2009年06月24日

北良  きとら

■姫路市飾東町塩崎■

天川橋.JPG   北良周辺.jpg


 暴れ川の異名をもつ天川の全長は18キロメートル、その中流域に位置する塩崎の北方に「北良」と書いて「きとら」と読む小字地名がある。文字のままの読みだと「きたら」ではないかとの問いかけに、地区の男性は頑(かたく)なに「きとら」ですとこだわりをみせる。
 「きとら」地名であれば、奈良県明日香村のキトラ古墳が平成10年3月に調査が行われ、石室内の壁画に彩色された四神と、精密な天空の星座が確認されて当時の新聞記事を賑わせた記憶がよみがえる。この古墳は昭和58年壁画があることが判り「亀(き)虎(とら)古墳」と命名されたいきさつがある。この亀虎の当て字について日本地名研究所所長池田正則氏は、「地域の小字名だった北浦が転訛してキトウラ、キトラになったもの。それなのに最近では江戸時代に古墳の中をのぞいた人が、亀と虎の壁画を見たからと」安易な当て字にたよる命名を否定され北浦説を説かれたが、皮肉なことに今回の調査で古墳内部には白虎だけでなく玄武までもが壁画中に存在して、安易な当て字ではなかったことが証明され「伝説にも一縷の真実有り」の言葉を今更のように噛みしめる。
 では同じ読みながら古墳の在りかも定かではない塩崎の北良(きとら)はどのような解釈がふさわしいのであろうか。北はそのまま方角を指す語に間違いはなさそうなので問題は「ラ」である。語尾にラのつく地名をみると良、等、羅などの当て字が多く、あちら、こちら、などと同じく方向を示す接尾語と考えられるので、集落の中心から見た北の方角が地名に定着したのではなかろうか。
 姫路市内の「ら」の付く地名は飾磨区構の「北ラ」上野田の「北ラ田」もあれば船津町の「東ラ」太市石倉には「西ラ」だってあり、そのほか数件にのぼる多さはすべて方角を示すラ地名であるから、「北良(きとら)」の読みはともかく方角地名と位置づけても無理はないだろう。
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2009年05月29日

大ソリ  おおそり

■姫路市継■

継北1信号付近.JPG  山中に鎮まる住吉神社.JPG



 風土記にいう継(つぎ)の潮(みなと)の比定地とされる継は、姫路バイパスで北方の視界をさえぎられているものの、見野廃寺跡や長塚古墳、姫路の石舞台と噂に高い見野古墳群など古代遺跡の宝庫に隣接する。
 このような背景に支えられる継の地名由来は、風土記に一人の女が死んだ、女を復(つぎ)生(い)かしたので継の名が起こったとするも、実のところ韓泊(福泊)からの舟運中継地の継(つぎ)湊(みなと)が名の起こりとの説も捨てがたい。
 入り海湊の名残は村内北西山中に住吉神社があることだろうか。竹林のトンネルをくぐり抜け住吉さんへの参詣を終えてだらだら坂を下ると、幹線道路312号線へ出る。「大ソリ」の該当地はここから南の「継・北」信号を東西にまたぎ、条里制度の地割りにならったと思(おぼ)しき水路で区切られる小区域である。
 ソリという地名はアラシだとかコバ地名と同様に、焼畑地名だといわれ『日本歴史地名総覧』は、焼畑はもともと山の急斜面を利用するので後地が荒れて崩壊することとは、焼畑の両側面であって崩壊地名をも意味すると記述する。なおソリという語は地方によってソウリ、ゾウレン、ソウジと種々に変化を遂げ、漢字表記をみると反・曾利・蔵連、太市石倉山中の「掃除」や御津町碇岩の「剃山(そりやま)」などは焼畑が終ってさっぱりと小綺麗(こぎれい)になった当時の状況がよみがえるようだ。しかし焼畑地名といっても一様でないことを柳田國男は『地名研究』の中で告げる「ソリは休んでいる土地であり畑を焼くことではなくして…」との一説から、ソリは焼畑そのものではないこと、その跡地の地力が肥料切れのために休ませた土地の状態の名であること。つまりこれまで焼畑を一括りにしての解釈だったソリ地名の奥深さに地名の多角的解釈がどこまで迫れるのか心許ない。
 市内のソリ地名は当地のほかに明田・広畑にもあって、明田には新羅(しらぎ)神社、広畑には播磨国と同じ「播磨」という遺称地名が残る。古代播磨の野が空が焼畑の炎で赤く染め上がった拓(ひら)けゆく時代を語る地名である。

