明治十三年 架橋手伝人足辰一月七日より(水田家文書・原文一段)
藤田真海 四海宇兵衛 津田伊助 白谷小兵衛
山本宗兵衛 塩野一平 津田宗右衛門 松島弥三五郎
津田宗次郎 今栄徳三郎 森崎弥助 安部新兵衛
水田傳蔵 三木房吉 塩津仁兵衛 和田弥七郎
塩野清次郎 中山宗八 田村種八 三木孫四郎
中野秀次郎 中尾孟虎 高嶋伊右衛門 斉藤硯元
原村正重 大西庄三郎 紀野元吉 田村松四郎
酒井嘉十郎 清水四郎兵衛 木村義兵衛 加納庄五郎
竹田勇助 山崎甚兵衛 伊勢茂助 鹿児島徳松
田村吉兵衛 長沢利左衛門 平田千代蔵 肝田伊作
濱野傳兵衛 吉田百太郎 安井重右衛門 松島伊助
和田多三郎 稲田弥助 同 菊松 長沢熊吉
三木太右衛門 大江喜兵衛 苦瓜仁右衛門 今栄重次郎
香川源七 石井庄次郎 長沢六次郎 不二宗七
上村嘉右衛門 同 和兵衛 伊瀬栄五郎 和田善四郎
石井作兵衛 松本亀吉 山本太兵衛 上村伊助
三木清五郎
うミ町 三木清右衛門
中野町 水田傳蔵
周旋方 安部新兵衛
原村正重
田村吉兵衛
万治元年(1658)以来丸亀藩の一万石飛び地支配を受けた村々は、揖保川を立て軸として川東組と川西組に分れこれを統治する興浜陣屋との情報伝達に欠かせないにもかかわらず重要な場所に橋が無かったのは、架橋の技術はともあれ幕藩時代隣村との境となる川にむやみに橋を架けるのは軍事上ご法度であったことが最大の理由であった。明治という新しい時代をむかえ、他行を許された庶民の願いは自由気侭に対岸に渡りたいという地域の期待度は高かったに違いなく、陣屋をふくむ一帯が「字(あざ)本町」の名称であったため橋の名前はすんなりと「本町橋」に決定したと思える。
北の浜国道(250号線)に昭和35(1960)年3月網干大橋ができるまでの本町橋は、御津町に通じる唯一の橋で、室津行きのバスも車体を揺らしながらこの橋を渡っていた。
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