本陣の一つで薩摩屋の屋号をもつ高畠家史料に遠見屋嘉十郎・遠見屋嘉七郎などの屋号が見えるので、このころ設けられた遠見番所で遠見や日和見に従事した人がいたと考えられる。
ここで薩摩屋の当主孫九郎が書き残した資料に、日和を検討した文書が見えるので読み下し文で紹介してみよう。

一 御献上物御用に付き上村久兵衛殿、
  児玉角兵衛殿・有馬傳右衛門殿並び
  に下宰領御両人御登り成され、今月廿
一 日当津御舟成され候処、大西風に
  て昨日迄御見合い成され候へ共、中々
  播州灘御渡海成り難くに付き、則ち当
  地日和見之者召し呼び、御来航の船頭
  立会い、日和の儀吟味仕り候処、今
  廿三日中当灘渡海の天気決して御座無
  く候、之に依り、今朝卯の刻、当地よ
  り摂州大坂迄陸路御揚がり成され候処
  紛れ御座無く候、仍って一札くだんの
  如し
 播州室津御問屋
         さつまや 孫九郎
宝暦八年寅 十一月廿三日
    大坂薩州御蔵屋敷 御手形所

 つぎに、姫路の中島貞信氏が所蔵する室津の本陣肥後屋の文書と伝えられるものの中に日和札が数枚見受けられる。襖の下張ということから文書は断簡が多く、年号の記載のないものもあるが一部を紹介してみよう。なお熊本藩では日和見を重視、日和山には日和見専門の役人を常置して、専門家養成のために天気を入札させて競ったとの記事が『船・
地図・日和山』南波松太郎に詳しく記されているので、室津でも出船に先立ち熊本藩独自の方法で日和札の入札が行われていたことが伺える史料である。

日和札   豊田庄左衛門
 明廿三日之天気朝之内地嵐昼立候得ば北西風
 吹可申と奉存候已上 
  正月廿二日

日和札   大嶋彦左衛門
 明十七日天気やませ
 日和雨天付尤北東風吹可申様に奉存候已上 
  三月十六日

 さて日和山にはいくつかの条件が必要とされる。
・ 日和を見るために展望が利かなければならない。
・ 湾内を一望できなければならない。
・ 一日に何回も登るために村から遠くなく、高くなく駆け上がれれば  よい。
・ 出港する船の無事を願い見送るために湾に近接していた方が良い。
・ 入り船の帆印の確認などができる距離でなければならない。
・ 入り船にとって目印になるような山でなければならない。
  (例えば大きな木があったり、燈篭や番所などの建造物)
などなどである。室津の日和山はまさにこれらの条件を兼ね備えた山といえるだろう。
 この山では雲の動く早さや微妙な色や形、また風の動く方角や音、それに波のそよぎまで自然を注意深く見分けることが可能であり、港内が一望できる好立地である。目印となる山頂の燈篭堂近くには、長い航海を終えた船乗りたちが無事に帰ってくることを祈念した人びとがぬかずいた祠がきっとあったに違いない。
安全で先端技術を駆使した汽船の就行に加え、鉄道の開通という時代のうねりの波に、もはや日和見の必要が失せたとき登ることが少なくなった日和山の祠は、このころ賀茂神社の境内に移築されたのかも知れない。
 史料の無いままあえて推論を試みるならば、境内社の一つ橄取社がそれではないかと思える。由緒も知れず創立さえ不明とされる社の御祭神は、上筒之男、中筒之男、底筒之男の御三神である。面舵いっぱい、取り舵いっぱいの叫び声は海底の御祭神へ届いたのであろうか。 


posted by 早春 at 20:39| Comment(1) | 地名アラカルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月12日

日和山 ひよりやま 1

■たつの市御津町室津■

日和山・船でにぎわう室湊.jpg   湾を見下ろす警鐘台.JPG


 『播磨国風土記』に風を防ぐこと室のごとし故に名となす、と地名の由来を記されている室津は、向背に迫りくる山影をすり鉢のような湾面に映し、狭小な集落は当時とそう変わってはいない。古い時代から貴人たちの往来で賑わったのも、物流にともなう商人の寄港地として機能し得たのも、自然がもたらした地形の恩恵というべきであろうか。
 海には二つの岬がせり出し、一つの岬は賀茂神社が祀られる明神山、もう一つは藻振りの鼻と呼ばれる岬、鼻は端の替え字であろう。この岬には藻振りにちなみ「玉藻かる からかの嶋にあさりする ふねしもあれや家おもはざらん」の万葉の歌碑が建っている。二つの岬をつなぐような位置にある「日和山」は、標高44メートルの山頂にあった燈篭堂跡とともに山の好立地を示し、原存する室津の小字(こあざ)地名である。
 室津には室津千軒と囃(はや)された繁栄の時代があった。この繁栄をもたらしたのは、近世に始まった参勤交代の制度であり、日本海の湊を経由しながら蝦夷まで運航した北前船(ただしくはベザイ船)の主要な寄港地であったからだといえるだろう。この湊を飛び地として管轄する姫路藩では御茶屋を設立、参府のため江戸へ向かう朝鮮通信使をはじめ、オランダ・琉球など各国の上級使者たちの宿舎、および饗応接待の場所に充てた。
 しかしこれらによる支出の増大は藩の財政をきびしく悪化させたようである。
 そこで考え出されたのが綿の栽培で、良質の姫路木綿はその後全国に販路を広げ、窮迫した藩の経済を立て直すまでに成長した。このころ蝦夷のニシンは干鰯という魚肥に仕立てられ北前船で全国に運ばれた。農産物の飛躍的な収穫量の増大が見込まれた干鰯は、近郊の農村で急激に需要が伸び、各地の湊は活況を呈し全盛の時代を迎えることになるのである。魚肥を扱う廻船問屋は本陣を凌ぐほどの蔵を持ち、滞留した荷物が捌けるときまで蔵敷とよばれる保管料を取る業務をおこない、自前の船には古着や特産の塩などを積んで北国へと商いを続けるのであった。
             
posted by 早春 at 14:17| Comment(0) | 地名アラカルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。