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2009年05月11日

花見田 はなみだ

■姫路市勝原区丁■

花見田橋近くの両河川合流.JPG  下流平松大洪水の碑.JPG


 檀特山を北方に従えた勝(すぐり)部の里は、姫路市域で2番目の大きさを誇る瓢塚古墳をはじめ、丁古墳群など古代にさかのぼる歴史を重層して人びとの注目度は高く、これらの墳墓群に多かれ少なかれ影響を与えてきたのは大津茂川と西汐入川の両河川であろう。
 両河川が流れを一つにする合流地点に架かる「花見田橋」は、小字地名花見田から命名されたに違いない。それにもかかわらず橋近くはおろか近辺にも桜の樹らしきものは一本も見あたらないのはなぜなのだろうか。それはこの地が両河川の合流地点となるため、毎年のように洪水の被害になやまされた暴れ川にその訳があるようだ。
 林田町大堤の北方山中を源流として南下する二級河川大津茂川災害の歴史は、記録に残る明治以降だけでも枚挙にいとまがなく、明治17年 29・32・大正元年・7・昭和29年の台風時は堤防が切れて土砂が田に流れ込み、あたりは海のようになったという過去がある。ついで大きな被害に見舞われたのは昭和51年9月、台風17号による秋の集中豪雨のすさまじさはまだ人々の記憶に残り、下流域の平松に冠水の記憶をとどめる水位の碑が建てられている。
 そんな暴れ川にそぐわない華やかな「花見田」地名の解釈を、試しに「花」と「見田」に分けてみた。花の解釈は、川中に砂州が生れてその突端をあらわす地形語、端(はし)がこの場に似つかわしいだろう。端の文字は流れにいろどりを添える花に転換され、愛される地名として残りこの地の風景に花を添えた。また見田は、深田と書いてミタとも読むことから、三田の文字をあてがう地名もあって湿地地名の最たるものでその例証は多くあり、花見田は水害の起こりやすい危険な川端に付けられた災害地名と確信がもてる。
 暮らしに密着して生業(なりわい)をささえて来た川は、時に沿岸に恐怖をもたらす川であったが、それ以上に地域に秋の稔りをとどけ、高度な文化の起こりをうながした恵みの川でもあった。
posted by 早春 at 17:29| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月15日

渡来 わたらい

■姫路市北原■

旧名白髭明神社.JPG  松原井分水地点.JPG



 姫路駅前を出たバスが細い道を通り抜け阿保橋を過ぎたころ、眼前に市川左岸の平野部が広がりを見せてきた。この道筋は県道白浜・停車場線といい、間もなく田に水が引かれるという六月の午後、噂に聞くところの「糸引井」の分水地を訪ねる。
 分水地点は河川記号で住宅図に表され、奥山・継・東山分水は東へ、松原・中村・宇佐崎への流れは南方面へ伸びる農業灌漑用水で、この水路の開削を四世紀の中ごろと推測するむきもある。
 渡来という名の土地は分水基点の南西方向にあって、条里遺構とおぼしき水田が広がっていたのだが、開発がすすみ記憶に残る風景はもはや失われていた。近くで庭の手入れに余念のない男性は「ここは歴史なんか何もない田舎やでー」と気の毒そうに笑ったが、なんのなんの、農業用水を二方向へ分水という高い技術を持ち合わせた職業集団が、定住した形跡を秘めた歴史の宝庫、それが渡来(わたらい)という地名の起こりに違いないのにと一人呟(つぶや)く。
 県道を西へもどり、坂道をあがると広いグラウンドの脇に大歳神社がある。そこは通称藤の棚と呼ばれ、平坦地をあらわす「棚」と呼ばれる地名は、グラウンドの転換にもってこいの場所であったのだろう。大歳神社脇の小祠は元の名を白髭明神社と伝え、あまりの古社ゆえに祭神は判らないらしい。しかし白髭社であれば若光(じゃっこう)王(おう)を祀っていたに相違ないのだが、若光王は高句麗系の渡来人といわれ、王族の出身で高句麗滅亡の二年前(六六六)に日本に渡って来たと伝えられる。この王が祭神であれば、ここを開拓して定住の地と決めた人びとの出自は高句麗系と推測できる。
 それはとりもなおさず灌漑分水という高度な技術を引っさげて移住した集団であったはずである。そのころ南の白浜町はなお湿原状態の平野が広がり、分水堰築造を仕上げた渡来人集団は先駆的な鉄器を使用して石を削り、刻苦の末に切り拓いていったのだと確信がもてた。
posted by 早春 at 14:10| Comment(4) | 姫路市東部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月24日

蒲原  がまはら

■姫路市大津区天満■


天満の蓮根畑.JPG  天満 菅原神社跡の碑.JPG



 播磨灘一帯に広がる海辺の集落では古くから製塩が行われてきたが、江戸時代に入ると土砂の滞留など自然の作用の積み重ねにより、新田畑作りに適しているとして必然的にその汀(みぎわ)の様子を大きく変えて来た。塩作りに欠かせない海水を導入する澪(みお)だとか、塩害を防ぐための堤防や樋門などで守られた新田地先の天満の浜に、勘兵衛新田が生れると磯浜から遠ざかった農村にとって防潮堤は不必要となった。  
 付近の新田を併せて起こった天神町二丁目辺りが蒲原の該当地となろうか。堤防の役目を担っていた蒲原について『天満村地名考』の中で田村善太氏は、「村の最南端にあって縦割りの塩田を守るかのように東西に伸び面積は二町一反六畝一四歩」で、旧小字「蒲田」の土地を検地町の等級は「荒」となっていると記す。
海や川岸沿いに密生する蒲の付く地名は、往々にして蒲がよく生い茂る湿地帯であったなどの解釈で落ち着いてきたが、そうであれば海に囲まれた日本中に蒲田だとか蒲原、蒲生地名で覆いつくされるだろうから、それ以外の訳がきっとあるに違いない。
 『鉄の考古学』の真弓常忠氏は「古代の鉄の原料は砂鉄であろう。山手の砂鉄は雨水で流され、河川の流域に自然の選別で砂鉄層ができ、最終的には海辺へ流れ、海水で淘汰されると砂鉄層が形成される」ついで「水中の泥の中に地下茎をのばす蒲の根に純度の高い砂鉄、褐鉄鋼がよりつく」との説を述べ、辺りに菅原神社の存在があれば申し分ないという。
 西の長松村との境界の水路際集辺に黒田・安田・芋地・芦田それに蟹田「風土記」に記載される「なへ野(鍋野)」、旧小字(こあざ)地名も含めるとこんなに多くの産鉄との関わりを予想しうる地名が残っている、ということは、この地では原始的な「野たたら」製法で粗(あら)鉄(がね)を生み出していたのではなかろうか。想像ではあるが、なによりも地名が真実を語りかけていると考えるのだが。 
posted by 早春 at 14:44| Comment(0) | 姫路市西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする